大喪の礼(たいそうのれい、旧字体:大喪ノ禮)は、日本の天皇又は上皇の国葬であり、国事行為たる皇室儀礼。
日本国憲法下において「天皇(又は上皇)の葬儀」は、皇室典範第25条の規定に基づき国の儀式として執り行われる「大喪の礼」と、皇室の儀式として執り行われる「大喪儀」とに区別される。両者を合わせて「御大喪(ごたいそう)」ともいう。
日本では「大喪(たいそう)」だけで「天皇の崩御と斂葬」を指す(対義語は、天皇の即位を指す「大典、大礼」)。
- 日本国憲法第7条
- 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
- 10.儀式を行ふこと。
- 皇室典範第25条
- 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う。
- 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条
- 3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。
日本国憲法20条3項が政教分離原則を定めることから、国家の宗教的中立性を保つため、国の儀式として行われる「大喪の礼」は、神道や仏教含む特定の宗教による儀式とされない(無宗教)。
皇室の私的な儀式とされた「大喪儀」は、明治天皇以降は皇室祭祀の神道儀礼に則って執り行われている。歴史的に皇室の葬儀は、飛鳥時代・奈良時代 - 江戸時代まで仏教寺院にての仏式の葬儀が行われていたが、孝明天皇の三年祭の際に神式が復古され神道式で執り行われるようになった。
現日本国憲法下において「政教分離原則」に基づく区別は、1989年(平成元年)2月24日に行われた昭和天皇の葬儀の時に定められ、皇居から葬場が設営された新宿御苑までの葬列、葬場における儀式の一部、新宿御苑から墓所が設置される武蔵陵墓地までの葬列が「大喪の礼」とされた(平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』竹下改造内閣)。同時に皇室の私的な儀式として「大喪儀」を行うという形式がとられた。
1912年(明治45年)7月30日に崩御した明治天皇(第122代天皇)の大喪儀は、同年(大正元年)9月13日に行われた。葬儀は大日本帝國陸軍練兵場(現在の明治神宮外苑)にて執り行われ、翌9月14日に伏見桃山陵に埋葬された。
この他、イギリスの中国艦隊から、海軍儀仗兵500名が派遣された。
1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇(第123代天皇)の大喪儀は、翌1927年(昭和2年)2月7日から翌2月8日にかけて行われた。大喪儀は2月7日夜に天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が、宮城(皇居)正門を出発することに始まった。宮中の伝統に従って夜間に執り行われたため、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した。
葬儀は新宿御苑にて執り行われ、霊柩は新宿御苑仮停車場 - 東浅川仮停車場に大喪列車を運転して、鉄道で運ばれた。
1989年(昭和64年)1月7日に崩御した昭和天皇の大喪の礼は、同年(平成元年)2月24日に内閣の主催(大喪の礼委員会委員長:竹下登内閣総理大臣〈竹下改造内閣〉)により行われた。
「大喪の礼」は、当日午前9時35分に昭和天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ。霊柩車)を中心として組まれた葬列(車30台、サイドカー30台の車列、全長約800m)が、宮内庁楽部による雅楽『宗明楽』と陸上自衛隊第1特科連隊による21発の弔砲に送られて、雨の降る皇居正門を出発することに始まった。出発前には、皇室の儀式「大喪儀」である「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」(じしゃはついんのぎ)が執り行われ、出発をもって国家儀式である「大喪の礼」が開式された。
葬列は葬送曲『哀の極』が奏楽される中、桜田門を通り、沿道に集まった約20万人の人々の間を進み国会議事堂正門前、憲政記念館前、三宅坂、赤坂見附、青山一丁目、外苑前、青山三丁目を経て、新宿御苑の葬場総門まで到着した(この途中、青山通りで若年の過激派の男2人が「天皇制反対」を唱えて車列の中に突入したが、即刻警備員に補導されている)。到着後、昭和天皇の霊柩は轜車から葱華輦(そうかれん。天皇が用いる屋上にネギ坊主(葱華)形の吉祥飾りを着けた輿)に遷され、鈍色の衣冠単という古式の装束を着けた皇宮護衛官が「輿丁」としてこれを担ぐ徒歩列が組まれた。徒歩列は雅楽が奏される中、白木造りの葬場殿に入り、霊輦(霊柩が納められた葱華輦)が安置された。
ここで、幔門(門に見立てられた黒一色の幔幕)が閉じられて鳥居などが設置され、国家儀式である「大喪の礼」から皇室儀式である「大喪儀」が執り行われ、「斂葬の儀」(埋葬当日の儀式)のうち「葬場殿の儀」が執り行われることとなった。「葬場殿の儀」では、奠饌幣(幣帛を奉じる神道儀礼)や、天皇の拝礼と「御誄」(おんるい、弔辞)の奏上、皇后を始めとする皇族や親族の拝礼が厳かに営まれた。
「葬場殿の儀」が営まれた後、再び幔門が閉じられ鳥居等が外され、内閣官房長官の小渕恵三(竹下改造内閣)が「大喪の礼御式を挙行いたします。」と開式を告げ、国家儀式である「大喪の礼」が開始された。次いで、天皇・皇后が葬場殿前に進み、正午から1分間の黙祷が行われた。黙祷の後、内閣総理大臣竹下登、衆議院議長原健三郎及び参議院議長土屋義彦、最高裁判所長官矢口洪一といった三権の長が拝礼の上で弔辞を述べ、参列した諸外国元首・弔問使節の拝礼、参列者の一斉拝礼が行われ、葬場殿における「大喪の礼」は終了した。その後、午後1時40分から、再び葬列を組み、四谷四丁目、新宿三丁目、新宿四丁目、首都高速道路4号新宿線初台出入口、中央自動車道八王子インターチェンジを経て、午後3時15分に、陵所が置かれる武蔵陵墓地に着いた。陵所では再び徒歩列が組まれて、皇室儀式として「陵所の儀」が営まれ、昭和天皇の霊柩が陵に納められた。この陵は、武蔵野陵と名付けられた。
「大喪の礼」の当日は、公休日となった(平成元年法律第4号「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」)。なお、都心は雨天であった。各地では弔旗・半旗が掲揚されたほか、全国のテレビ・ラジオ放送(NHK教育テレビ・NHK衛星第1テレビ・NHKラジオ第二を除く)も報道特別番組が編成され、民間企業のCMは自粛され、公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに差し替えられた。また、多くの公共施設が休館となり、多くのデパート・映画館なども休業した。フジテレビのドキュメンタリー番組『世界が日本を見つめた日』では、当日の報道特集を放送した。この日の全日帯での総世帯視聴率(HUD)は、あさま山荘事件で強行突入が行われた1972年2月28日に匹敵する62.8%に達した。
「大喪の礼」には、世界各国から国家元首・使節・大使等、164か国(EC委員会を含む)・27機関の700人に及ぶ人々が参列し、弔問外交も行われた。また国内からは、皇族、三権の長とその配偶者、国会議員(衆議院議員及び参議院議員)とその配偶者、幹部公務員、都道府県知事、各界の代表者等が参列した(参列者の範囲は平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』による)。
国旗は1989年当時のもの。また、諸外国及び国際機関の代表参列者の一覧は『外交青書』(1989年版)に掲載されている。世界中の王室が参列したが、オランダ王室だけは欠席した。当時は中東地域やアフガニスタン、カンボジアを巡る情勢が緊迫化していたこともあり、これらの地域の弔問外交が活発に行われた。
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