札幌市(さっぽろし)は、北海道の道央地方に位置する市。道庁所在地および石狩振興局所在地。政令指定都市であり、10の行政区が置かれる。北海道の行政・経済・文化の中心地であり、道内および三大都市圏以外の国内で人口最多の市(人口195万8200人、2023年9月30日現在)である。また、歓楽街すすきのは東京・新宿の歌舞伎町、福岡の中洲と並んで「日本三大歓楽街」と称され、全国的に有名である。
日本最北の政令指定都市であり、内陸の市町村の中で最も人口が多い都市でもある。全国の市の中でも横浜市・大阪市・名古屋市に次ぐ4番目の人口を有しており、北海道全体の人口の約4割弱(約37%)の殆どを占めている大都市圏を構成している。地下鉄(札幌市営地下鉄)が通る日本最北の市でもある。北海道のプライメイトシティであり、札幌都市圏を形成している。官公庁の地方支分部局が多く立地しているため、北海道における地方中枢都市としての役割を担っており、全国規模の大企業の北海道支社・支店も多数立地する支店経済都市である。
アイヌの人々が暮らしていた蝦夷地は1869年(明治2年)に北海道と改称され開拓使が置かれて札幌本府の建設が始まった。1875年に最初の屯田兵が入植。札幌の建設計画は当時の開拓判官島義勇によって構想され、京都を参考にした街づくりは創成橋東側のたもとを基点に東西の基軸を創成川、南北の基軸を渡島通(現在の南1条通)として区画割を進めていった(現在の南北の基軸は大通公園)。このため、中心部の多くは街並みが碁盤の目状になっている。街の中心部には東西方向に大通公園が位置しており、大通公園の北側は北海道庁舎や札幌市役所、札幌駅、北海道大学などの公的機関が所在する官公庁街・オフィス街であり、大通公園の南側はすすきのを中心とした大規模な歓楽街・繁華街が広がっている。
開拓時代から第二次世界大戦前までの札幌は行政都市としての性格が強かったが、戦後は戦中からの日本政府の統制経済政策などによって、それまで小樽市に集中していた卸売業者(問屋)や金融機関、道外企業の支店などが中央官庁の出先機関が集中した札幌に数多く移転し、第三次産業を主軸とした道内経済の中心地となった。人口も主として道内各市町村からの転出者を受け入れる形によって急増し、1970年に日本国内で8番目となる100万人都市となった(「人口」欄も参照)。また、周辺町村を編入・合併して市域を拡大していき、かつては農村であったそれらの地域はベッドタウンとして住宅地化していった。
1972年にはアジア初となる冬季オリンピック(札幌オリンピック)を開催。その後も国際スキー連盟の各種国際大会やアジア冬季競技大会、国際大学スポーツ連盟主催の冬季ユニバーシアード競技大会、FIFAワールドカップ、FIBAバスケットボール・ワールドカップ、世界ラリー選手権、ラグビーワールドカップなど数多くの国際大会が開催されている。札幌市としても各種イベントや展示会、企業の会議や報奨旅行などの誘致・開催 (MICE) への積極的な取り組みを行っており、「国際会議観光都市」に認定されている。冬季のさっぽろ雪まつりといったイベントなど、毎年1,300万人前後の観光客が訪れる観光都市となっており、市町村の魅力度ランキング調査でも毎年上位にランクインしている都市である。2013年にはユネスコ(国際連合教育科学文化機関)により創設された創造都市ネットワークの「メディアアーツ都市」分野に世界で2都市目に(アジアでは初めて)認定された。
2026年冬季オリンピック開催地に立候補することを表明して誘致活動を行っていたが、立候補および誘致活動を2030年大会に変更する意向を示した。しかし、2020年東京オリンピックにおける不祥事などの影響により市民からの理解を得られないことや財政的観点から、2023年10月、2030年大会の誘致を断念し2034年大会の誘致を目指す方針とした。だが、その発表2日後に、2大会の開催地の同時決定がIOCより発表されたため2034年大会の誘致も厳しいものとなった 。さらにIOCが2034年大会までの候補地を内定し、2038年大会についても候補地を絞り込んだため、2023年12月に札幌市は招致活動の「停止」を宣言した。
由来はアイヌ語の「サッ・ポロ・ペッ」(sat-poro-pet、乾いた大きい川)とする松浦武四郎による説(「かつての豊平川が乾季に極端に水量が少なくなる川だったため」、あるいは「一帯が乾燥した広大な土地だったため」)や、「サリ・ポロ・ペッ」(sari-poro-pet、その葦原が・広大な・川)であるとする山田秀三による説などがある。
前述の通り、札幌はアイヌ語由来の地名であるが、確認された文献資料で最古のものはシャクシャインの戦いにおける津軽藩士の報告書であり、石狩河口から3里遡った集落が「さつほろ」と表記されていた。
古い記録では平仮名で表記されているが、時代を経るにしたがってカタカナ表記、漢字表記へと変わっていった。 17世紀~18世紀ごろの文献では、「さつほろ」「さつぽろ」「しやつほろ」「沙津保呂」など表記のゆれはあるものの、平仮名や万葉仮名で記されている。最後に見られる平仮名表記は1807年(文化4年)の「下さつほろ」である。 1791年(寛政3年)の地図に「サツホロ」と表記されて以降、「サツホロ」というカタカナ表記が一般的になる。それ以外にカタカナで「サツポロ」「シヤツボロ」と示されたものがあるが、これは一般的ではない。 幕末になると、「察縨」「札縨」と漢字で表記されるようになる。これが明治期に「縨」が「幌」に変わり、「札幌」という表記が定着した。
石狩平野の南西部に位置し、面積は1,121.26 km2で香港とほぼ同じ面積を有している。距離は東西42.30キロメートル(km)南北45.40 kmにわたって市域が広がっている。平坦な中心部などは豊平川が形成した扇状地である。
市南西部は山岳地帯で、一部は支笏洞爺国立公園に指定されている。
主な川
主な滝
主な湖
主な沼
主な池
札幌市の北西に石狩湾があるが、ここに面している部分は小樽市銭函である。札幌市域は海岸線から約400m内側であり、非常に近いが、海に面してはいない。
札幌市の気候は日本海側気候とされており、ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候または亜寒帯湿潤気候(Dfa)に属するが近年の気温上昇により温暖湿潤気候に近くなっている。4月から6月は晴天の日が多く、本州などに見られる梅雨の時期は無い。夏は一日の平均気温が20℃を超える日が続く。10月には紅葉が始まり、12月上旬から降った雪が根雪となることが多い。12月から2月の冬季は積雪寒冷を特徴としており、一冬の降雪量はおよそ5mにも達する。3月に入ると寒気も緩み、4月上旬には根雪の終日を迎える。シカゴやモントリオールなど札幌と同程度かそれ以上に寒冷な大都市はあるが、それらの都市の降雪量は2mほどである。人口約200万人を抱える大都市が札幌ほどの豪雪地域に位置するのは、世界的に見ても珍しい。 また、とりわけ冬季は同じ札幌市内であっても日本海側、太平洋側内陸方面、山間部などで風向きや雪雲の動き、寒気の流入具合、さらにヒートアイランド現象など、降雪量、気温には大きな違いが出るのが特徴であり、気象台の数値と大きく異なることが少なくない。
近年は札幌でもヒートアイランド現象が日本三大都市と同様に著しい。この100年間に札幌の1月の最低気温は6.5度上昇し、名古屋の+4.3度や大阪の+3.6度を上回り、東京の+6.9度に近い上昇となっている。札幌管区気象台が設置されている札幌都心では、ヒートアイランド現象により厳寒期に最低気温が-20度前後に下がることは皆無となり、-10度以下になることも激減している。さらに、1月の最低気温の平年値(-6.4度)より低くなることも少なくなった。特に2000年以降の最低気温の上昇率は東京を上回っている。そのため、北海道内で比較的温暖な気候とされていた道南沿岸部や、東北地方内陸部の一部地域よりも厳寒期の最低気温が高くなる日も多くなっており、気象台周辺から大通公園、札幌駅にかけての中心市街地地域が冬季の気温は札幌市内では最も高くなっており快晴時の朝晩を中心に時に周囲とは5度~10度も異なることもある。なお、気象台から約8㎞ほど南西にある周囲が農地のままと都市化の影響の小さい羊ヶ丘では国立研究開発法人の北海道農業研究センターによる気象観測が1973年以降継続して行われており、気象台とは位置は異なるものの札幌本来の気候の指標ともなっておりほぼ毎年-20度以下を観測している。
石狩振興局
後志総合振興局
胆振総合振興局
札幌市の人口は2008年(平成20年)8月に190万人を突破しており、男女比は女性の10.0人に対し男性は9.0人となっている。10代までは男性人口の方が多く、20代以降は女性人口の方が多くなる。
海に面していない市区町村では、日本一人口が多い。
1920年(大正9年)の第一回国勢調査では、人口は102580人であり、函館市・小樽市に次いで道内では3番目であった。その後は第一次世界大戦後の好景気などによって、当時の基幹産業であった食品加工業や繊維工業などの軽工業が発達し、人口は順調に伸びていった。1941年(昭和16年)の調査では人口が224729人と初めて20万人を超え、函館市を抜いて道内1位となった。
第二次世界大戦後は、戦前から推進されていた日本政府の統制経済政策によって、政府の出先機関が集中した札幌市の経済的役割が急激に上昇した。さらに戦前までの道内経済の中心であった函館市や小樽市の衰退や、1950年(昭和25年)の北海道開発法制定・1952年(昭和27年)の第一次北海道総合開発計画施行などの、政府主導の北海道開発事業やそれに伴う道外資本の道内進出なども相まって、企業・工場などの札幌市への新設・移転が相次いだ。特に戦前までは小樽市に集中していた道内の主要な金融機関や卸売業者、道外企業の支店などが、事業拠点を軒並み札幌市に移したことは、戦後の北海道の産業構造にも重大な変化をもたらした。戦後の全国的な都市集中傾向や道内の第一次産業(農林水産業など)の不振などの事情もあり、戦前はそれほど顕著ではなかった道内各市町村からの札幌市への人口流入も目立つようになる。1953年(昭和28年)頃から人口の社会増加が顕著となり、1955年(昭和30年)の調査では人口が426620人と40万人を突破した。
全国的な都市集中傾向は昭和30年代(1955年~1964年)の高度経済成長期でさらに進み、北海道の中心都市である札幌市では特に顕著に現れた。1960年(昭和35年)以降は北海道全体の人口増加率は低下したが、札幌市は年間3%から8%の高い比率で転入による人口増加が進んだ。小樽市などからの商業従事者の転居や、道内石炭産業の衰退による炭鉱離職者の流入、さらに郡部からの移転など、転入元は全道規模に及び、札幌市の人口は年間5万人のペースで急増した(1967年(昭和42年)の「住民登録人口移動調査報告書」によると、最も転入が多かったのは小樽市からで、次いで夕張市などの炭鉱地域の都市がランクインしている)。その後、生活圏の拡大により周辺市町のベッドタウン化が進行するものの札幌市の人口は増加の一途をたどり、1965年(昭和40年)の調査では人口が794908人、1970年(昭和45年)の調査では人口が1,010,123人となり日本国内で8番目となる100万人都市となった。1972年(昭和47年)には川崎市・福岡市とともに政令指定都市に移行し、区制が施行された。戦後の札幌市の大都市化は、北海道内からの道外への人口流出の歯止めになった部分はあるものの、雇用の受け皿となる事業拠点が札幌市やその周辺に集中したことにより、道内の農漁業地域や旧炭鉱地域の過疎化を助長する一因ともなった。
1979年(昭和54年)に札幌市の人口が神戸市を抜いたことで六大都市の牙城がついに崩れ、4年後の1983年(昭和58年)には京都市も抜いた。なお、札幌市と同日に政令指定都市へ移行した福岡市が京都市を抜くのは2011年(平成23年)、神戸市を抜くのは2015年(平成27年)、川崎市が京都市を抜くのは2015年、神戸市を抜くのは2019年(令和元年)であり、札幌市の人口増加がいかに急速なものであったかを物語っている。
産業別人口では、戦後は都市化の特色である消費的性格が強められたこともあり、第三次産業(卸売業・小売業・サービス業など)従事者の割合が急激に上昇し、1966年(昭和41年)には全産業人口の約7割に達した。第一次産業は、戦中から戦後にかけて、円山町・琴似町・札幌村などの農業従事者の多い隣接町村を合併したこともあり、1950年代までは就業人口に大きな変化はなかった。その後は、急速な人口流入に対応するために、農地を宅地へ転用したことなどによって離農者が続出し、1967年(昭和42年)には全産業人口の僅か3.9%にまで減少した。
平成27年をピークに減少傾向にあると考えられてきたが、平成29年においても、人口は増え続けている。北海道内の自治体で唯一推計人口を毎月発表している。
2018年(平成30年)度の札幌市の人口動態調査によれば、人口は前年比で1934人増えたが、増加幅は前々年(3862人)より減った。転入や転出による「社会増加数」は、転入が63344人に対し、転出は55697人で、7647人のプラス(転入超過)であった。内訳をみると、道内の他市町村とは11560人の転入超過だったのに対し、道外とは3913人の転出超過になっている。また、出生者数から死亡者数を引いた「自然増加数」はマイナス6016人で、2009年(平成21年)度から10年連続の自然減となった。社会増加数の人口増加数全体における割合は、2000年代に入ってから再び上昇傾向にあり、近年の札幌市の人口増加の原因の一つとされている。2020年(令和2年)度の総務省統計局の「住民基本台帳人口移動報告」によると、札幌市の転超過数は10493人で、大阪市・東京都特別区部・横浜市・さいたま市に次いで全国5位であり、65歳以上の転入超過数では全国最多であった。
令和3年10月1日時点の推計人口は1,975,001人であり、前年比で64人減となった。
2022年(令和4年)9月1日現在の外国人登録者数は15,072人である。合計特殊出生率は1.12(2019年度)である。
江戸時代の札幌は「サツホロ」または「シヤツホロ」と呼ばれ、西蝦夷地イシカリ場所に属した。当時のサツホロは、サッ・ポロ・ペッ(アイヌ語で乾いた大きな川・乾く広い川の意。現在の豊平川)流域を指したが、当時の流路は現在の豊平橋付近から現在の伏籠川の流路をたどり、篠路川沿いに茨戸で茨戸川(旧石狩川)に注ぎ込むものであった。狭義でのサツホロは茨戸川河口部(現茨戸付近)を指し、サツホロブト(サッポロ川の合流点)とも呼ばれた。1669年(寛文9年)のシャクシャイン蜂起時に津軽藩の牧只右衛門が記した『石狩地形の事』には、「石狩浜口より一里程登り候て、はつはやふより二里程登候てさつほろと申所に狄有。さつほろの枝川に竪穴半里計の沼御座候」という記述があり、サッポロベツにアイヌの住人がおり、サッポロベツの支流に沼があったことがうかがえる。
1752年(宝暦2年)の地図では、石狩川支流にハツサブ川(発寒川)・サツホロ川が書き込まれ、さらにサツホロ川左岸に米セオイ道のアプタ道が描かれており、山稼人夫の糧米輸送路であったことがわかる。その後天明から寛政期にかけて、松前藩によってアイヌ支配のためイシカリ場所が13箇所に分けられ、そのうちハッシャブ場所(現在の茨戸川左岸、発寒川合流地付近、現在の北区内)・シノロ場所(現在の茨戸川左岸、篠路川合流地付近、現在の北区内)・ナイホウ場所(伏篭川上流付近、現在の東区内)・上サッポロ場所(豊平川流域)・下サッポロ場所(豊平川流域)が、現在の札幌市に相当する地域に開かれた。これらの場所と呼ばれる松前藩家臣の知行地は幕末まで存続した。1807年(文化4年)に西蝦夷地が一時幕府領となると、1810年(文化7年)に石狩場所内のアイヌの調査が行われたが、上記のハッシャブ場所を除く4場所に住むアイヌの人数の合計は552名(男性279人、女性273人)であった。
現札幌市内への和人の定住は、1855年(安政2年)ごろに、豊平河畔で渡船の仕事に従事していた志村鐵一と、同河畔で狩猟に従事していた吉田茂八の一家が最初とされる。1857年(安政4年)には札幌越千歳道路が完成し、豊平川に官費で渡船が設けられ、通行屋も置かれた。同年の松浦武四郎『丁巳日誌』には、「今サツホロ蝦夷、文化七庚午のとしの改百九十人有しが、今此処の人別帳漸々五軒。人別二十六人ならでなし」とあり、サツホロアイヌの多くが別の地域に移住したことが記録されている。また、松浦武四郎『西蝦夷日誌』によると、当時の箱館奉行がツイシカリ(対雁、当時流路が変わったサッポロベツが石狩川と合流する地点)に大府を置くことを提案したのに対し、松浦は札幌・樋平(豊平)の辺りに置くことを献策している。
石狩平野から勇払平野にかけて連なる石狩低地帯は、古くから北海道の日本海側と太平洋側を連絡する交通の要地であり、江戸時代に入ると石狩・勇払間を結ぶ簡易道路も作られた。また、木材や魚介類などの天然資源に富み、地味も肥沃であることから、幕府や松前藩、東北地方の諸藩などによる調査探検も行われていた。石狩平野の西部に位置する札幌が、幕末期から開発の対象となり、さらに明治維新後には北方警備や開拓事業の拠点となったことは、上記の事情と決して無関係ではない。
明治維新後の1869年(明治2年)に石狩国札幌郡に属し、同年開拓判官島義勇の指導の下、札幌本府の建設が始まる。同年旧暦11月、島義勇が函館・銭函経由で札幌入りし、現在の中央区北1条西1丁目に近在の元村の大友亀太郎の役宅を移し、官邸の建築に着手した。当時の札幌中心部は森林に囲まれ、本府の建設には苦心惨憺たるものあった。島は数百人の大工・職人・人足のほか地元アイヌの協力を得て都市建設を始め、元村の木材を伐採し、住宅や倉庫・仮御宮・病院・道路などを建設した。当時石狩や小樽などを管轄し、開拓使と対立関係にあった兵部省の井上弥吉や小出房一郎らは、管轄地内の物資を開拓使に売ることを禁じたため、札幌本府は深刻な食料不足に陥った。このため元村や篠路村などの周辺町村から食料を徴収したり、余市・忍路・厚田などの請負人から援助を受けるなどをして糊口を凌いだ。島自身も掘立小屋で犬を抱いて寒さをしのぐほどであった。
島の思い切った札幌建設は開拓使長官東久世通禧や兵部省との対立を生み、翌1870年(明治3年)2月に島は職を辞して東京に去った。後任の判官には岩村通俊が就任したが、資金不足などの理由から札幌本府の経営は一時中止となった。島の部下であった権監事西村貞陽らはその状況を憂い、東久世に経営の再開を強く訴えたため、1870年12月に経営再開が決まった。中央区南1条東1丁目には「札幌建設の碑」があるほか、島の銅像が札幌市役所ロビーと北海道神宮に建てられている。
明治初期に現在の札幌市域に所在したアイヌのコタン(集落)は4つあり、その内で上サッポロコタンが現在の中央区北2条東1丁目付近、サクシコトニコタンが現在の偕楽園緑地から北海道大学キャンパス付近、フシココタンが現在の東区北9条東9丁目付近、ハッサムコタンが現在の西区琴似4の1付近だった。彼らは上川の族長クーチンコロに属し、毎年7月から10月まで石狩郡役所に出稼ぎしていた。
「札幌市略年表」、「道路建設の歴史」参照
「札幌市略年表」、「道路建設の歴史」参照
札幌市は市長の補助機関として副市長(旧称・助役)が置かれ、市長が議会の同意を得て選任する。任期は市長と同じ4年。2018年(平成30年)現在で3人が選任されている。政令指定都市移行後に区制を施行し、現在は10区に分かれている。各区長は市長の事務を補助執行し法令などにより委任された事務を自らの権限と責任で執り行う。また、事務の目的や性質などに合わせて室・局を設け、局には部・所・室などを設けており、さらに課・係などに分かれている。職員数は約14,000人。
医療に関しては、イタリアのバザリア法制定など、世界で精神科病棟の廃止・隔離拘禁の違法化が進む中、札幌市の精神科病床数は全国の市町村で最も多く、7200床がある。人口1万人当たりの精神科病床数は、世界平均が1.5床に対し、札幌市は38床で、札幌市は世界一精神病患者の社会的入院が広がった都市である。
札幌市では、1989年4月に『札幌市情報公開条例』を施行。2000年4月には全部改正後の札幌市情報公開条例を施行。2004年1月からインターネットによる公文書公開請求の受付を開始している。
札幌市民憲章は、1963年(昭和38年)11月3日に市民の総意として制定された。
札幌市は1953年4月に全国に先駆けて市議会を公開した。市議会には、年4回定期的に開く定例会(通常3月、5月、9月、12月)と必要に応じて開く臨時会があり、その招集は市長が行う。2019年現在の定数は68名。
2019年7月5日時点の会派構成は以下の通り。
「行政機関所在地一覧」参照
「独立行政法人所在地一覧」「特殊法人等所在地一覧」(令和3年7月1日現在)参照
独立行政法人
特殊法人など
公文書館
図書館
2009年2月の札幌市外国籍市民意識調査 報告書(ダイジェスト版)によると、札幌市の外国人登録総数は9,126 人。
「姉妹都市」及び「交流協定等締結都市」参照
姉妹都市
提携都市
提携都市
その他
「在札幌外国公館等」参照
総領事館
名誉領事館
北海道経済の中心都市で、市内総生産は名目で7兆6100億円(令和元年度)。札幌市の経済は人口の増加に伴う市民サービスや事業所向けのサービス業などの第三次産業が最も発達しており、地元に形成された需要に対応する内需型産業を中心に発展してきた。流通業では札幌で成長した小売企業が北海道外へ展開する例が複数あるほか、コンテンツ産業の育成が市の計画に盛り込まれて以降、IT、情報メディア、コンテンツ産業系の企業が集積している。
明治時代の開拓初期から屯田兵が水田・畑の開墾を行い、1876年には北海道大学の前身となる札幌農学校が設置されるなど北方農業の技術拠点としての役割を担ってきた。太平洋戦争後は札幌市の急速な発展に伴い都市基盤整備のために農地が転用され、農地・農家戸数の減少が進んだ。2006年の農業産出額はおよそ38.4億円で、耕種が30.7億円で畜産が7.8億円となっている。主な産物は、タマネギ(札幌黄)、カボチャ、スイカ、ホウレンソウなどで、タマネギに関しては札幌が栽培発祥の地である。
北海道における工事費(出来高ベース)の構成比は、2010年度で公共56.4%、民間43.6%と公共の割合が半数以上を占めており、全国で最も高い比率となっている。公共事業の減少傾向に伴い、札幌市でも建設業の事業所数・従業員数ともに減少している。製造業においては、札幌市の製造品出荷額は2010年で4696億円となっており、北海道内では工業都市の苫小牧市・室蘭市に次いで第3位となっている。また、製造業においても事業所数・従業員数ともに減少傾向となっている。主な業種は食料品製造業、印刷・同関連業、金属・機械製造業となっている。
札幌市では「札幌型ものづくり産業」としてIT産業、バイオ産業、コンテンツ産業が新たな産業振興として発展しており、1986年には札幌テクノパークが分譲開始し、1990年代には札幌駅北口周辺を中心にIT関連企業が集積した。札幌市のIT産業は主要製造業を上回る規模になっており、北海道全体のおよそ8割のシェアになっている。また、2011年12月には札幌市が総合特別区域法による「札幌コンテンツ特区」(2016年特区解除)、札幌市を含む北海道内の一部市町村が「北海道フード・コンプレックス国際戦略総合特区」に指定されており、フード特区では北海道産の農水産資源や加工品の付加価値向上、販路拡大などを図っている。
札幌市で最も発達している産業である。小売業に関しては事業所数は減少傾向であるが、従業者数は飲食料品小売業を中心に増加している。不動産業事業所数の割合は、全国・北海道・地方中枢都市(仙台市・広島市・福岡市)のいずれと比較しても札幌市の割合が上回っている。札幌市中心部(駅前通地区)のオフィス平均賃料は2011年12月末時点で13,445円/坪となっており、東京丸の内地区の3分の1の賃料となっている。札幌市は2000年度からコールセンターの誘致活動を行っており、金融業・保険業・小売業など全国有数のコールセンター集積地となっている。サービス業に関しては、学術研究・専門技術サービス業事業所数の構成比が全国・北海道と比較して高い割合になっている。また、サービス業における業種別の従業者数の構成比をみると、医療・福祉業が最も多く、次いで宿泊業・飲食業、生活関連サービス業・娯楽業と続いている。
食品
機械
石油・石炭製品
公共交通
その他運輸
百貨店・スーパーマーケット
コンビニエンスストア
ホームセンター
ドラッグストア
保険調剤薬局
自動車・産業機械小売
燃料・ガス小売
外食産業
その他小売
金融機関
生命保険
証券業
証券取引所
その他金融・保険
観光
アミューズメント
医療・福祉サービス
広告代理
コンサルタント
人材紹介
学習支援
その他サービス
「さっぽろ産業ポータル」参照
テレビ・FMの送信所は手稲山、AMラジオの送信所は江別市(江別ラジオ放送所)に設置している。2015年6月現在、札幌市では全国の市区町村(基礎自治体)で最も多い8局が放送している。
テレビ放送
エリア放送
ラジオ放送局
コミュニティ放送局
インターネットラジオ局
ケーブルテレビ事業者
情報処理・データセンター
電気通信
ソフトウェア
その他
国立
公立
私立
通信
私立
IC乗車カードはJR北海道が導入している「Kitaca」、札幌市交通局が導入している「SAPICA」があるが、KitacaがSAPICAエリア(一部を除く)で片利用できるサービスのため、注意が必要である。また、高齢者の社会参加を促進するため「敬老優待乗車証」や、障がい者交通費助成として「福祉乗車証」などを発行している。
中心となる駅は札幌駅と大通駅である(両駅は札幌駅前通地下歩行空間を介して直結している) 。私鉄系ではかつて定山渓鉄道(現・じょうてつ)が運営する定山渓鉄道線が存在したが、1969年に全線廃止となった。
現在の鉄道路線は、JR北海道の他、札幌市交通局が運営する札幌市営地下鉄、札幌市交通事業振興公社が運行する札幌市電がある。
かつては路線バスで札幌市営バスが運行していたが、北海道中央バス、ジェイ・アール北海道バス、じょうてつの3社に譲渡して廃止した。都市間バスは札幌駅周辺から北海道内各都市への高速バス、新千歳空港および札幌丘珠空港への連絡バス、観光地へのシャトルバスが発着している。
北海道運輸局によれば、札幌交通圏における2013年度末の合計タクシー車両台数は4,874両(適正車両数4728両)。2013年度の実働実車率は30.4 %(2001年度比マイナス14.1 %)。2013年度の総実車キロは1億1,773万5,777 km(前年度比1.2 %増)。2013年度の日車営収および日車実車キロは、それぞれ28,800円および74.8 km(2001年度比の日車営収はマイナス23. 9%、日車実車キロはマイナス30.2 %)であった。この事実を受けて2015年10月20日に運輸審議会は「札幌圏ではタクシーの供給輸送力を削減しなければ、タクシー事業の健全経営を維持し、公共交通としての機能を発揮できない」として、タクシー適正化・活性化法第三条第一項に基づき、札幌交通圏を総車両数を制限することが可能な「特定地域」として指定することが適当であると判断した。特定地域の指定期間満了日は2018年10月31日であったが、再々延長を経て「準特定地域」となっている。
北海道ハイヤー協会加盟事業者による普通車の初乗り上限運賃は、距離制(1.28km)が670円、時間制(30分)が3,540円となっている。
札幌市街地の道路は、開拓使の都市計画に基づき1869年(明治2年)に始まり1871年(明治4年)から本格的に作られ始められ、碁盤の目のように走っているのが特徴である。札幌の建設を計画した開拓使の判官島義勇は、中国の長安や日本の京都風にしたいと考えていたが、工事の難航から免官となり、1870年(明治3年)に開拓次官の黒田清隆がこれに代わって多くのアメリカ人技師を招き寄せて新都市を開発し、アメリカ式のまちづくりを行っていった結果だといわれる。
当初は、「札幌通」「石狩通」といった地名を街路名とするネーミングがなされていたが、明治の中ごろからは、街路名に東西路は「南1条」、南北路は「西1丁目」のように名称がつけられた。
「札幌市内の指定文化財(国・道・市)」参照
「札幌市内の登録文化財」参照
中央区
北区
東区
白石区
豊平区
南区
西区
厚別区
手稲区
清田区
文化イベント
音楽イベント
スポーツ大会
札幌市でこれまでに開催された主なスポーツ大会
「味噌ラーメン」や「スープカレー」発祥の地とされ、北海道の新鮮な食材を活かした様々な食文化が発達している。2005年に「スイーツ王国さっぽろ推進協議会」が設立しており、洋菓子製造が盛んな札幌からスイーツの普及を通して北海道経済に新たな活力を生み出そうと各方面への取り組みが行われている。2009年には札幌市として『北海道の食を愛するまち札幌』宣言を行い、北海道内外に食を発信するだけではなく、北海道の食を消費していくことの必要性を唱えている。
名物
名産
平岸霊園内の栄誉市民霊域には、橋本、高岡、板垣の墓所がある。
札幌市に所縁があり、且つ同市の応援者である会社役員等に「札幌観光大使」を委嘱し、同市の魅力を国内外に発信することで、同市の知名度アップと観光客の誘致を図ることを目的とした制度。札幌商工会議所が企画・運営を行っており、希望者による公募や他大使からの推薦により、適任と判断された者が委嘱される。任期は約2年で、2023年3月現在の人数は約180名。
「札幌フィルムコミッション」は、札幌を舞台にした映画やテレビ番組、CM撮影などに対してロケ地や気象、イベント情報、撮影時に必要な申請などの各種情報を提供している。また、「ジャパン・フィルムコミッション」北海道ブロック長として、北海道全域で撮影する際には北海道内各自治体への連絡窓口となって撮影が円滑に進むように支援している。
行政
産業
観光
歴史
その他
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