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倉富胤厚


倉富胤厚


倉富 胤厚(くらとみ たねあつ、文政12年3月18日(1829年4月21日) - 明治23年(1890年)6月30日)は、筑後国久留米藩領出身の儒者・政治家。通称は八兵衛、字は士簡、号は篤堂(とくどう)。

生涯

文政12年(1829年)、筑後国三潴郡大隈村(現・福岡県久留米市梅満町)の庄屋・園田為右衛門の次男として生まれる。幼名は熊三郎。

はじめ田主丸の重富縄山に儒学を学び、16歳で豊後日田の咸宜園に入門して広瀬淡窓に学んだ。なお、重富縄山も広瀬淡窓門下である。

18歳のとき、親族である竹野郡徳童村(現・久留米市田主丸町)の庄屋・倉富又市の婿となり、その後を継ぐ。慶応3年(1867年)には藩命を受けて、当時大宰府に滞在していた三条実美ら五卿(七卿落ち参照)の警護にあたっている。明治元年(1868年)、吉井(現・うきは市)の郷校・弘道館で儒学を講じるようになり、明治3年(1870年)には藩校・明善堂(福岡県立明善高等学校の前身)の教官に抜擢された。このとき、士族に列している。

明治7年(1874年)、次男の勇三郎とともに上京し、東京英語学校で漢文を教えた。翌明治8年(1875年)帰郷。明治12年(1879年)、福岡県会議員となり、翌13年(1880年)には県会議長となるが、この年議員を辞している。

明治23年(1890年)6月30日没。享年62。

系譜・家族

倉富氏は、中世肥前国の有力国人であった龍造寺氏の末裔といい、室町時代の後期に龍造寺胤家の子・胤知が筑後国竹野郡森部村(現・久留米市田主丸町)に移住したのが起こりと伝える。

  • 長男:倉富恒二郎(福岡県会議員・福岡日日新聞社長)
  • 次男:倉富勇三郎(枢密院議長・男爵)

参考文献

  • 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)
  • 佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書、2007年)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 倉富胤厚 by Wikipedia (Historical)