Aller au contenu principal

東映アニメーション


東映アニメーション


東映アニメーション株式会社(とうえいアニメーション、英: TOEI ANIMATION CO., LTD.)は、日本のアニメ制作会社。東映株式会社の連結子会社で、株式会社テレビ朝日の持分法適用関連会社。日本動画協会正会員。現存する日本のアニメ制作会社としては最も歴史が古い。

沿革

1940 - 1960年代

東映動画(東映アニメーション)は、東映の長年に亘る教育映画活動から生み出されたものである。同社の教育映画事業は1947年1月に東映の前身である東横映画に開発部が設置されたことに始まる。開発部は16mmで製作した教育映画を農山漁村での巡回上映を行う「十六ミリ映写隊」等の活動を行い、常時120班ほどの上映班が全国を巡回し、「東横16ミリ」と呼ばれ親しまれていたという。終戦直後には、講堂や映写機材も多くが戦災で不足していたことから、1940年代後半を中心に映画館への引率観覧が積極的に行われ、それは「映画教室」として全国的に波及していった。当時、この映画教育運動に最も積極的に取り込んでいたのは、後に東映動画に買収される日動映画社の前身、日本動画社と関係していた東宝教育映画部であった。

そこで主要なプログラムとして盛んに上映されていたのは、『捨て猫トラちゃん』や『ムクの木の話』といった短編アニメーションであった。教育映画と映画会社の関係は、東映のみならず、1910年代後半の国産アニメーションの登場直後から密接に関わり、日本製アニメーションも「教育映画のサブジャンル」という位置付けを強く担っていた。東映でも社長の大川博が教育映画に強い関心を寄せ、1954年に教育映画祭が開始されるなど、教育映画が社会的脚光を浴び始めたこともあり、同年9月、東映でも教育映画の自主製作を始めた。「十六ミリ映写隊」は「営業部十六ミリ映画課」と名称を変えていたが、1954年9月に設置された教育映画自主製作配給委員会での検討を経て、「営業部十六ミリ映画課」は「十六ミリ映画部」として独立し、1955年6月に「教育映画部」と格上げされた。教育映画製作は興行映画に比して事業規模も低く製作費も安く抑えられていた。また劇映画が常設館での上映に対して、教育映画は学校や公民館などでの不定期な上映に依存していた。しかし当時は映画自体を教育上好ましくないとみなし、学童、学生の映画館入場に厳しい視線を向ける地域も少なくなく、特に当時の東映が得意としていた剣戟主体の時代劇は俗悪と見られがちで、これと対照的な教育映画を製作・配給することは、東映にとって社会的地位や評価の向上をもたらすもので、こうした背景から教育映画が劇場の上映プログラムに組み込まれるようになった。このような歴史を経て「教育映画部」の中でアニメーション映画が注目され、1955年3月31日に東映内で「漫画映画自主製作委員会」が開かれ、「十六ミリ映画部」による教育用のアニメーション映画『うかれバイオリン』の制作が決まり、日動映画へ製作が委託された。

日本動画株式会社は、1948年1月、政岡憲三、山本善次郎らにより設立され、設立当初は新宿の成城高校の空き教室約60坪を根拠地に制作が行われた。1952年8月、日動映画株式会社に商号変更していた。

ディズニーのアニメーションが日本で公開されたのは1950年で、『白雪姫』が最初であった。豊かな物語と縦横無尽に躍動するキャラクター、緻密な作画に極彩色に彩られた画面は、日本の観客に衝撃を与えた。手塚治虫は毎日映画館に通いつめ、繰り返し観たといわれる。ディズニーの長編は日本が戦時体制に入っていたため、日本では戦後に至るまで公開されず、『白雪姫』を皮切りに次ぎ次ぎとディズニーアニメが日本で公開された。ディズニー長編公開の意義は、アニメーションが商業的に成功し得ることを知らしめた点にあった。それ以前の国産アニメーションは、ほとんどが短編で、映画館での添え物的な扱いか、学校での視聴覚教育用などの配給に過ぎず、マーケットは零細であった。

1955年、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね、「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた。今田は東映の新規事業拡大に多く関わった重役であった。大川は映画はズブの素人で、映画にはあまり関心がなかったとされるが、教育事業には強い関心を寄せており、1955年10月完成の『うかれバイオリン』を大川が気に入り、日動映画の買収を決めたという。大川がアニメーションの参入にどれほど真剣であったかは、本人の発言や回想からははっきりしない。『白雪姫』の製作費は約148万8,000ドルと、昔も今も長編アニメの製作には莫大なお金も時間もかかることから、徹底的な低予算主義を進めた大川がディズニーを目指すとは考えにくいことから、1950年の黒澤明監督『羅生門』が第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲ったことで、劇映画に比べて無国籍性が強いアニメーションなら海外輸出ができるのではないかと考えたとする見方もある。

1956年1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川社長で、副委員長・山崎季四郎、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長や、今田智憲営業課長らが任命された。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品(版権商品)販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。今田の意見を認めなかった山崎季四郎常務取締役(教育映画部担当)は、制作実態の把握から予算編成まで曖昧なまま見切り発車させた。いざ制作が始まると、制作コストは予算の2-3倍に膨張し、以降も赤字体質が常態化して行く。

同年8月、東映が日動映画を買収。日動映画は機材も少しで人員も30人で企業価値も低く、買収額は100万円と、東映にしては同社の買収は大したエポックでもなかった。東映動画の公式サイトの同社沿革でも日動映画の設立から歴史が始まっているが、東映動画にとっては日動映画が前身ということではなく、日動映画を買収したことにより、大川博や今田智憲、山崎季四郎、赤川孝一らが、教育映画のラインナップとバリエーションを充実化する手段としてアニメーション映画に注目する切っ掛けの一つになっただけに過ぎない。1956年8月1日、東映動画株式会社が発足した。設立に森康二、藪下泰司らも参加した。これ以前にも商業アニメーションは細々と存在したが、東映が買収したことで初めて日本のアニメーションに光が当たった。発足当時の35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。

発足から4ヵ月後の1956年12月、まだ武蔵野の面影が残る閑静な東京都練馬区の東映東京撮影所南側に隣接してスタジオが完成。延建坪330坪。東映動画は1957年1月9日、この新スタジオに移転。日本に於ける本格的アニメーションの製作が開始された。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生、楠部大吉郎らがいた。スタジオ竣工時就業人員80人。また1958年から手塚治虫が『西遊記』の製作のために嘱託として参加している。1958年延建坪500坪。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる。東映動画の遺伝子は後の日本のアニメーションの歴史に大きな影響力を持った。岡田茂は「東映が日本のアニメーターを養成したようなもの」と述べている。

新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工して同年4月10日に竣工し、その2年後の1959年6月15日には第2次増設工事竣工。延建坪850坪に拡大され。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーション(テレビ漫画)の制作に対応するため1964年6月2日には第3次増設工事が竣工して現在のスタジオに成長した。

スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、まず手慣らしとして旧日動映画スタッフの指導の下で1957年5月、初の短編作品『こねこのらくがき』を制作した。続いて1958年10月には『白蛇伝』を完成した。日本でテレビ放送が始まって5年8ヵ月後のことで、当時としては破格の製作費4000万円、製作期間9ヶ月を費やした。東映動画は「日本でもここまでできる」と後進を刺激し、家内制手工業の動画制作を近代産業に発展させ、同時に日本アニメーションの戦後を終わらせた。

藪下泰司によれば、日本の動画の正統が手工業的な日動映画から、近代的な東映動画に引き継がれていく中で最も大きく変わったのが製作技術と述べており、「東映以前の漫画は、画家が描きながらアイデアを作っていた。そこには演出はなかった。画家にはカット割りとか、カメラアングルの定石も分からなかった。ところが企画・脚本・演出・原画という分化が行われるにつれて、アクションの設定なども入ってきて、動画が著しく映画的になった」などと論じている。動画の特徴として同じアイデアを二度繰り返すことが出来ない、東映時代劇など、映画では監督と俳優を代えれば、同じことを繰り返すことが出来るが、動画はスターがいないため、繰り返しは出来ない。また製作期間が一年かかる動画はアイデアが古くなりやすい等がある。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映動画の長編時代が築かれた。輸出向けに日本人の顔や言語のデメリットを克服する漫画映画は、子供向けの壁を超えて、家族映画のマーケットを確保していく。社員総数は1959年には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメの制作に100名が従事しており、東映動画の主たる仕事は常にCMアニメの制作であった。

1961年、虫プロダクションが設立されると手塚治虫にアニメ制作の才能を請われたアニメーターたちが虫プロにスカウトされたり、両方の作業をするという混乱期があった。虫プロは設立に当たり、人材の大半を東映動画からの引き抜きに依存した。東映動画という先行者がなしでは、虫プロも手際よく発足し、設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズをスタートさせることはできなかった。一時期の虫プロは、東映動画のスタジオが一部分そのままそっくり移転したかのような様相を呈した。東映動画は作画関係者だけに限らず、演出家、美術家、カラープランナー、カメラマン、プロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画はアニメーション業界に、人材をつぎつぎと送り込む供給源になっていった。手塚も『西遊記』『シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ、実際の作業の現場を経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした。東映動画に残ったクリエーターの多くは劇場公開アニメーションの制作など、東映動画の従来のアニメ制作の方針に拘った者であった。

当時、連続テレビ漫画番組は制作に占める人件費の割合が多く、テレビ劇映画に比べて三倍の制作費がかかるといわれ、毎週テレビ放送されるアニメシリーズの制作を企画したプロダクションやテレビ局はなかった。手塚は破格の安値で明治製菓に「鉄腕アトム」のスポンサーになってもらい、低い放映権料で番組制作を請け負った。赤字分は自分の漫画の収入で補填した。手塚は「漫画は本妻、アニメは愛人」と冗談半分に言った。このしわ寄せで「鉄腕アトム」の作業者(アニメーター)は徹夜に近い作業の連続。「アニメーターは低賃金で長時間労働、好きでなければやっていられない」という産業構造を生み、手塚アニメの安値受注が業界の水準となったため、後々までアニメ業界は受注金額が低く抑えられる状態が続くことになった。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌に掲載された漫画作品を元にすれば知名度の点から人気が取れることが分かり、動画の技術としては手抜きな作品であっても視聴率が取れるとされ、東映が劇場用で目指したのとは異なる種類のマーケットが確立し、拡大していくことになった。

『白蛇伝』の制作から、急ピッチに労働が強化され始めて、会社側も「7月までに仕上げぬと、日動の連中はクビだ」と暴言を吐いた。『白蛇伝』を機会に芸術家たちの団結が進み、1958年10月に密かに組合準備委員会が作られ、1959年3月25日、終業時間とともにスタジオを出た約140人は、練馬区医師会館に集合し、労働組合の結成大会がもたれた。当時のスタジオ・メンバーの大部分が参加したのに会社側はそれまで何も知らず、管理課長さえも「なぜこんなに早く帰るのか」と不思議そうな顔をしていたという。翌日、決議された要求は高橋勇(高橋秀行)東映専務兼東映動画所長に提出されたが、高橋所長は組合員全員を動画試写室に集めて「組合は認めない。そういう人はウチから出て行って欲しい」と頑迷さを丸出しにした。続いて組合幹部を呼び出し、一日中入れ代わり立ち代わりに動画幹部が詰問を行い、入社時の保証人を通じて反省を求め、各部課長が組合員の自宅を訪問して切り崩しをして回った。1959年3月28日に高橋所長が全員を集合させ「場合によってはスタジオを閉める。東映にとってはそれくらいは何でもない、東映にはそれくらいの金はある。半年ほど閉めて、新規採用者を再教育する」と圧力をかけてきた。これら一連の切り崩し策が成功したと見るや会社側は、最後に組合員の要求をすり替える方式を執って組合にトドメを刺した。会社側は「要求が通ればそれでいいのだろう。要求を聞こうではないか」と言い出し、稚い経験のない組合幹部たちは31項目の要求事項を会社に提出したが、「個人の事情を極端に無視した残業命令は出さないでほしい」「残業のときには、夕食を支給してほしい」「ラッシュを休憩時間に見せるのはやめて、作業時間中に見せてほしい」「昼休みの行動を制限しないでほしい」「課長の職権乱用を禁止してほしい」などと、他の大企業ではすでに姿を消しているような要求で、当時の東映動画の悪い労働条件が浮き彫りになった。女性社員は入社時に「子どもが産まれたら退職する」という誓約書を書かされていて、この誓約書の撤回に二年を要した。高橋所長はこれらの要求を受け取り、「要求は実行するが、労働組合は認められない。組合はやめて、社員懇談会を作れ。今回の問題で処分者は出さない。労組は大会を開いて解散すること」と逆要求をたたきつけ、すでに内部を切り崩されていた組合はもろくも崩れ去り、1959年3月31日朝、圧倒的多数で会社側の要求を飲んだ。"社員懇談会"の発案は大川博である。組合結成から僅か6日間であった。組合側にとっても、トレエスや彩色の主力である女性群は、経済的な要求があるわけではなく、管理者が"職権を乱用して"過度の親愛の情"を示すことに反撥を感じて組合を支持していたので、それさえ無くなればよいという考えだけで、組合に結集する意欲を急速に失った。会社側が強硬態度を執った背景には、労組が出来ることを極度に嫌ったという事情があった。東映は1958年5月にアメリカの動画製作会社・ヒッツ・インコーポレーテッドと3年の合作協定を結んでおり、同社の社長ハーマンは、ワーナー・ブラザースの動画部を作った人で、アメリカのメジャーとも関係が深く、労組の結成は合作協定に影響することを恐れたとされる。会社側は組合側の要求に対して「誠意をもってやる」と厳かに誓ったが、現実に一年間に挙げた成果は午後3時に休憩時間を15分獲得しただけであった。会社側はこの勝利をもとにさらに積極的に職場規律の確立と合理化を進めた。1961年7月19日に公開された『安寿と厨子王丸』のベタ褒め批評が『週刊〇〇』に載った。それを元組合員が職場に持ち込み、記事の余白に「マスコミがこういうふうに馬鹿だから、悪い映画が日本にはびこる」「バカがバカを呼び、一番バカを見るのはおれたちだ」などと落書きしていたら、たまたま会社の幹部に見つかり「会社の仕事にケチを付けた」と怒り、それをひったくって所長室に駆け込み、元組合員も殺気立って所長室になだれ込み、「返せ」「返さない」で大揉し、元組合員が『週刊〇〇』を取り返した。当時『シンドバッドの冒険』が製作進行中であったが、この作品に対しても会社側はかなり強硬な残業指令を出して来ており、この頃から動画の従業員は、激務から入院する者、辞めて行く者が相次いだ。

1961年秋に東映動画に正式に労働組合が結成され、1962年10月、東映東京撮影所の敷地内に置く東映動画、東映テレビ・プロダクションなどの組合員を糾合して全東映労連が結成される。過密労働と低賃金の改善という一般的な労組の目的の他、作品本数や出来高で賃金を払う契約者と呼ばれる個人請負の労働者の待遇改善、東映本社が企画権を握り、漫画映画らしい作品の企画とその制作が制限されている状況を打開したい等の要求が増していく。1959年就業人員270人。1964年就業人員575人、売上約5億円。同年の東映は、就業人員2149人で売上約120億円。1963年頃から赤字を出し始めた。東映動画は1965年から以降、1991年までの26年間、正規社員を採用せず、その間の不足する人材を契約社員で埋めていく。結果、今日のように多種多様の雇用形態が存在することになった。アニメーションの制作は、実写作品より多くの人員と長期の期間を必要とするため能率が低い。不採算要因は他にもあるが、やはり人件費の問題は重く捉えられ、その後様々な対策が図られ、それは動画の職員たちに有形無形に波及した。時には様々な工夫を生み出し、或いは未解決のまま引き継がれ、場合によっては重大な破綻をもたらした。2019年度前期に放送された広瀬すず主演のNHK朝ドラ『なつぞら』では、組合運動は無視されたが、高畑勲と宮崎駿は仕事ではなく、組合活動を通じて交流するになったもので、1965年10月から1966年9月まで、宮崎が労組の第5代書記長、高畑が副委員長でコンビを組んだ。宮崎は東映での組合活動は意義深いものであったと後に回想し「自分の最終卒業校は東映動画労働組合。ここで勉強したことが役立っている」と話した。1960年代後半に奥山玲子が労組初代婦人部長。

1960年代はテレビの普及に伴い、劇場用アニメーションからテレビ用アニメーションへ主流が交代していった時代であったが、この時代にNET、東映動画にとって、ともに初のテレビオリジナルアニメ作品となる『狼少年ケン』や『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』『ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』などを手掛け、テレビ用アニメーションの市民権獲得に貢献した。東映動画がテレビシリーズ制作を開始した具体的な切っ掛けは、代理店業務の強化を図っていた東映商事(現・東映エージエンシー)が森永製菓のスポンサードを取り付け、東映動画に持ち込んだことにあった。『狼少年ケン』の成功は、東映商事にとっても明るい門出となった。これを切っ掛けに東映本社は、原価のかからない再映作品に、多少の経費でできるテレビアニメのブローアップ(画面の引き伸ばし)上映が、多額の経費が掛かる一般映画よりも興行収入が上がり、関連商品の売り上げも大きいことで、テレビアニメに映画興行の新たな商機を見出し、春、夏、冬の学校の長期間の休みには子供向けのまんが映画「東映まんがまつり」を製作、上映することを決めたといわれる。東映動画が主体的に関わった「東映まんがまつり」で育った親たちが、自分の子供たちを安心して連れて来れる「まんがまつり」に連れて行ったという評価もある。

『ガリバーの宇宙旅行』が製作された1965年2月から毎週テレビ番組『狼少年ケン』、当時興った忍者ブームの一翼を担った『少年忍者風のフジ丸』、『宇宙パトロールホッパ』の三本製作態勢に入ったため、業界関係者からは長編動画の製作は事実上終了だろうと見られた。時間も手間もかかる長編動画は群小プロには製作は不可能で、東映動画一社だけが長編動画の製作を続けていた。1965年に親会社である東映が定期採用を止めたことに倣い、東映動画も1965年を最後に正社員の定期採用を中止し、以降1991年まで26年間採用をしなかった。これに伴い、1965年から長編動画製作は、原則として正社員の作画職が従事し、テレビアニメ製作は、作業量に基づいて個人別に業務委託契約を結ぶ契約者が行うことが定められた。これはスポンサー動向からの影響を受けるテレビアニメ製作と違い、東映本社を発注元とする長編動画製作は、東映動画の経営能力を証明しなければならないという特徴を持つものであったからである。

東映本体は邦画市場の縮小に対し、1964年に東映娯楽版の制作を停止し、1965年から製作本数削減への対策として一本立て大作の強化を宣言した。しかしその第一弾『冷飯とおさんとちゃん』など数本の芸術映画が不入りに終り、館主会から「もっと娯楽作品に重点を」という意見が出たことから、従来の二本立て路線へ回帰した。東映動画の長編製作は、この方針のもとで再編を余儀なくされた。当時の東映動画の長編は8000万から9000万円の受注額で制作されていたが、これは劇映画の高い方の額に比肩する規模であった。こうして東映本体に本数削減と予算の引き締めが実施されたのに対し、東映動画の制作体制については、増産の実現と生産効率を上げることでコストを抑圧するという判断が下された。1966年(昭和41年)内に完成予定であった長編は『ふしぎな世界の大冒険』(『少年ジャックと魔法使い』)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』と60分程度の中編「B作」であったが、長編2本は年内に完成しなかった。

この「B作」は白川大作の提言で、夏休みのまんがまつりから、長編動画の呼び名「A作」に対して、「A作」とTVアニメの中間に位置する「B作」と呼んだ60分前後の中編『サイボーグ009』がプログラムに加えられた。これが他作品と合わせて大ヒットしたことで、テレビアニメや人気漫画原作の低予算映画に観客のニーズが高いと判断され、長編動画の存在意義が激しく揺らいだ。長編動画の製作がなお続けられたのは、長編動画が日本の映画文化に果たした業績も極めて大きく、長編動画を楽しみにしている子供たちもいる、長編製作の火を消してはならない、長編動画は東映の良心、という考えが大川社長にあり、大塚康生は「大川社長は脚本もよく読んでなかったんじゃないかでしょうか。『君たち、任せたよ』という感じでね。これは作り手にとって一番いいタイプの経営者であり、一番怖い経営者でもある」などと話しているが、長編動画を含めた東映動画の赤字は大川が黙認することで不問に付されていたといわれる。1969年売上高約9億円、営業利益が約500万円。1970年から制作赤字が発生しはじめ、1971年からは連続して売上高の10%程度の赤字を発生させた。

東映動画の外部導入は1966年から始まる石ノ森章太郎とのコラボレーション『サイボーグ009』から漫画家との企画段階からの共同作業に至り、『仮面ライダー』の変身ブームや、永井豪とのコラボ『マジンガーZ』はロボットアニメの興隆を生み出した。白川大作東映動画企画課長がスタジオ・ゼロへ原案を発注し、1966年からスタートした『レインボー戦隊ロビン』は、鈴木伸一、石森章太郎、藤子不二雄、つのだじろうの売れっ子漫画家5人が企画を練ったもので、これが後の『秘密戦隊ゴレンジャー』に繋がる"戦隊物"のはじまりといわれる。同年5月からスタートした『海賊王子』で古谷徹が声優デビューした。12月からスタートした『魔法使いサリー』は、日本初の少女が主役のテレビアニメである(東映魔女っ子シリーズ第1作)。1968年1月スタートの『ゲゲゲの鬼太郎』は、原作者水木しげると話し合い、タイトルの変更を検討、内容も子供向けにソフトアレンジし、初めてフジテレビ(CX)と交渉した結果、放映に漕ぎつけたものであった。1969年には赤塚不二夫原作の『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』や、『タイガーマスク』、1970年『キックの鬼』『アパッチ野球軍』などをスタートさせた。シリーズ初の東映動画オリジナル原作「東映魔女っ子シリーズ」第3弾『魔法のマコちゃん』で神谷明が声優デビューした。

東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。

1970 - 1990年代

大川博が1971年8月に逝去し、後任として東映社長に就任した岡田茂は(同月兼東映動画会長)躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行した。大川の後を継いだ岡田は大川時代・旧体制の産物を再審に付した。事業の多角化は大川時代から行っていたが、岡田は東映社長就任後の1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き、邦画不況という当時の映画を取り巻く厳しい状況もあり、経営多角化をさらに推進させた。「独立採算制の強化と部内別収益性の高揚、権限の分割・委譲による事後処理の簡素化を促進」を目的とし、経営多角化の新規事業でサラ金や、葬儀屋、クラブ経営、出版事業(『テレビランド』など)、東映太秦映画村、アニメショップ(アニメポリス・ペロ)などに手を拡げる一方、東映動画などの既存の傍系会社にも自主独立の姿勢を求めた。岡田は東映動画労組との団交の席上「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した。当時東映は映画製作ではただ一社黒字を出していたが、岡田は赤字会社に350人もの従業員がいることを問題視し、このまま東映動画を放っておくと他のセクションに悪い影響が拡がると判断、「最悪の場合解散も止むをえない」という姿勢で対応を行った。岡田は恫喝、泣き落とし、逃走、俳優全員の前で土下座とあらゆる手を使って、専属契約を結んでいたベテランの時代劇俳優・脚本家・監督を根こそぎ切り、京都撮影所の従業員数を2100人から900人に減らしたこともある東映の長年の労務担当者でもあった。この頃長編動画の製作コストが上昇して作れば作るほど赤字を出していた。東映動画は累積で赤字を3億円出して倒産寸前であった。

東映労組(東制労)の強力な拠点となっていた東映動画には、責任者として行くことを皆嫌がったが、岡田はギブアップして病気療養中の高橋勇社長に替えて、元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え、強硬なリストラを命じた。岡田はそれまで年二本制作されていた長編を年一作品に、年3シリーズだったテレビ作品を2シリーズに減らすという方針を打ち出し、従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集。希望者がない場合は指名解雇に踏み切る態度を匂わせ、また組合の強硬手段を計算に入れ、買い取り作品で番組編成を行うなど対戦の長期化に備えた。労組は激しく反発し、東映東京撮影所に機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され、約120名が退職し東映動画は存続した。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及び、労使とも深い傷を残した修羅場の二ヵ年であった。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズと東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つで、東映動画は関連会社で最も赤字幅が大きかったが、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した。岡田が東映動画の独立採算体制を厳格に打ち出したことで、1971年の『どうぶつ宝島』で長編動画製作は終了。『太陽の王子 ホルスの大冒険』の制作遅延や興行不振で仕事を干していた高畑勲には演出の機会を与えず、岡田から退社勧告を受けた森康二ら、結果として長編を中心に自社で養成し活躍して来たクリエーターの多くは将来の展望を閉ざされ、他のプロダクションに移るなどで東映動画を去った。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により、1970年代はじめに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃されて、1981年に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復し、1990年半ばに東映グループの稼ぎ頭になった。登石、今田とその後の泊懋で、合計32年間動画の社長を務めた三人は、いずれも岡田から「お前、動画の社長やれ」と強要されたものであった。登石の前に大川博の指名で動画の社長を務めた高橋勇は、労働三法を全く知らず、労務管理の全然できない人で、行く先々で労使交渉に敗北して、にっちもさっちもいかなくなり、毎回岡田が尻拭いを行った。

1970年代に入ると人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作に推されて、コストのかさむ劇場用長編作品の制作は縮小されていった。大手の制作会社というイメージが、仕事を安心して任せられる印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く入るようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が独立した内容で単発の長編動画よりも利益幅が大きかった。岡田茂が各部門に経営の引き締めを強化したことも拍車をかけ、制作の中心はテレビシリーズへと移り、劇場用作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入るようになったことで東映動画の長編時代は1971年春の『どうぶつ宝島』を最後に終焉を迎えた。東映動画に特有の執着を持たない岡田体制では、コストの高いアニメーション映画製作の見直しが進んだ。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年からは韓国への制作委託を開始した。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。 

大川博の息子・大川毅と反りが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が盟友・岡田に呼び戻され1974年に東映の社長に就任すると、岡田が東映動画の整理で組合と大揉めしていた時期に、一度東映を出た人がまた帰ってくるとは大川社長時代では考えられないことで、組合を抑えた岡田の力量も相当なものであるが、岡田としても今田が東映動画の再建に失敗するようであると自らの任命責任を追及されるところであった。今田は岡田との個人的親交によって、自らの裁量に基づいた独自の経営を可能にした。今田は1993年まで、歴代最長の20年間東映動画の社長を務め、この間一度も赤字を出すことなく、東映ビデオの社長も16年間兼任しながら大きな功績を残した。今田はそれまでの強硬路線と違い、柔軟路線をとり労組に対応。裁判での敗訴を予想し、和解交渉を持ち掛け、先のリストラ時の解雇者の中で裁判に訴えていた18名の解雇を取り消して労使は和解し、労組問題に揺れた東映動画を立て直す。続いて制作の赤字構造の改善に向けた経営方針として、東映動画の組織改編を行い、(1)版権ビジネス・キャラクター商品化の営業強化、(2)海外への販路拡大、(3)制作を下請け化して、その下請けプロを管理する、(4)海外にも下請けを拡大させる、(5)技術革新で省力化を図る、などを示した。その後に今田の施策は続々と実現されていった。

1972年に放映開始した永井豪とのコラボレーション『マジンガーZ』に始まる"巨大ロボットもの"で一時代を築いた。初期長編の朗らかな作品世界とは一変し、劇画タッチの荒々しいメカアクションは、超合金ロボットという玩具の分野を合わせて開拓し、男児向けアニメの一大ジャンルとなった。これ以前にも実写のキャラクター商品はあったが、アニメのテレビ放映に合わせてヒットしたキャラクター商品は『マジンガーZ』が初めてであり、これ以降、アニメ作品の二次利用(版権利用)が大きな収益を生むビジネスモデルとして定着した。またそれまではアニメが放映されて人気を博したところでキャラクター商品が投入されていたが、『マジンガーZ』では放映開始と同時に行なわれた。これはテレビ放映権料が値上がりしたため、それまでのお菓子メーカーなど、子供向けアニメのスポンサー以外の業種にも広げてスポンサーを獲得せねばならなくなり、『マジンガーZ』の広告を担当した旭通信社が放映開始と同時にキャラクター商品を出すことを条件にスポンサーを納得させたものであった。アニメの歴史はビジネス面ではいかにして採算をとるかの挑戦でもあったが、良い作品を作っても採算が取れずに倒産した製作会社の多い中で、いち早く玩具メーカーと連携して関連グッズから利益を生み出すビジネスモデルを確立させた。

多くの場合、漫画家は主要なアイデアマンとして基本的な設定やデザイン、ストーリーラインなどを提供し、「原作者」としてクレジットされたが、テレビシリーズの具体的なストーリー展開には、東映動画やマーチャンダイジングを行うスポンサー側の意向も反映され、マンガを基にテレビシリーズが制作されるのではなく、アニメーション制作会社が漫画家やスポンサー、テレビ局や代理店などとともに共同で企画を立案、或いは漫画家側に企画案が提供されることもある。この無形の企画からテレビアニメ、玩具、マンガが派生する。また、東映テレビ事業部に新設されたテレビ関連事業室が企画編集に携わった雑誌『テレビランド』などのテレビ情報誌・児童誌で盛んに特集記事を載せ、出版社や漫画家に依存することなく、東映自体でメディアミックス展開をさせた。

東映の版権事業は、1960年の『西遊記』が始まりとされ、以降も東映動画とテレビ部門の特撮テレビものなどで多くの人気商品を生んだが、今田の社長就任以降に版権事業は大きく伸長し、年々事業規模が拡大した。東映動画再建の大きな分岐点となったのは1975年に岡田が東映動画とテレビ部門など、東映グループの版権事業を東映本社に一括して集約しようとしたことであった。これらの制作事業はすべて東映本社を通して受注されていて、基本的に東映側に諸権利が集約されており、本来、拒否は出来なかったが、今田が「それでは動画の自主的な経営が崩れる。版権は再建の生命線で渡せない」などと強く主張。この主張は岡田の掲げた独立採算制の発想とも合致し、また岡田との交友関係もあり、特撮ものや戦隊ものなどの実写番組の版権のみが東映本社に引き上げられ、東映動画の版権営業は維持されることになった。このとき版権事業を東映本体に取られていたら、東映動画の自主再建は出来なかったかも知れない。

1976年に放映開始した『キャンディ・キャンディ』が高い視聴率を確保すると、一年後の版権収入は11億5000万円を記録し、1981年に放映開始した『Dr.スランプ アラレちゃん』が視聴率30%を維持して突っ走ると商品開発部の売上げも40億円を超えた。時代の流れを捉えた今田の動画事業の多角化展開は目論見通りの成果を生むようになった。

東映動画作品の海外販売は当初からその成果を嘱望されたが、実際は長らく継続的な成果を上げられなかった。東映作品の海外展開が一定の成果を上げ始めるのは、1960年代半ばであるが、より拡充されたのは岡田茂体制下であった。1972年の東映洋画の設立で、映画輸入事業が本格的に開始され、東映国際部の事業が強化され、岡田が映連幹部として海外の映画祭や見本市などで日本代表団団長を務める機会も増え、洋画の買い付けも含め、カラテ映画や東映動画作品、特撮ヒーローものなどを自ら海外各国へ売り込んでいた。

今田は東映動画の創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品である"という考えを持っていたので、今田が社長に就任してようやく東映動画は海外の市場にも眼を向けていく方針となった。日本アニメの海外進出の推進役として陣頭指揮を執り、それまで東映本体が行っていた海外販売を1975年から新設した動画版権営業部に行わせて、東アジア、東南アジアを手始めとして欧州、アメリカなど、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展をした。今田みずから世界各地の映画祭や配給会社を訪ねて、日本アニメの輸出促進を働きかけ、フィルムの輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた。

今田が有賀健や、林幸夫(東映国際部)らを連れて世界的マルシェ(フィルムマーケット)に出掛けたのは1976年のカンヌ国際映画祭が最初であり、ブースを確保して『マジンガーZ』などを展示したが、当時のヨーロッパにおける日本のアニメの認知度は無であった。そのため誰も寄り付かず、相手にもされず、「アニメは世界の共通語」と意気込んで出掛けた今田たちはショックに打ちひしがれてブースに坐り込んだ。既に「鉄腕アトム」や「マッハGoGoGo」などがアメリカでもテレビ放送され、その他にも輸出されたアニメは多々あったが、全体的には1970年代前半まで日本製のアニメは漫画と同様に、ほとんどの海外の国からは相手にされていなかった。今田や有賀らはヨーロッパのテレビ局に何度も売り込みに行っては門前払いを食らった。それでも懲りずに毎年売り込みを繰り返すうちに認知は広がっていき、ヨーロッパにおいて東映アニメが最初に受け入れられたのは当時放送番組コンテンツが不足していたフランスやイタリア、スペインであった。1978年7月には、フランスのアンテンヌ2で『キャンディ・キャンディ』と『UFOロボ グレンダイザー』(Goldorak(ゴルドラック))が放映されて高視聴率を獲得し、それが突破口となった。『マジンガーZ』はイタリアやスペインで人気を博した。1978年にフランスとイタリアで改題されて放送された『UFOロボ グレンダイザー』は最高視聴率が80%を記録して社会現象になった(UFOロボ グレンダイザー#日本以外での放送)。また『キャンディ・キャンディ』もプライムタイムに放送されて人気を博した。1970年代から1990年代の半ばにかけて日本のアニメがヒットしたのはフランス、イタリア、スペインなど欧州ラテン圏だけで、イギリス、ドイツ、北欧など、言語文化が中心のアングロ・ゲルマン圏では、漫画やアニメには抵抗があり、個人主義で家族関係が冷めているとされて、ほとんど放送されなかった。またヨーロッパで日本アニメの熱が一気に上がらなかったのは、ヨーロッパは商品規制が厳しく、日本のキャラクター商品が入り込めず、テレビ放映の人気に限られたからで、子供たちの人気になかなか火が着かなかった。1990年にフランスで規制が外れると『聖闘士星矢』(フランス題名;Les Chevaliers du Zodiaque(星座の騎士))から、テレビとマーチャンで一挙に大展開し、『ドラゴンボール』が続き、海外市場を切り拓いていった。それ以降も自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行った。特に『UFOロボ グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』、『ドラゴンボール』、『美少女戦士セーラームーン』は世界各国で放送され、日本のアニメ輸出に弾みをつけた。

東映および、東映と『仮面ライダー』から商品開発を連動させてきたバンダイ等に莫大な利益をもたらした『パワーレンジャー』の仕掛人・ハイム・サバンは、『マジンガーZ』か『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで初めて放送された際に、音楽の一部入れ替えが行われ、これを担当したプロデューサーがフランス在住時のサバンで、子どもを対象にしたビジネスは国を超えて全世界で商売になると見てとったサバンは、アメリカ移住後も東映とビジネスを続け、東映の特撮番組を購入し、全米ネットワークに挑戦したが、アメリカは子どもの教育問題や暴力シーンの規制が厳しく、何度も失敗しながら『パワーレンジャー』でようやく長年抱き続けた夢を果たしたものであった。『パワーレンジャー』のベースとなった『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の「原型を残すから作り変えさせてくれ」というサバンからの要望を認めたのは、当時東映会長の岡田である。また『パワーレンジャー』の1993年からのフォックス・テレビネットワークを通じての全米放映は、岡田と20世紀フォックスの長い間の協力関係が実を結んだもので、1993年7月12日に、東映と20世紀フォックスとの間で、フォックス作品の長期間国内独占テレビ配給及びテレビ映画の共同製作に関る契約という東映国際化の一環として、岡田が先行投資を締結した際の契約の一つであった。フォックスとの共同会見で岡田は「これまでウチがFOX映画の数々のヒット作を独占的にテレビ配給して成功を収めてきた。この実績をもとに今回、FOXの全ての作品を配給する契約を結んだ。FOXの会長であり、最高責任者のマードックは7年前にお会いしたとき意気投合し、一緒に仕事をやろうと話し合った昵懇の仲で今回の契約が成立した。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のアメリカでの放映も決まり、大いに期待されるだろう」などと話した。岡田はマードックや孫正義とも親しく、1996年11月に来日したディズニーを含むハリウッドの最強代理人・マイケル・オーヴィッツが「数分でも会えれば奇跡」と面会希望者が殺到したが、そのオーヴィッツからの「会いたい」という申し出に「時間が合わない」と袖にしたこともある日本のエンターテインメント業界では数少ないメディア通の一人でもあった。

将来を見据えたコンピュータの導入では1974年、社内にプロジェクトチームを作り、1977年正式に技術委員会プロジェクトを発足させた。これが同社のデジタル化(デジタルアニメ)の切っ掛けとなる。国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコストも天文学的な数字にのぼり実現できなかった。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年『ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた。それまで熟練した職人芸が要求された工程を全て画面上で処理するシステムの稼働で、これが日本アニメのデジタル化第一作である。

1970年代後半から劇場用・テレビ用アニメーションの製作だけでなく活動領域を拡げ、スーパーマーケットや遊園地、ホテルなどでのイベントに積極的にコミットし、各種キャラクター商品やイベントを通じ、市民生活に溶け込み、新たなファン層を獲得した。レジャーメディアでの開発は、1976年の三重県の桑名市にあるナガシマスパーランドに於ける「マジンガーZロボット館」でのスペース構成が最初といわれる。これによりアニメーションの製作のみならず、映像が生み出すキャラクターを主体とした関連事業が拡大した。1987年はイベント関連売上げが売り上げが約40億円になった。イベント関連事業は東映本社映像事業部、映画村エンタープライズと共にその中核として、北九州市のスペースワールドの施設計画の立案等を手掛けた。またマーチャンダイジング営業強化の施策では、制作部門に対して付帯・関連部門を強化し、関連部門の売り上げが全体の60~70%を占めるようになり、制作の差損を営業によって埋め合わせる仕組みを作った。1990年代に手掛けた『美少女戦士セーラームーン』のキャラクター商品は、1995年時点で1000アイテムを超えた。これらは今田が長い期間、営業体制の強化を計り実効を上げたものであった。同社の版権事業は1960年の『西遊記』から始まっており、この分野も日本に於ける草分けであった。1987年には年間売上げ155億円を記録。

1977年11月、東映はマーベル・コミックとスパイダーマン等の日本における版権業務の契約を締結し、翌1978年に東映側のキャラクターをマーベルを通じてアメリカに紹介した。マーベルは1988年まで多くの作品を東映動画に発注し続けた。

中国文化大革命終結後の1979年秋に、岡田茂日本映画製作者連盟会長と徳間康快らの尽力で、中国で初めて日本映画祭が開催され、東映は中国で初めて上映されたアニメーション映画といわれる『龍の子太郎』を出品した。映画祭の準備段階で、当時中国がアニメ制作に力を入れていたことから、岡田が徳間に橋渡しを頼み、代表団に中国のアニメーションと手を組んで一緒に仕事をしたいと頼んだら、中国から東映動画と組みたいと返答があり、中国に招待されたため、今田がスタッフを連れて訪中し、従来韓国で行っていたアニメ制作の下請けを中国にやってもらおうと、1979年からアニメ制作の下請けを中国に移した。1981年より新人採用を再開させる。

1980年代以降は、東映の屋台骨を支えていく存在になった。大川時代から変わって、岡田=今田時代の東映動画は、"アニメーションの総合商社"として第2の創業といえるものであった。

1966年から放送された日本初の少女向けアニメの『魔法使いサリー』は"魔女っ子もの"というジャンルを開拓し、この流れは『ひみつのアッコちゃん』などの"変身もの"へ繋がり、その系譜は『美少女戦士セーラームーン』や『おジャ魔女どれみ』、『プリキュア』などに受け継がれた。魔法使いの少女アニメと変身して敵を倒すヒーローアニメ、人気の二大路線を東映動画が合体させたのが『美少女戦士セーラームーン』。世の女の子を夢中にさせた同作は"女の子の独立宣言"とも評され、海外50ヵ国で放映された。同シリーズの版権売上高は「ドラゴンボール」シリーズと同程度の3000億円に達した。"女子向けアニメ"を確立したのも東映動画であった。

1980年代以降は『Dr.スランプ アラレちゃん』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ONE PIECE』と立て続けに『週刊少年ジャンプ』作品をアニメ化、"ジャンプ黄金時代"を併走した。

1992年、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI Animation Corp.を設立。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した。1996年、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。

1995年、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年、東映アニメーション株式会社に商号変更した。

2000年代以降

2000年、ペンタブレットによる作画工程のデジタル化システムを導入。同年、フィリピンおよび日本国内の制作プロダクションを光ファイバー通信で結ぶ「東映アニメ製作ネットワークシステム」の運用を開始。これにより素材の輸送にかかる時間を大幅に短縮。生産性を大幅に向上させることに成功し、テレビシリーズ・劇場作品をあわせ現在に至るまで業界最多クラスの制作本数を維持している。

2003年に大泉スタジオ内に東映アニメーションギャラリーを開館。歴代作品がパネルで展示されているほか、時期により特定の作品にクローズアップした企画展が行われている。入場料は無料であるが、社屋内に立ち入ることになる関係上、入館の際は守衛に申し込んで手続きする必要があった。2003年頃の従業員は動画制作部門に170人、CM制作部門に90人、それに事務部門を加え約300人である。

2006年には幻冬舎と共同でアニメや映画とは異なる映像カテゴリー「画ニメ(がにめ)」レーベルを立ち上げる。

2013年7月16日、営業・管理部門及び子会社でもある東映アニメーション音楽出版のオフィスを、神楽坂(新宿区横寺町)から中野セントラルパークイースト(中野区中野)に移転した。2014年には株主総会での承認を得た上で登記上の本店を実質的な本社機能のある中野オフィスに移したほか、同年9月より老朽化した大泉スタジオの建て替えを含めた敷地内の全面リニューアルを行うため、大泉スタジオの機能を2017年頃まで約3年間、練馬区光が丘に一時移転した。大泉の新スタジオは2017年8月に竣工し、2017年末に引っ越し作業を行った上で2018年1月より稼働を開始している。大泉スタジオ内にあった東映アニメーションギャラリーについても同年9月23日より長期休館に入っていたが、2018年7月28日に東映アニメーションミュージアムとしてリニューアルオープンしている。

特徴

東映アニメーションには、撮影所長以下スタッフ自ら「活動屋」と称する東映流映画づくりのポリシーと、日本のアニメーションの良質な部分を引き継いだ日動の技術の双方が濃厚に継承されている。双方は後の作品にも影響を与えた。アニメ版『タイガーマスク』の演出家は、大半が東映京都撮影所をリストラされて東映動画に移籍したルサンチマンたちで、現場上りの荒くれ者たちが、時代劇やギャング映画、任侠映画の世界観をそのまま子供番組に持ち込んだものであった。

実写映画の制作スタイルを踏襲し、劇場作品を「長編」、テレビシリーズを劇場作品の短編と捉えて「短編」と呼ぶ。短編作品では、各話の担当演出が事実上の監督であるとの考えからシリーズ全体での監督職の表記はなく、シリーズ全体の統括職として他社制作アニメの監督よりも権限の弱い「シリーズディレクター」及び「チーフディレクター」の役職を設置する。音響監督は置いておらず、基本的に各話の演出担当者が行う。そのため、他社に比べて負担が多大になるが、その補佐をする役職として演出助手を設置している。演出助手が制作進行(東映では「製作進行」と表記されている。)を兼任する場合は「演助進行」と呼ばれている。制作進行の担当は作画までであり、仕上や美術の各工程それぞれに進行担当者が設置される。背景や美術も美術担当が各話ごとに設置され、またはスクリプターが設置されており、映画会社母体の特徴が見られる。プロデューサーに転向した演出家もおり、作品によってはプロデューサーが演出に携わるケースもある。

東映アニメーションが制作した日本の民間放送向けのテレビアニメにおいて、基本的に親会社の東映本体も主要製作事業者として関わっていることが殆どであるが、日本放送協会(NHK)製作番組では東映本体自体は製作協力に留まり、ウォルト・ディズニー・ジャパンなどとの共同製作作品や、海外向け作品に関しては、東映本体は製作に一切関与していない。映画作品に関しても、多くは東映が配給しているが、2000年代後半以降は小規模上映作品を中心に姉妹企業の東映ビデオや、ティ・ジョイが配給している作品も目立つようになっている。

過去に制作した作品のリメイクを放送することも東映アニメーションの最大の特徴であり、なかでも資本関係にあたるテレビ朝日や、フジテレビとの結びつきが非常に強い。1980年代には、『ゲゲゲの鬼太郎』(第3作)、『ひみつのアッコちゃん』(第2作)、『魔法使いサリー』(第2作)、1990年代には、『ゲゲゲの鬼太郎』(第4作)、『キューティーハニーF』、『ひみつのアッコちゃん』(第3作)、『ドクタースランプ』、2000年代は『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』、『祝!(ハピ☆ラキ)ビックリマン』、『ゲゲゲの鬼太郎』(第5作)、2010年代には、『ゲゲゲの鬼太郎』(第6作)をそれぞれ制作した。さらに『ドラゴンボールZ』を再編集した『ドラゴンボール改』を制作している。

各作品のエンディングのクレジットにも「協力:青二プロダクション」とあるように青二プロダクションとの関係が深く、かつては青二プロダクションの所属声優を独占的に起用した作品がほぼ全てであったが、1990年代後半以降は東映アカデミーを中心にキャスティングマネージメントを実施する作品もある。東映アカデミーの解散後は、東映東京撮影所マネージメント部がキャスティングマネージメントを引き継いでいる。

長期に渡って放送されている一部の作品では、ストーリーの展開や設定を刷新し、番組終了後もタイトルを変更する形で次週以降も放送を継続した例が多い(例:『ドラゴンボール』→『ドラゴンボールZ』など)。そのためか、番組タイトルを変更せず10年以上継続して放送しているアニメは、現在では『ONE PIECE』のみとなっている。

テレビ放送に関しては東映アニメーション作品のレギュラー放送枠を複数持っており、テレビシリーズの作品の大半は東映レギュラー枠で放送されている。ただし、資本関係を有するテレビ朝日・フジテレビとの制作作品は一時全国同時スポンサードネット番組としての放映がかつて途絶えていた時期があった。

集英社の少年雑誌『週刊少年ジャンプ』との結びつきも強いのが、東映アニメーションの最大の特徴でもある。1981年に製作された『Dr.スランプ アラレちゃん』以降は継続的に週刊少年ジャンプ作品のアニメを製作しており、毎年年末に開催されるジャンプフェスタには東映アニメーションのブースが設置されるなど、「東映アニメーション=少年ジャンプ作品」を連想する人も多い。澤井啓夫も自身の作品である『ボボボーボ・ボーボボ』のアニメ化に際して、「アニメ化の話で一番嬉しかったのは、(澤井がファンであった。)『キン肉マン』と同じ東映アニメーションが製作を担当すること」と自らコメントしている。

1986年から1993年までは、ショウエイシステムの開発のもとでゲームソフトの販売を行っていたことがあり、看板作品の『北斗の拳』シリーズなどの自社版権作品以外にも『スケバン刑事III』等の東映版権作品や、『バルトロン』や『ファイティングロード』などのオリジナル作品も携わっていた。ショウエイシステムとの提携による販売から撤退して以降はショウエイシステム自体もゲームの販売に参入しており、中でもパチンコシミュレーターの『HEIWAパチンコワールド』はシリーズ化し、1999年まで存続した。その後、2010年の『こえであそぼう! ハートキャッチプリキュア!』で17年ぶりにゲームソフトを販売。2014年にはスマートフォン向けのオリジナル作品ゲーム『円環のパンデミカ』を自社内で企画し、同年5月からサービスを開始した。

編集・音響制作等のポストプロダクションに100%子会社のタバックを起用している。録音業務も新宿区内のビルにあったタバックの本社スタジオで主に行っていたが、ビルの老朽化により現在は録音スタジオを東映デジタルセンターに移し、音響制作は引き続きタバックが担当している。長年存在しなかった撮影監督、音響監督を設置するようになり、2014年以降からエンディングでクレジットされることが多くなった。ただし、音響監督はかつてと同様に設置しない場合もあり、2016年から2017年頃に廃止された。例えば『うちの3姉妹』の様に、完全に他社に音響制作や録音・編集作業を委託した例もある。

作品履歴

テレビアニメ(連続物)

1960年代

1970年代

1980年代

※は国際映画社、○はサンボウ・プロダクションやマーベル・プロダクションと共同制作。☆は東映本社企画作品。

1990年代

2000年代

2010年代

2020年代

テレビアニメ(スペシャル)

Webアニメ

劇場アニメ

日本動画社時代

1950年代(劇場アニメ)

1960年代(劇場アニメ)

1970年代(劇場アニメ)

1980年代(劇場アニメ)

1990年代(劇場アニメ)

2000年代(劇場アニメ)

2010年代(劇場アニメ)

2020年代(劇場アニメ)

OVA

実写映画参加作品

コンピュータゲーム

レーザーディスクゲーム

CM

その他

関連会社

連結子会社

  • 株式会社タバック
  • 東映アニメーション音楽出版株式会社
  • TOEI ANIMATION PHILS., INC.
  • TOEI ANIMATION ENTERPRISES LIMITED(香港現地法人)
  • TOEI ANIMATION INCORPORATED(アメリカ合衆国現地法人、ロサンゼルス)
  • TOEI ANIMATION EUROPE S.A.S.(フランス共和国現地法人、パリ)
  • TA KZ Film Kft.(ハンガリー現地法人、ノーグラード)

持分法適用会社

  • 株式会社AMAZONLATERNA(映像制作会社、前身企業のラテルナが東映アニメーションの元子会社として発足、現在はティ・ジョイ傘下)
  • 東映ビデオ株式会社
  • 株式会社東映京都スタジオ

非連結子会社

  • TOEI DOGA US Service, INC.
  • TOEI DOGA US Productions, LLC
  • TOEI DOGA US Entertainment, LLC
  • TOEI ANIMATION (SHANGHAI) CO., LTD.(中国現地法人、上海、2017年6月設立)
  • 東映動漫(上海)実業有限公司(TOEI ANIMATION ENTERPRISES LIMITEDと上海東今企業管理諮詢有限公司との合弁会社、2020年11月設立)

その他関係会社

  • 東映株式会社
  • 株式会社テレビ朝日
  • 株式会社バンダイナムコエンターテインメント(兄弟会社としての扱い)
  • 株式会社アニュータ(音楽配信サービス、発足時に東映アニメーション音楽出版が参画)
  • 株式会社TENH ANIMATION MAGIC(SOLA DIGITAL ARTSとサンジゲンの共同設立によるCGアニメーションスタジオ、東映アニメーションも経営に参画)
  • 株式会社ダンデライオンアニメーションスタジオ(2018年8月に資本業務提携)
  • 株式会社アナライズログ(インフルエンサーエージェント事業、2019年12月に資本業務提携)
  • 株式会社FLARE CREATORS(オリジナルコンテンツの企画・プロデュース、東映との折半出資で2023年6月に設立)

関連人物

歴代社長

  1. 大川博(1956年 - 1964年)
  2. 山崎李四郎(1964年)
  3. 山梨稔(1964年 - 1971年)
  4. 高橋勇(1971年 - 1972年)
  5. 登石雋一(1972年 - 1974年)
  6. 今田智憲(1974年 - 1993年)
  7. 泊懋(1993年 - 2003年)
  8. 高橋浩(2003年 - 2012年)
  9. 高木勝裕(2012年 - )

現役員

  • 森下孝三(東映アニメーション代表取締役会長)
  • 重村一(ニッポン放送取締役会長、東映アニメーション社外取締役)

企画

アニメーター・演出家

脚本家

プロデューサー

美術デザイン

色彩設計

CG監督

製作担当

Collection James Bond 007

同社スタッフ・OBが独立・起業した会社

現在

  • シンエイ動画(旧:Aプロダクション) - アニメーターを務めた楠部大吉郎が芝山努、小林治、椛島義夫、森下圭介と共に独立し1965年に設立。
  • ICHI(旧:ナック)- 出身の林静一、小柳朔郎、月岡貞夫らが虫プロダクション出身の西野清市と共に発起人となり1967年に設立。1996年にアニメ制作事業からは撤退。
  • 動画工房 - 出身の古沢日出夫が日動新プロ、Fプロなどを経て1973年に設立。
  • 白組 - 出身の島村達雄が学習研究社(現:学研ホールディングス)、東京コマーシャルを経て1974年に設立。
  • 亜細亜堂 - アニメーターを務めた芝山努、小林治がシンエイ動画を経て山田みちしろと共に独立し1978年に設立。
  • ゆめ太カンパニー - 出身の山口聰が1986年に設立。
  • ダンガン・ピクチャーズ - 出身の髙野顕、鈴木徹、浅川真一、和田裕一が1994年に設立。
  • ダンデライオンアニメーションスタジオ - 出身の西川和宏が2007年に設立。
  • スタジオ地図 - 出身の細田守がマッドハウス出身のプロデューサーである齋藤優一郎と2011年に設立。
  • 林撮影舎 - 出身の林昭夫がスタジオコスモス、ピー・アール・エーを経て設立。

過去

  • チルドレンズ・コーナー - 出身の山本善次郎とその責任者を務めた東映動画三幸スタジオと東映動画大森分室が独立し設立。1968年解散。
  • ハテナプロ - 出身の香西隆男、永樹凡人、小泉謙三、我妻宏が設立。
  • 小林プロダクション - 出身の小林七郎が現代製作集団を経て設立。
  • ネオメディアプロダクション - 出身の木村圭市郎が設立。2018年事業休止。
  • ジュニオ ブレイン トラスト - 出身の香西隆男がハテナプロを経て設立。2004年に実制作から撤退。
  • トップクラフト - 出身の原徹が設立。1985年にスタジオジブリへと改組する形で解散。
  • スタジオ座円洞 - 出身の向中野義雄が設立。2016年休眠。
  • 夢弦館 - 出身の椛島義夫がAプロダクション、スタジオ古留美を経て設立。2017年解散。
  • ハルフィルムメーカー - 出身の春田克典が設立。2009年解散。

不祥事・トラブル・事件・アクシデント

買いたたきの事例

2014年12月17日、委託契約を結んでいる原画制作者、CGクリエーター約400人に対する報酬を消費税増税後も据え置く「買いたたき」を行ったとして、公正取引委員会より消費税転嫁対策特別措置法に基づく再発防止の勧告を受けた。委員会の調査後、4-9月分の差額約2千万円を支払った。

異動及び通名使用問題

東映アニメーションで2013年ごろから演出として契約社員で働いていた人物(以下A)が、作画監督へ指示を出したところ大きな声で怒鳴られ、そのことを、上司に相談をすると、「働きバチが必要だ」「(作画監督を)だまくらかして使うんだ」などと指導を受けた。そのことについて、Aが異議を唱えると、Aの知らない間に異動願いが出され、演出から演出助手への契約変更を迫られ、さらに事務職の契約に変更させられた。1ヶ月だけ、ということで契約書にサインをすると、異動先はアニメスタジオとは別棟で、しかも仕事の内容はダンボールの詰め込みなど、典型的な追い出し部屋であった。Aは社内のホットラインにも通報し、なんとか演出助手までには戻ることができたが、後日、上からは「Aさんに演出の仕事は絶対にさせないように」というメールが現場に一斉送信されてしまった。

Aは労働組合「プレカリアートユニオン」に出会い、そこに加入し、東映アニメーション側に対して、団体交渉を申し込んだものの、東映アニメーション側は団体交渉に必要であった「就業規則等の資料」を提出せず、Webのみで行うという不誠実な態度であった。この団体交渉を担当していたプレカリアートユニオンの役員は、当時の状況について「先方はあえて論点をズラしてきたり、議論をかき乱すような不誠実な態度でした」とした上で「こうしたケースは時折あります。あくまで推測ですが、会社側の担当弁護士が『労働組合なんてまともに相手にする必要はない、そのうち疲れて諦めるでしょう』といったアドバイスをしている可能性はあります」と述べている。この団体交渉はオンラインという形で3回ほど行われたが、決着を見ず、4回目の団体交渉の時に、Aと労働組合側に、オンライン会議で用いるアドレスが受信されず、プレカリアートユニオンの役員が東映アニメーションに電話で、東映アニメーション側の担当者やその弁護士は東映アニメーションにいたことが確認したため、東映アニメーションに向かったものの、「いざ行ってみると、会社が入っているビルの1階エレベーターを警備員が封鎖していました。私たちがエレベーターに乗ろうとすると、会社側の弁護士が『酷いじゃないですか』など、私たちがあたかも乱暴なことをして乗り込んできているような言い方をして、警備員を使って追い出してきました」と当時の状況を振り返る。

プレカリアートユニオンは2021年1月7日、東京都労働委員会に不当労働行為救済を申し立てた。申し立てのきっかけは、契約社員の人事考課問題についての団体交渉時が不誠実であったためだが、LGBTの当事者で労働組合「プレカリアートユニオン」側の担当者が、通称を名乗った際に、東映アニメーション側が「偽名ではないか」という理由で団体交渉を拒否した。2021年1月12日にプレカリアートユニオンが行った記者会見で、LGBTの当事者に名前の確認をしたことは差別的で不当な労働行為に該当すると主張した。会見で、プレカリアートユニオンの書記長は「表現者である東映アニメーションが性的少数者を差別するのは許せない」と述べている。

それ以降、団体交渉は行われず、書面という形でやり取りをしていた矢先に、東映アニメーション側から「(プレカリアートユニオンの役員が)偽名を用いており、本名は『◯◯』だという指摘があった」とした上で「(東映アニメーションと労働組合との間の)信頼関係を大きく毀損した」と記した文書が発送されてきた。実は、団体交渉の間に、プレカリアートユニオンの役員が通称名をしていることを、このプレカリアートユニオンを非難している、ある第三者が漏らしてしまい、それを基に、東映アニメーション側はプレカリアートユニオンに対して、「(プレカリアートユニオンの役員が)”偽名”を使っている」として、戸籍上の名前を見た上で、東映アニメーション側に、「信頼関係を毀損した」と言ってきたといういきさつがあった。プレカリアートユニオンの役員は「まず偽名ではなく、私が性的マイノリティの当事者で、戸籍上の名前とは異なる名前を使っていることは伝えました」と行動したが、東映アニメーション側は、これを理由に「団体交渉はできない」とかたくなに拒否し続けた。

これについて、Aは「これまでも明らかに会社の態度は不誠実でひどいものでしたが、ここまでひどいのかと。まさかこんなことまで言ってくるとは思いもしませんでした」と述べ、プレカリアートユニオンの役員は「東映アニメーションの『プリキュア』シリーズは、性のあり方に関しても希望を感じられるメッセージを発信し、日本だけでなく世界中に影響を与えていると思います。そんな会社だからこそ、こんなことをやってしまえるのかと深く失望しました」と抗議している。

社内ネットワークへの不正アクセス

2022年3月6日、社内ネットワークが第三者による不正アクセスを受けたことを確認し7日付で公表した。関係機関への報告を行うとともに外部の専門機関による調査を進めるほか、社内システムの一部を停止し、外部からのアクセスも遮断した。

この社内システムの一部停止を受けて、2022年3月時点で制作しているテレビアニメ4作品(『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』『デリシャスパーティ♡プリキュア』『デジモンゴーストゲーム』『ONE PIECE』)の放映スケジュールに影響が出ることを11日に明らかにした。このうち、『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』に関しては3月12日に放送する予定であった第73話の放送を延期した上で「ベストセレクション」として、第31話の再放送に切り替えた。『デリシャスパーティ♡プリキュア』に関しては、3月13日は過去の作品を再編集した上で放送を行うことを、3月11日に放送されたテレビ朝日制作の夕方のニュース情報番組である『スーパーJチャンネル』の番組内で伝えた。その後、3月13日の放送では「おさらいセレクション」として第4話を放送し、3月20日から4月3日までは『映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』を3週に分けて分割放送することになった。また『デジモンゴーストゲーム』と『ONE PIECE』に関しては3月13日はもともと、スポーツ中継(名古屋ウィメンズマラソン2022・東海テレビ制作)が編成されていたため休止となっていた。3月20日以降は、過去に放送したエピソードを再放送した。その後、4月6日に各作品の公式サイト等において4月16日・17日より順次放送再開することが発表された。

3月18日には映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』についても、製作が困難になったことから公開日を当初予定されていた4月22日から延期すると発表した。しかしその後、新たな公開日が6月11日に決まったことが4月14日付で発表されている。

4月28日付で社内システムおよび通常業務・作品製作の正常化を正式発表するとともに調査結果を公表、この中で従業員が業務上必要となるソフトウェアを外部ウェブサイトからダウンロードした際、同時にランサムウェア侵入の起点となるソフトウェアもダウンロードされるよう当該ウェブサイトが改ざんされており、これによって第三者による不正アクセスが行われ、社内サーバやパソコン端末の一部データがランサムウェアに感染、暗号化されたことを明らかにしている。その一方で個人情報をはじめとする情報流出は確認されておらず、取引先などへの被害についても報告されていないとも発表している。なお、今後の再発防止策として従業員に対するセキュリティ教育の向上ならびに不正アクセスへの対応体制強化を行うとしている。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 渡辺泰・山口且訓『日本アニメーション映画史』有文社、1978年。 
  • 東映動画・徳間書店児童少年編集部『東映動画 長編アニメ大全集』 上巻、徳間書店、1978年。 
  • 岡田茂『クロニクル東映 1947 - 1991』 2巻、東映、1992年。 
  • 大下英治『日本ヒーローは世界を制す』角川書店、1995年。ISBN 4-04-883416-9。 
  • 御園まこと監修『図説テレビアニメ全書』原書房、1999年。ISBN 4-562-03217-0。 
  • 川崎市市民ミュージアム 編『日本アニメの飛翔期を探る』読売新聞社・美術館連絡協議会、2000年。 
  • 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店、2001年(ISBN 4198613613)
  • 多田信『これがアニメビジネスだ』廣済堂出版、2002年(ISBN 4331508676)
  • 佐藤忠男、岸川真「撮影所研究(第十一回) 偉大なる手工業・東映動画スタジオ 文・野口雄一郎・佐藤忠男」『「映画評論」の時代』カタログハウス、2003年。ISBN 4-905943-52-3。 
  • 山口康男『日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡』テン・ブックス、2004年。ISBN 4-88696-011-1。 
  • 大塚康生、森遊机『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』実業之日本社、2006年。ISBN 4-408-61255-3。 
  • 津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本質』NTT出版、2007年(ISBN 9784757141520)
  • 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。 
  • 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号。 
  • 大下英治『仮面ライダーから牙狼へ 渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男』竹書房、2014年。ISBN 978-4-8124-8997-0。 
  • 『日本TVアニメーション大全』世界文化社、2014年。ISBN 978-4-418-14901-8。 
  • 増田弘道『デジタルが変えるアニメビジネス』NTT出版、2016年。ISBN 978-4-7571-2356-4。 
  • 津堅信之:「ディズニーを目指した男 大川博 ―忘れられた創業者―」、日本評論社、ISBN 978-4-535-58695-6 (2016年8月25日)。
  • 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。 
  • 谷川建司「最大利益を確保するための構造 東映動画株式会社における映画製作事業とその縮小 文・木村智哉」『戦後映画の産業空間 資本・娯楽・興行』森話社、2016年。ISBN 978-4-86405-098-2。 
  • 叶精二『日本のアニメーションを築いた人々 【新版】』復刊ドットコム、2019年。ISBN 978-4-8354-5685-0。https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68327364 
  • 木村智哉『東映動画史論 経営と創造の底流』日本評論社、2020年。ISBN 978-4-535-55963-9。 
  • 津堅信之『日本アニメ史』中央公論新社〈中公新書 2694〉、2022年。ISBN 978-4-12-102694-1。 
  • 東映長編研究 第9回 白川大作インタビュー(1)東映入社と『白蛇伝』
  • 東映長編研究 第10回 白川大作インタビュー(2)手塚治虫と『西遊記』
  • 東映長編研究 第11回 白川大作インタビュー(3)『西遊記』と各スタッフの活躍
  • 東映長編研究 第11回 白川大作インタビュー(4)『ねずみのよめいり』と『鉄腕アトム』前夜
  • 東映長編研究 第13回 白川大作インタビュー(5)メイキング・オブ『わんわん忠臣蔵』
  • 東映長編研究 第14回 白川大作インタビュー(6)『風のフジ丸』と「東映まんがまつり」の始まり
  • 東映長編研究 第14回 白川大作インタビュー(7)『魔法使いサリー』と博報堂時代
  • 聖闘士星矢やプリキュアなど、東映アニメーションの膨大なデジタルデータを管理する「Dell EMC Isilon」(インプレス社PC WATCH誌の2020年1月31日記事) ※テレビアニメのデジタル制作の状況が覗える。
  • 映像講座「練馬のアニメスタジオの遺伝子」第1回 東映動画編 前編
  • 映像講座「練馬のアニメスタジオの遺伝子」第2回 東映動画編 後編
  • 「漫画映画のできるまで」 ※東映動画の「少年猿飛佐助」の制作過程の記録映画(モノクロ)。
  • 西武線は日本のアニメを育てた「影の功労者」だ アニメ界出身の鉄道写真家が語る「青春時代」(東洋経済、2020年12月13日記事)

関連項目

  • ティ・ジョイ
  • 東映アニメフェア、東映まんがまつり - 2019年の大型連休に、1990年春以来29年ぶりに「東映まんがまつり」のタイトルが復活。
  • 東堂いづみ
  • 東映アニメBBプレミアム - 東映アニメーション制作によるアニメ配信サイト。
  • 青二プロダクション
  • 東映魔女っ子シリーズ
  • 国際映画社 - 社員はプロデューサーと制作スタッフしかいないため、演出、作画作業を東映動画に発注した。
  • マーベル・プロダクション - プリプロダクションのみ行い、作画以降の作業を東映動画に発注した。
  • チルドレンズ・コーナー - 東映動画の三幸スタジオが独立してできたが、一部の作業や録音を東映動画で行っていた。
  • イージー・フイルム - 出身の村田四郎が作画制作部を立ち上げた。
  • ショウエイシステム
  • なつぞら - 日本のアニメーション草創期を描いた2019年放送のテレビドラマ(NHK「連続テレビ小説」第100作)。作品の主人公がアニメーターとして最初に勤務したアニメ制作会社「東洋動画」のモデルは当時の東映動画である。また、先述の通り、劇中アニメーションの制作を東映アニメーションが手掛けている。

外部リンク

  • 公式サイト
  • 企業情報サイト
  • 東映アニメーション公式 (@toeianime_info) - X(旧Twitter)
  • 東映アニメーション公式YouTubeチャンネル - YouTubeチャンネル

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 東映アニメーション by Wikipedia (Historical)



PEUGEOT 205