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令制国


令制国


令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。現在は行政区分としての機能は失われ、単なる地理的区分となっている。ただし、その地理的区分としての機能も都道府県に取って代わられつつある。

令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ、こう)や府中といった。

用語

令制国が行政体・地理区分の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「国」とだけ呼ばれていた。後代の20世紀以降には「旧国」「旧国名」とも呼ばれることがある。律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語であり、1970年代から使用例が現れるが、1984年(昭和59年)2月に吉川弘文館から発行された『国史大辞典第4巻』では令制国のことは「国」の項目で説明されており、文中にも「令制国」と呼ぶといった説明はない。

なお、英語ではprovinceという語が当てられる。

令制国の成立

日本の古代には、令制国が成立する前に、土着した豪族が世襲して務める国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

『日本書紀』には、大化元年(645年)、難波宮で行われた大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、飛鳥京跡から出土した木簡削片に「伊勢国」「近淡□(海)」などと書かれていることが判っているので、『日本書紀』の記事に信を置けば大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたものと推測される。しかし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』にある大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、多くの令制国が確実に成立したと言えるのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からである。故に、令制国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となる。この間の段階的な制度変化の結果である可能性も高い。

令制国成立に伴い分割された国

  • 常陸国(常陸国、陸奥国)
  • 凡河内国(河内国(和泉国)、摂津国)
  • 丹波国(丹波国(丹後国)、但馬国)
  • 筑紫国(筑前国、筑後国)
  • 火国(肥前国、肥後国)
  • 豊国(豊前国、豊後国)

令制国成立以前国造の領域だったとされる、凡河内、丹波、筑紫、火、豊についてはその領域の分割と考えられるが、それ以外の国については厳密には令制国成立に伴う分割ではなく、それぞれ異なる経緯を経て成立していることに注意する必要がある。一方で、『日本書紀』には天武天皇の時代(683年から685年頃)に国境画定作業がまとまって行われた形跡があることから、その際に令制国成立に伴う分割を含めた五畿七道の編成が一気に行われた可能性もある。

古代

律令制確立直後の、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、元明天皇は、令制国毎に地誌『風土記』の編纂を命じ、風土記の編纂の中で、国・郡(こおり)・郷(さと)などの名前は、中国の2字地名にならい良い意味の漢字2字で表記するように指示した。これは「諸国郡郷名著好字令」(しょこくぐんごうめいちょこうじれい)または 「好字二字令」「好字令」とも呼ばれたもので、畿内と七道諸国の郡・郷の名に好字を付けるように命じられ、上毛野国・下毛野国・木国・粟国の国名が漢字2文字に統一された。

天平10年(738年)諸国の国郡図を進上させる。天平11年(739年)末頃から天平12年(740年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。天平時代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、天平13年(741年)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。

平安時代の延喜式には、各令制国の郡の個数が記載された。また、以下のように国力による分類(大国・上国・中国・下国)と都からの距離による分類(畿内・近国・中国・遠国)が行われた。

中近世

律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代には依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護の力が増大し、国衙の機構を吸収するに至った。それに伴い室町時代には守護による領国支配が進行した。こうして軍事警察権のみならず国の行政権も手にした守護を守護大名、彼らの国支配体制を守護領国制と呼ぶ。

戦国時代になると、律令時代からの行政体としての国はこれを構成した荘園や公領の実態の希薄化に伴い消滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、惣村や国人一揆といった在地の自治的結合を権力基盤として守護大名や守護代、有力な国人などから成長した戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。安土桃山時代と江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政体はなかった。ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた。また令制国全土あるいはそれに匹敵する大きさの領地をもつ大名を示す国主という家格が存在した。住所の表示には令制国が用いられ、欠かせない地理区分だった。

近現代

江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなった。

1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争(東北戦争)に敗戦した奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、明治政府は陸奥(むつ)国を磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥(りくおう)国の5国に、出羽国を羽前国・羽後国の2国に分割した。

戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年9月20日(明治2年8月15日)、和人地および蝦夷地(北州)に北海道11か国を新たに設け、これにより五畿七道から五畿八道とした。

1871年(明治4年)の廃藩置県後、清の冊封を受けながら、実際には薩摩藩のコントロール下に置かれていた琉球王国は、いわゆる琉球処分の過程で、1872年(明治5年)に琉球藩とされ、1879年(明治12年)には沖縄県とされたが、その後も地名としては引き続き琉球国と呼ばれた。ただし、この「琉球国」は便宜上の用法であり、令制国の1つではなく五畿八道にも含まれない

1902年(明治35年)までは令制国の範囲改定が行われたりしていたことから、少なくともこの年までは制度上も用いられていた。しかし、台湾・朝鮮などの外地には令制国は設定されなかった。また、いったん失ったのち日露戦争後南半分が日本領に復帰した樺太は大正期制定の共通法1条2項では内地と規定され、1943年(昭和18年)法令上の特例が廃止され名実ともに完全な内地となったものの、同様に新たな令制国は設定されなかった。

法令による廃止はされていないが、とりわけ戸籍や郵便などの地名表記から外されたことにより急速に廃れ、反対に府県は急速に定着した。現代では、同じ地名を呼び分けるときや(摂津本山駅←→長門本山駅など。鉄道では複数の県を結ぶ路線名に「小倉(豊前)と宮崎(日向)を結ぶ『日豊本線』」のように令制国名を用いることもある)、アイデンティティや愛着から積極的に自称する場合(長野県←→信州など)、地域名(泉州、筑豊など)、地域ブランド名など(讃岐うどん、但馬牛、薩摩焼など)に旧国名が利用されている。また、国の法令においても、北海道に存する同一の名称の郡を区別するため、「下級裁判所の設立及び管轄区域に関する法律」(昭和22年法律第63号)や「法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則」(平成13年法務省令第12号)は、令制国を使用している。大相撲では、番付の出身地表記を昭和22年(1947年)11月場所まで令制国名で表記していた。検定教科書である社会科の地図帳は検定を受けるには令制国を記載する必要があるため令制国が記載されているが、千島国を記載していないものがある。また、地図帳での令制国表示は、実質的に歴史教材としての意味合いでしかない。

前述の通り1902年以降令制国の範囲改定が行われていないが、都道府県は境界線の変更が行われているため範囲の差が広がりつつある(越境合併を参照)。

地名としての再使用 

1999年から2006年にかけて大規模に行われた市町村合併(いわゆる平成の大合併)において、新たに旧国名を冠した新設自治体が数多く誕生した。

しかしその内訳を見ると、名前通り元令制国の範囲全体もしくは大半を占めている自治体や令制国時代に国府が置かれていた自治体、国名の発祥の地を包括する自治体ばかりではなく(厳密に全体を占めているのは一島一自治体となった佐渡市・壱岐市・対馬市のみ)、上記のいずれにも当てはまらないにも関わらず、命名に際し対立を避けるために「借用」した自治体も少なくない。例として、2004年に静岡県の田方郡4町の合併で誕生した伊豆市は旧伊豆国北部の一部範囲に過ぎず、国府が置かれていた訳でもない(伊豆国府は現在の三島市にあったとされる)、いわゆる広域地名である。元々伊豆半島南部には東伊豆町・西伊豆町・南伊豆町が存在しており、さらに2005年には伊豆の国市が誕生したため「伊豆」を冠する自治体が5つ存在する結果となった。

山梨県では甲斐国にちなむ甲斐市と甲州市が誕生し、甲斐国府からその名が付いた甲府市(平成の大合併以前から存在)も相まって似た地名が乱立してしまっている。

令制国の数

令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。その数は68であるが、66とされることも多かった。この場合、対馬・壱岐が「嶋」として外れる。

例えば『平家物語』において平家の栄華ぶりを表す下りでは「日本秋津島は、纔(わず)かに六十六箇国、平家知行の国、卅(三十)余箇国、既に半国にこえたり」とされている。また、11か国を守護領国とした山名氏は、全国の6分の1の国を領したという意味で「六分一殿」と呼ばれた。「全国一宮一覧」など全ての国を列挙するような場合には、実際の国の数と合わないので、備前・備中・備後をまとめて吉備とする(ただし、備前から分かれた美作はそのまま)など無理に2国減らして66にすることも行われた。「六十余州」と表現することもあった。

明治初期に行われた分割や新設に伴い、全国の令制国の数は84となった。

国境の変更

中世にそれまで美濃国恵那郡に属していた「木曾」が信濃国筑摩郡に移されたことが知られているが、国境の変更時期については平安時代から戦国時代まで諸説ある。なお、現在の木曽郡は、昭和後期に西筑摩郡(明治期に東西に分割)が改称したものである。

安土桃山時代・江戸初期に河川の流路変更(瀬替え・改修を含む)に合わせて国境の変更が行われた。

  • 尾張国葉栗郡のうちの北部が美濃国へ編入され羽栗郡が発足した(木曽川の流路変更に合わせた)。
  • 下総国葛飾郡のうち、太日川(渡良瀬川の下流でほぼ南北中心線を南流し東京湾へ注いだ)より西側の地域(葛西)を武蔵国へ編入した(これをもって武蔵国葛飾郡が発足)。
  • 上野国(新田郡・邑楽郡など)・下野国(足利郡など)の境を東へ流れる矢場川(古代の渡良瀬川本流が流れた)を、館林市多々良から北東へ向かい開削し近世以降の渡良瀬川本流に合流させ、この新たな河道部分に合わせて上野国・下野国の国境も変更された。

1871年(明治4年)には摂津国と和泉国の国境が堺の大小路から大和川に変更された。

変遷

関連項目

  • 旧国名
  • 令制国一覧
  • 国郡里制
  • 五畿七道 - 令制国の上位区分
  • 境川
  • 廃藩置県
  • 都道府県
  • 近代以前の日本の人口統計
  • スウェーデンの地方 - スウェーデンにおける令制国と近似した地方区分
  • 大病院占拠 - 登場人物の名字が使用している。

脚注

注釈

出典

外部リンク

  • 江戸時代における令制国ごとの人口 - オランダユトレヒト大学図書館
  • 法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則 - e-Gov法令検索
  • 令制国資料集

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 令制国 by Wikipedia (Historical)