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有馬則頼


有馬則頼


有馬 則頼(ありま のりより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。摂津国三田藩主。有馬重則の二男。

生涯

天文2年(1533年)、播磨国三津田城(満田城)で誕生した。永禄年間に家督を継承し、三好長慶や別所長治に従う。

天正8年(1580年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受けて中国攻めを開始すると、その嚮導役を務めて戦功があり、秀吉から播磨淡河3200石を与えられた。

天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いにおいて長男・則氏を失っている。その後も九州平定、朝鮮出兵などに参加し、いずれも功を挙げた。豊臣氏による伏見城築城にも功績があり、1万5000石まで加増されている。なお、次男・豊氏も秀吉に仕えており、父とは独立して所領を得ている。

則頼は茶人としても高名であり、秀吉に御伽衆(相伴衆)として仕えた。薙髪後は刑部卿法印を称し、同様に御伽衆を務めた金森長近(法印素玄)・徳永寿昌(式部卿法印)と共に「三法師」と称された。

秀吉の死後は子の豊氏と共に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦した。その功により慶長6年(1601年)1月18日、1万石を加増され、摂津有馬氏縁故の地である摂津有馬郡三田2万石に転封となり、三田藩を立藩している。

慶長7年(1602年)7月28日、三田において70歳で死去。淡河の天正寺に葬られた。遺領は丹波国福知山藩主となっていた次男の豊氏が継承した。

豊氏は、のちに大坂の陣の軍功により久留米藩初代藩主となっている。

逸話

  • 清洲会議の際のエピソードとして以下が伝えられている。会議に際して柴田勝家らは秀吉を害しようとしたが、遅れてきた則頼が城門を押し通り、秀吉の側にあって護衛にあたった。秀吉はこれを徳として則頼を厚遇したという。
  • 秀吉はしばしば則頼の大坂屋敷の茶席に臨み、附藻茄子茶入や牧谿の画軸など、さまざまな名品を与えた。
  • 文禄年間(1592年 - 1596年)、秀吉が徳川家康を伏見に留めて江戸に帰さなかったことがあり、家康の依頼によって則頼がその帰国のために取り計らったことが、家康との接近の契機になった。『寛政重修諸家譜』によれば、その後再度上洛した家康は則頼に紅粉屋肩衝茶入を贈っている。

系譜

父母
  • 父:有馬重則
  • 母:細川夫人(細川澄元の娘)
配偶者
  • 正室:振(梅窓院)
別所志摩守忠治の娘。天正16年(1588年)没。淡河の長松寺に葬られた(のちに久留米梅林寺に改葬)。
子女

正室梅窓院との間に四男五女があったという。『寛政重修諸家譜』は四男四女を記し、則氏・豊氏と女子4人を梅窓院の子、則次・豊長を庶子とする。

  • 長男:有馬則氏
  • 二男:有馬豊氏(久留米藩初代藩主)
  • 三男:有馬則次
    九郎次郎。早世した。
  • 四男:有馬豊長(江戸幕府旗本・旗本寄合席)
  • 女子:有馬重頼室、
  • 女子:渡瀬繁詮正室、
  • 女子:石野氏満正室、
  • 女子:中山慶親室

脚注

出典

  • 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
  • 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)
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登場作品

  • 徳川家康(NHK大河ドラマ、1983年、演:宮沢元)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 有馬則頼 by Wikipedia (Historical)