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伊庭八郎


伊庭八郎


伊庭 八郎(いば はちろう)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士・幕臣。諱は秀穎(ひでさと)。隻腕の剣客として知られる。

生涯

天保15年(1844年)、「幕末江戸四大道場」の一つに数えられる御徒町の剣術道場「練武館」を営む心形刀流宗家を、養子となって継いだ伊庭秀業の長男として江戸に生まれた。

伊庭家では実力のある門弟が宗家の養子となって流儀を継承することが多いが、秀業も実子ではなく養子とした秀俊に継がせており、秀穎はこの義理の兄にあたる秀俊の養子となって後に宗家を継ぐことになる。

幼少の頃は剣術よりも学問を好み、漢学を長谷部甚弥、書法を市河米庵に学び、蘭学にも興味を示していた。剣術の稽古を始めたのは遅くなってからだったが、次第に頭角を現し“伊庭の小天狗”“伊庭の麒麟児”と異名をとるようになる。江戸幕府に大御番士として登用。文久4年(1864年)正月 家茂公が再度上洛の為、八郎をはじめ直心影流、北辰一刀流など腕利きの剣客50名で奥詰隊が発足 その後1866年 家茂公逝去のため解散  又、幕臣子弟の武術指導のための講武所がつくられると教授方を務める。

慶応2年(1866年)に元奥詰隊が改編され遊撃隊となると、八郎も秀俊と共に一員となった。慶応3年(1867年)10月、遊撃隊に上洛の命令が下り江戸を出立した。遊撃隊は将軍を大阪まで護衛した後、伏見に布陣。翌4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発するが、新政府軍に敗れて江戸に敗退した。

江戸帰還後、遊撃隊の一部と共に木更津に行き、請西藩主・林忠崇に協力を要請する。協力に応じた請西藩士を含んだ遊撃隊は、前橋藩が守備する富津陣屋を無血開城させて武器弾薬を接収した後、房総半島の館山から出帆し、相模真鶴に上陸。その後、伊豆韮山 - 甲府 - 御殿場-甲州黒駒-沼津と転陣、途中で加盟する者も多数有ったので沼津滞陣中に遊撃隊を再編成し、八郎は第二軍隊長となった。

5月15日彰義隊が上野戦争を始めるとこれに呼応。新政府軍の江戸入りを阻止するため、箱根の関所を抑えようと小田原藩兵と戦闘となった。一時は和睦が成立したものの、26日再び敵対した小田原藩と箱根山崎で戦いが起こり、湯本の三枚橋付近で足に被弾。更に背後から小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られる中、八郎は振り向きざま下方から首へ心行刀流剣認識の一突きで相手を絶命させている。八郎は従者の阪本鎌吉に担がれその場から味方陣地の早雲寺へ逃れる。左腕は途中から先を切断。切断面から二寸程の骨が飛び出ていた八郎は「とんと痛かねえやい」と小刀ですっぱり削り落としたと生き残った阪本が証言。以後、左手は不自由となりながら戦い抜く。

江戸退却の後、八郎などの離脱者を除いた遊撃隊士は人見・林らに率いられ、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊の長崎丸に乗って、奥州へ向かった。八郎は病院船で治療を受けていて、遅れて奥州へ向かったが、乗船した美賀保丸が銚子沖で座礁。なんとか上陸は果すものの、無念のあまり切腹しようとした。しかし、同行していた中根淑に止められ、改めて奥州へ向う手立てを講ずることとなり、杉田廉卿の勧めで横浜の尺振八宅に潜伏。11月、尺振八の斡旋により、八郎に付き添っていた本山小太郎とともにアメリカ艦で箱館へ向かった。なお、尺振八は中根から八郎を託された際、既に会津落城の一報も届いており、北走を思い止まるよう説得している。それに対し中根は説得を受け入れたものの、もし北走の望みを断たれれば八郎は必ずや自尽するとして、八郎だけはなんとか行かせてやりたいと頼み込み、尺振八も「かかる丈夫を空しく死なしむるも実に惜しむべきことなり」と頼みを聞き入れたという。

箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で、歩兵頭並、遊撃隊隊長となった。箱館戦争では徹底抗戦を主張し、隻腕でありながらも遊撃隊を率いて奮戦したが、木古内の戦いで胸部に被弾した。箱館病院で治療を受けていたが、当時の医療では為す術は無く、致命傷となった。箱館撤退の際に傷病者が搬送された湯の川ではなく、五稜郭に入ることを希望。虫の息となっても痛いとは一言もいわなかったが、開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干して自決した。享年26。

命日は墓碑には5月12日と刻まれているが、田村銀之助の話から5月15日とする説もある。墓所は東京都中野区の貞源寺。法名は秀院清誉是一居士。

俳句・短歌

「朝涼や 人より先へ 渡り舟」(『征西日記』の中に登場する俳句)
「其の昔 都のあとや せみしぐれ」(『征西日記』の中に登場する俳句)
「あめの日は いとど恋しく 思ひけり 我良き友は いずこなるらめ」(横浜にて潜伏中に詠んだ短歌)
「待てよ君 冥土も共にと 思ひしに しばし後るる 身こそ悲しき」(辞世の歌とされているが、戦死した親友に向けて詠んだ短歌)
『旧幕府』第2巻第8号所収の「北鳴詩史附録」による。ただし、「こそ」の後の動詞・形容詞は已然形とするものであるため、「悲しき」は誤りとして『国史大辞典』では「身こそつらけれ」と改訂されて掲載されている。

家系・家族

系譜

※実線は実子、破線は養子または婚姻関係、数字は心形刀流宗家歴代当主
※通常と異なり、右から年長順

登場する作品

小説
  • 『伊庭八郎』『伊庭の突穴』『突っかけ侍』『剣客物語』『香亭先生伝』ほか(子母澤寛)
  • 『戊辰戦役』(野村胡堂)
  • 『幕末遊撃隊(旧題『剣士伊庭八郎』)』『ごめんよ』『その男』(池波正太郎)
  • 『遊撃隊始末』(中村彰彦)
  • 『心形刀(旧題『伊庭八郎』)』(柴田錬三郎)
  • 『明治暗黒星』『エドの舞踏会』(山田風太郎)
  • 『歳三の写真』(草森紳一)
  • 『幕末遊撃隊 伊庭八郎』(長谷川つとむ)
  • 『伊庭八郎 遊撃隊隊長 戊辰戦争に散った伝説の剣士』(野村敏雄)
  • 『坐視に堪えず』(東郷隆)
  • 『雨に紛う』(真野ひろみ)
  • 『風よ聞け』ほか(北原亞以子)
  • 『あさぎ色の風』シリーズ(藤堂夏央)
  • 『伊庭八郎幕末異聞』シリーズ、『伊庭八郎凍土に奔る』ほか(秋山香乃)
  • 『松前の花(旧題『美姫血戦』)』『土方歳三』(富樫倫太郎)
  • 『維新と戦った男 大鳥圭介(旧題『死んでたまるか』)』(伊東潤)
  • 『維新の羆撃ち』(経塚丸雄)
映画
  • 『伊庭八郎』(1933年、原作:子母澤寛、監督:荒井良平、演:山本礼三郎)
  • 『狼よ落日を斬れ』(1974年、原作:池波正太郎、監督:三隅研次、演:近藤正臣)
ドラマ
  • 『五稜郭』(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、監督:斎藤武市、斎藤光正 演:舘ひろし) 
舞台
  • 『散る花よ、風の囁きを聞け〜伊庭八郎秀穎、見参!〜』(1986年、宝塚歌劇団、原作・監督:谷正純、演:朝香じゅん)
  • 『その男』(2009年、原作:池波正太郎、脚本:鈴木聡、演:波岡一喜)
漫画
  • 『願わくば花のもとにて』(一條和春、ラポート『月とノスタルヂヤ』収録、1994年)
  • 『凍鉄の花』(菅野文)
  • 『伊庭征西日記 徳川直参の生き様と明治維新』(森田信吾)
  • 『歳三 梅いちりん』(かれん)
  • 『ICHI』(篠原花那)※漫画版のみの登場
  • 『JIN-仁-』『侠医冬馬』(村上もとか)
  • 『黒猫DANCE』(安田剛士)
  • 『MUJIN-無尽-』(岡田屋鉄蔵)
  • 『勇気あるものより散れ』(相田裕)
ゲーム
  • 『薄桜鬼真改』(2015年、オトメイト、声:宮野真守)
  • 『瞬旭のティルヒア』(2018年、ライアーソフト)
資料集
  • 『戊辰箱根戦争 秘録』 天の巻・地の巻・人の巻 他 (露木國寛)

脚注

関連項目

  • 征西日記
  • 心形刀流
  • 遊撃隊 (幕府軍)
  • 三橋成方 - 父方の実の祖父。
  • 伊庭想太郎 - 弟。
  • 金田秀太郎 - 甥。海軍中将。八郎が箱根山崎の戦いで用いた無銘の日本刀を譲り受け、軍刀に研ぎ直し帯刀していた。
  • 伊庭孝 - 母方のはとこ。後に想太郎の養子となる。
  • 熊谷正寿 - 母方の祖母が八郎のはとこ伊庭秀栄の長女の伊庭貞子。伊庭孝は曾祖伯父。
  • 荒井鎌吉

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 伊庭八郎 by Wikipedia (Historical)