本項世田谷区の町名(せたがやくのちょうめい)では、東京都世田谷区における現在の町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の町名の変遷について記述する。
世田谷区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の荏原郡世田ヶ谷町・松沢村・駒沢町・玉川村の区域をもって成立した(当時は東京市の区であった)。昭和11年(1936年)、北多摩郡砧村と千歳村を編入して現在の区域になった。以下、明治時代初期から世田谷区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の世田谷区の区域は、かつては武蔵国 荏原郡 及び多摩郡に属し、近世末には下記の40か村に分かれていた(明治時代初期に分割されたり隣村に編入された村があるため、時期によって村の数には変動がある)。
これらの村に関し、明治時代前期に以下の変更があった。
現・世田谷区域内の村々は、近世には幕府領、旗本領、彦根藩領などに分かれていた。井伊家を藩主とする彦根藩は近江国(滋賀県)の北部を支配していたが、下野国佐野(栃木県)と武蔵国世田ヶ谷にも飛地領地を有していた。世田ヶ谷にある彦根藩領の村は彦根藩世田ヶ谷領二十ヶ村と称され、荏原郡と多摩郡にまたがる以下の村々を含んでいた。
上記のうち、岩戸村、猪方村、和泉村(いずれも多摩郡)は、現在の狛江市に属し、他は世田谷区のうちである。
明治維新後、明治22年(1889年)の市制・町村制施行までの過渡期には、日本国内の行政区画はめまぐるしく変わった。世田谷区の場合は、一時期彦根県や神奈川県に属していた区域が含まれるため、行政区画の変遷は一層複雑である。
旧幕府領・旗本領の村は、武蔵知県事の管轄を経て、明治2年から4年(1869 - 1871年)までは品川県に属していた。一方で、彦根藩領の村は明治4年までは引き続き彦根藩に属していた。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。同時に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。この時、荏原郡の区域は東京府に編入。多摩郡の区域はいったん東京府に属した後、明治5年(1872年)5月、当時の神奈川県に編入された。
彦根藩は、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県によって廃止され、代わって彦根県が設置された。これにより、世田ヶ谷村など旧彦根藩領の村は彦根県の飛地となった。彦根県は同年11月(1872年1月)、長浜県と改称。翌明治5年(1872年)1月、これら旧彦根藩領の村は東京府に引き継がれるが、このうち多摩郡に属していた宇奈根村など9村(現・狛江市内に位置する3村を含む)は、同年5月神奈川県に編入された。
明治7年(1874年)3月、前述の大区小区の区割りが見直され、東京府にはあらためて11大区・103小区が設置された。同年6月、神奈川県でも大区小区制が施行された。後に世田谷区に編入される区域は、東京府の第7大区第6・7小区、及び神奈川県の第10大区第9・11・12小区に属した。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。同じ日、多摩郡は4分割され、東京府に属していた部分(現在の中野区、杉並区に相当)は東多摩郡となり、神奈川県に属していた部分は北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡に分かれた。これらのうち、現・世田谷区に該当するのは、荏原郡と北多摩郡の各一部である。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立。現在の世田谷区の区域に存在していた38村は整理統合されて世田ヶ谷村、松沢村、駒沢村、玉川村(以上、東京府荏原郡)、砧村(きぬたむら)、千歳村(以上、神奈川県北多摩郡)の計6村となった。これら6村と、整理統合前の旧村との対応関係は以下のとおりである。
明治26年(1893年)、北・南・西多摩郡が神奈川県から東京府へ移管され、砧村と千歳村は東京府北多摩郡の村となった。
世田ヶ谷村は大正12年(1923年)に町制施行して世田ヶ谷町となり、駒沢村は大正14年(1925年)に町制施行して駒沢町となった。この間、明治45年(1912年)には東京府と神奈川県の境界が変更された。これは、多摩川の蛇行によって川の両岸に生じていた飛地を解消することが目的であった。これにより、神奈川県橘樹郡(たちばなぐん)高津村諏訪河原の飛地が玉川村と砧村に、高津村久地の飛地が砧村に、それぞれ編入された。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、世田ヶ谷町、松沢村、駒沢町、玉川村の区域をもって世田谷区が新設された。昭和11年(1936年)には砧村と千歳村が世田谷区に編入され、現在の世田谷区の区域となった。東京市に他の自治体が編入されたのはこの時が最後であり、この時点の東京市の区域が後の東京特別区(東京23区)に相当する(新たに生じた埋立地等は除く)。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、世田谷区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、35区は22区(同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区)に再編されるが、世田谷区の区域には変更はない。
以下は、明治22年(1889年)以前の旧村名、同年の市制町村制施行時点の大字名、昭和11年(1936年)現在(砧村・千歳村編入時)の世田谷区の町名の対照表である。
上記のほか、玉川村に大字諏訪河原、砧村に同じく大字諏訪河原と大字久地があった。これらは、神奈川県橘樹郡(たちばなぐん)高津村諏訪河原の飛地、ならびに同村久地の飛地が明治45年に編入されたものである。
世田谷区では、1964年から順次区内の住居表示が実施され、1971年までに全域の住居表示実施が完了している。以下は、住居表示実施直前の1963年現在の町名と現行町名の対照表である。
世田谷区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
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