伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府京都市伏見区深草薮之内町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は単立神社となっている。
旧称は「稲荷神社」。1946年に現社名に改称した(後述)。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。
「伏見」を冠しているが、近代以降の市町村合併によって紀伊郡稲荷村→福稲村→深草村(のち深草町)を経て1931年に京都市伏見区となった経緯があり、伏見の中心部にある御香宮から北へ3 - 4km離れた場所にある。また、当社と御香宮のほぼ中間に藤森神社がある。
京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の3つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する。平安時代、東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守神となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与したという。
明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。
祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。
主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(1つの社殿に合祀する形)に祀っている。
稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。
摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている。
下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。
中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。江戸時代の国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメの御子神であり、四季を表す神とも考えられる。
「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のものが有名である。
この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、
とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。
上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。
なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている。
東寺などに伝わる文献では、以下のように空海と稲荷神の関係が伝承されている。これらの説話は平安時代初期を舞台としているが、文献自体の成立は14世紀頃である点には留意すべきである。
『稲荷大明神流記』などにはこうある。
また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では
とあり、当時伏見稲荷大社の社家であった荷田氏の出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた」。伝統的な社家には、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竃戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。縁起にある竜頭太は自ら稲荷山の山神を名乗り、「その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。」とあり、これは後光を背した羅刹天を想起させる。
天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日として初午大祭を興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中の午の日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上の卯の日、と定められていた。
延喜8年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社、また二十二社の上七社に列し、天慶5年(942年)に正一位が授けられた。当時は伊勢神宮は天皇以外による奉幣が禁止されており、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。平安時代の隆盛が『今昔物語』などにも見え、『枕草子』には初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある。こうして稲荷祭は下鴨の葵祭、八坂の祇園祭とならぶ人気を博し、貴顕からの奉幣も盛んに行われた。延久4年(1072年)には、初の行幸として、後三条天皇が訪れ、この後鎌倉時代まで、祇園社とあわせての両社行幸が恒例となった。
しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。
この頃になると、神仏習合が進み、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになる。また、それまで三座だった祭神が五座となる。前出の『稲荷大明神流記』には、
とある。
このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷の眷属とされる狐に関する伝承が現れている。
また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「九尾の狐」や「玉藻前」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持った荼枳尼天を併せた。由来についても様々に解釈や説話がある。
実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期を舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。空海の興した真言密教はこの頃には熊野の修験道とともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山の天台宗の密教とは内容が異なるとして、「台密」が京の鎮守であったのに対して「東密」はこの時代以降に「教王護国寺」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に郡司、郷司として、後には守護や地頭などとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。これに呼応するように全国に熊野社や稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。これらの説話は講を通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり眷属である狐を併せていくことになる。
この頃、地方領主や軍事貴族からの荘園の寄進の倣いが起こり、有力となった寺社が独自の僧兵や神人を持つようなると武家同士や寺社同士の争いに巻き込まれるようになる。社家一族のうち、羽倉氏はこの頃、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒して社家を継いだことが疑われているが、江戸期の国学の大家である荷田春満はこの氏族から出ている。
永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承が藤森神社に伝わっている。これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年(759年)から藤尾社という舎人親王、その父の天武天皇を祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した、現在の藤森にあった真幡寸神社を藤森から西に移した(現在の城南宮)、という。つまりそれまで稲荷社は稲荷山山中(現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。このことは、現在でも稲荷大社が藤森神社氏子圏のほぼ中央に位置し、かつ自身の氏子圏ははるか西方の東寺近辺に限られることからも首肯される。また清少納言が「枕草子」に記すところでは、稲荷参拝に際してあえぎあえぎ登山している様子がうかがえ、このころやはり稲荷社は山上の社であったと考えられる。現在、山中四つ辻から北に下る道を「御幸道」と呼び、さらにその下方に「車坂」の地名が残るのも、かつての参宮路の名残だと考えられる。なお、藤森神社には永享10年に将軍足利義教から寄進された重要文化財の「八幡宮」「大将軍社」2棟が建つが、これも義教による稲荷遷座に伴うものと推測される。応仁の乱が始まると、東軍の細川勝元側の足軽大将骨皮道賢が稲荷社に陣を置き、後方から西軍の山名宗全側を撹乱・攻撃するゲリラ戦を展開していたが、翌応仁2年(1468年)3月に西軍の攻撃を受けて道賢は討死し、稲荷社は山上の建物を含めてすべて焼きつくされた。
応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年(1486年)に起きた土一揆では伏見稲荷大社の神宮寺の役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。そこで伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺であった愛染寺を改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され、神仏習合が進んでいった。また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理、円阿弥によって諸国勧進も進められた。このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。伏見城を築城した豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、母の大政所の平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という。
戦国時代を経て江戸幕府を開いた徳川宗家は浄土宗に帰依し、幕僚として仕えた天海は天台宗の僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた。特に活発となった商いの成功(結願)を祈る商人には人気があった。狐が棲む穴ぐらを見つけては稲荷神を勧請する者まで現れる。併せて、勧請された稲荷神社に「正一位」を冠するものが出てくるのもこの頃である。これは徳川家康が死後東照宮へ神格化されて正一位を追贈されたように朝廷が認める神格の最高格を意味し、奉行所から当社へ名の使用について問い合わせがあったことも記されている。そして結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至るのである。また、江戸時代には境内に愛染寺の他に浄土宗の浄安寺と西光寺も設けられ、神仏習合の色合いは濃かった。
現在伏見稲荷大社の楼門内に、江戸時代に社家から出た国学の大家・荷田春満の旧宅が保存されている。隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)があるが、この神社は旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の摂末社ではなく独立した神社である。1903年(明治36年)に規模の割に高い社格の府社に列し、学問の神として信仰されている。
慶応4年(=明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは伏見中心部の御香宮に拠点を置いた新政府軍によって幕府軍の北上が阻止されており、御香宮から北へ離れた稲荷村の稲荷社は被害を免れた。しかし、同年の神仏分離・廃仏毀釈によって4月4日に愛染寺は閉門とされ、後に廃絶、翌5日には浄安寺と西光寺は廃絶、境内にあった仏堂に仏像、本殿内で祀られていた仏像も廃された。文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。
1871年(明治4年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。
文学者の坂口安吾は「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。」と評価している。
戦後の1946年(昭和21年)に近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化したが、神社本庁に入らずに独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。
表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。千本鳥居をはじめとする信者の寄進による鳥居は山中に約一万基あると言われる。本殿右には稲荷神明水がある。
神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m。3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。
参拝者の中には、「お塚」の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。
また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。
応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。お塚は、その周りを取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。
東寺の東、油小路東寺道交差点北西角に御旅所が所在する。
所在地:京都市南区西九条池ノ内町98。
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行した(『為房卿記』など)。『平治物語』でも平清盛が急な六波羅への警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだ藤原光俊の歌が残っている。
近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、トリップアドバイザーによる2013年の「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を、2014年の調査では広島平和記念資料館を抜いて1位を獲得。その後も2019年まで6年連続で1位となっている。駅のごく近くに赤い鳥居が続く非常に日本的な風景が広がり、拝観料不要で閉門時間が無く、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることなどから高評価を得ているとされる。平日のほとんどの日で外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、日没後も稲荷山に登る外国人が多くなっている。なお、本殿付近はライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で街灯が1晩中点灯されており夜間の参拝も容易である。ただし、イノシシが出没することがあり注意を呼びかける表示がある。
参道の右側に以前は参集殿という神社直営の宿泊施設があった。1963年(昭和38年)に建てられた老朽化した建物ではあったが、境内に安く宿泊でき部屋も広かったが、耐震基準を満たしていなかったこともあり2020年(令和2年)5月限りで閉館し既に解体された。
機関誌「朱」を発行している。内容は「稲荷」に関する論文・随想など。
所在地
拝観
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