Aller au contenu principal

前田光高


前田光高


前田 光高(まえだ みつたか)は、加賀藩の第3代藩主。加賀前田家4代。第2代藩主・前田利常の長男。徳川家康、浅井長政・お市夫妻の外曾孫で、藩祖・前田利家の嫡孫である。

子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。

生涯

元和元年(1616年)11月20日、前田利光(のちの利常)の長男として生まれる。母は将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。

寛永6年(1629年)4月23日、元服し、母方の叔父にあたる将軍徳川家光より「松平」の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、松平筑前守光高と称する(逆に「光」の字を諱の下(二文字目)におくのを避けた父・利光は「利常」に改名している)。寛永16年(1639年)の父・利常の隠居に伴い、家督を継ぐ。富山藩、大聖寺藩の分封と、利常の隠居領22万石の確保のため、加賀藩領の石高は歴代藩主では最少の80万石となる。

寛永20年(1643年)、嫡男犬千代(のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の参勤で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。

正保2年(1645年)4月5日、大老酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死した。享年31(満29歳没)。

父・利常に先立つ死であった。家督および藩主の座は幼少の嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である利常がそれを補佐する体制がとられた。

法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。

人物・逸話

  • 第3代将軍徳川家光は母方の叔父にあたり、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時甥であるこの光高を後継者にしようとしたという。
  • 両親共美男美女と名高かった故にかなりの美男子と言われ、当時から家光の衆道(男色)相手をしていた時期もあったという噂が流れていた。
  • 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある。
  • 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は秀忠の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった。
  • 光高は下戸であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の福井藩主松平忠昌は酒豪であったが、江戸で向かいの屋敷に住んでいた光高が突然死すると、将軍家光は忠昌の健康を心配し、飲酒を控えるように伝えたが、忠昌は短冊に一編の狂歌を書いて、家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 この返事を受け取った家光は、忠昌だからしょうがない、とそのままとなった。ちなみに忠昌は光高の4ヵ月後に死亡した。

官職および位階等の履歴

※日付=旧暦

  • 寛永6年(1629年)4月23日 - 元服し、将軍徳川家光の偏諱を授かり光高と名乗る。正四位下左近衛権少将兼筑前守に叙任。
  • 寛永16年(1639年)4月23日 - 家督を継ぐ。

系譜

  • 父:前田利常(1594年 - 1658年)
  • 母:珠姫(1599年 - 1622年) - 徳川秀忠の次女
  • 正室:大姫(1627年 - 1656年) - 徳川家光の養女、徳川頼房の四女
    • 長男:前田綱紀(1643年 - 1724年)
    • 次男:万菊丸(1645年 - 1649年)

脚注

注釈

出典

Collection James Bond 007

参考文献

  • 山本博文『遊びをする将軍・踊る大名』教育出版〈江戸東京ライブラリー〉、2002年。ISBN 4316358901。 
  • 若林喜三郎『前田綱紀』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。ISBN 4-642-05058-2。 

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 前田光高 by Wikipedia (Historical)



ghbass