桜井 センリ(さくらい センリ、1926年(大正15年)3月20日 - 2012年(平成24年)11月10日)は、日本のピアニスト、コメディアン、俳優。本名・桜井 千里。ワタナベエンターテインメント所属。
公式プロフィール上では1930年(昭和5年)3月20日生まれとなっているが、実際は1926年(大正15年)生まれ。これはハナ肇とクレージーキャッツの他のメンバーとバランスをとるためだといわれている(最年少の安田伸は1932年(昭和7年)生まれ)。その結果、旧制中学の後輩である石橋エータロー、犬塚弘より年少ということになってしまっている。旧名・桜井 ヘンリーとして父志郎の赴任地のイギリス・ロンドンに生まれ、3歳までその地で育つ。いわゆる帰国子女。父は日本人会の代表幹事であった。日本に帰国後、千里と改名したとも言われるが、本名はもともと桜井千里だったとする資料もある。
西巣鴨第三尋常小学校に入学し、4年生から東京音楽学校付属上野児童音楽学園へ通いクラシックピアノを習う。暁星中学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部に入学。大学2年のとき「サンバレー・スイング・バンド」というグループからピンチヒッターを頼まれ、のち正式に加入してジャズピアニストとしての活動を開始。
大学中退後、様々なバンドを転々とする。1952年(昭和27年)には、穐吉敏子が渡米してピアニストが不在になったゲイスターズに穐吉の後任として参加。その後、鈴木康允たちとトリオを組んでいたが、フランキー堺の誘いで鈴木と共にジャズバンド「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。当時メンバーであった植木等、谷啓とこの時出会う。1年後にシティスリッカーズを去った後、三木鶏郎の冗談工房に加入し、歌や作曲を指導。当時の芸名は三木雛郎。当時の歌の弟子に左とん平とアイリーン・フェイゲンがいる。
1960年(昭和35年)に植木の紹介でジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、約1年間、石橋の代役を務める。石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出たが、「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。石橋が脱退する1971年まで、クレイジー・キャッツは、ピアニストが2人という変則的な形をとり、「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うようになる(その後も石橋はクレイジーに度々客演しており、連弾は定番となる)。演奏スタイルは石橋は大胆、桜井は繊細と言われる。
バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、大柄な犬塚弘と組んだアクションが有名。
作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤「ナカナカ見つからない」、弘田三枝子のシングル盤「明日をみつめて」(2曲とも作詞は青島幸男)の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。
また俳優としても活躍し、『なつかしい風来坊』(松竹)や『クレージー黄金作戦』(東宝)など多くの映画やテレビ番組などに出演している。また、山田洋次の作品に度々重用され、『男はつらいよ』にも様々な役柄で登場した。舞台でもバイ・プレーヤーとして活躍する。
「キンチョール」CMに出演した「センリ婆さん」のキャラクターも有名。このCMで桜井が言った「ルーチョンキ」という言葉は当時の流行語となった。
生前の桜井はクラシック音楽やオペラにも造詣が深く、専門誌にしばしば原稿を執筆していた。また、演奏の感覚を忘れぬためにピアノに一時間向かうのを日課としていたという。
2006年(平成18年)、映画『待合室』にIGRいわて銀河鉄道線小繋駅の委託駅員役として出演。
2007年(平成19年)4月27日、植木等の「お別れの会」では谷、犬塚と共に葬儀委員長を務めた。2010年(平成22年)11月11日に行われた谷啓の「お別れの会」が、最後の公の場となった。
2012年(平成24年)11月11日、東京都新宿区の自宅で遺体で発見された。12日現在、病気による『孤独死』として報道される。86歳だった。1967年に元・宝塚歌劇団員だった女性と結婚しているが、のちに離婚している。その後は母親と2人暮らしだったが、1984年に母親を亡くしてからは独り暮らしの状態だった。持病など直接の死因は不明だが、1996年には狭心症を発症し入院。出演予定だった舞台を降板している。自宅で発見される直近では、電動車いすを使用して買物に出かける姿が目撃されていたと言う。墓所は多磨霊園(18区1種55側29番)。
桜井の没後、2023年10月までの約11年は、犬塚がクレージーキャッツ唯一の存命メンバーとなっていた。
※ 太字は役名
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