富谷 鉎太郎(とみたに しょうたろう、安政3年10月5日(1856年11月2日) - 昭和11年(1936年)5月5日)は、日本の裁判官。大審院判事・部長、東京控訴院長、大審院院長、貴族院勅選議員を歴任。本職の傍ら帝国大学法科大学・和仏法律学校(現・法政大学)・明治法律学校で講師を務めた。明治大学学長。
1886年から1890年までの欧州派遣や1912年オランダでの手形法制統一万国会議での経験もあり、自由主義的な考え方を持ち国際法にも関心が深かった。
司法省法学校2期生で原敬と同期であり1921年6月13日に 原内閣の任命により長期にわたった横田國臣の後を受け大審院院長。
同年10月には4カ月のみで退職するが、その後、原敬の暗殺事件があった。11月からは体制の変わった内閣のもと大逆事件が急速な裁判により展開した。
本職の傍ら東京大学法学部、帝国大学法科大学、和仏法律学校、明治法律学校で講師を務めた。また法政大学でも教えている。
明治大学学長を1921年から1924年までつとめたが、大正12年9月1日に関東大震災があり大学図書館も焼失した。「真の大学とは図書館にあり」(「学報」84)という大学の方針により、充実を図ってきた施設、蔵書のほぼすべてが灰になってしまった。しかし、それからの取り組みははやく、蔵書再興のため図書寄贈の呼びかけが海外にまで行われ1年たらずで500余名の方々から1万冊近くが贈られた。校友のみならず、学外の篤志家、一般市民340名からも寄贈があった。このさい、大勢の人々が協力し世界中に呼びかけて書籍の寄付を受けて図書館を再建した時の一員である。
また、大学間の連携もあり、同年12月15日 震災で図書館焼失の窮状に際し早稲田大学図書館が支援を開始し、早大図書館が試験期に開放されている。
明治大学図書館は日本の大学図書館としては初めて地域に開放され地域連携している。 現在も千代田区や杉並区、川崎市多摩区などと地域への開放と連携を深め地域と協力している。
娘のトミは角利助の長男・利一の妻。
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