徳川 治紀(とくがわ はるとし)は、江戸時代後期の大名。常陸水戸藩の第7代藩主。
安永2年10月24日(1773年12月7日)、徳川治保の嫡男として生まれる。母は准三宮一条道香の娘・溢子(八代君)。幼名は鶴千代。
文化3年12月10日(1805年1月29日)、父・治保の死を受けて33歳で家督を継承した。死去するまでの治世は10年余りであったが、藩政の難局に当たった。
治紀は藩主就任とともに再び緊張を取り戻すため努力した。治保と同じように藩政には積極的で、文武の奨励にも熱心であり、とりわけ異国船の出没もあって武の面に力を入れ、軍制改革などを行って武備の充実に心掛けている。文化4年(1806年)には諸臣に政事についての意見を献ずるよう命じ、意見を述べさせた。これを受け、学者の青山拙斎や藤田幽谷らがたびたび藩政についての改革案を進言している。特に幽谷が彰考館総裁となってからは先生と呼び、しばしば政事について下問するほどであった。
また、治紀の治世の特徴として、父・治保、長男・斉脩のもとで行われた献金郷士制度の廃止が挙げられる。治紀の代には一人の献金郷士も取り立てなかった。かといって藩財政が好転していた訳ではなく、藩主就任翌年の文化4年(1807年)に水戸藩では2度目の藩士の禄の半知借上(給料50%削減)が行われた。この半知借上によって藩士の生活が苦しい同年6月、異国船が初めて水戸藩の近海鹿島灘に姿を見せた。これ以降、次第に異国船が出没し、水戸藩は財政が厳しい中、海岸防備を固めていく必要が生じ、さらに生活の緊縮が要求されることとなった。文化5年(1808年)、水戸藩領東北に位置する多賀郡の海岸に、小規模ながら海防詰所を設置した。文化6年(1809年)3月、水戸に国入りした治紀は領内の巡視などを行ったほか、水戸城内での練兵、城外での鷹狩が数度にわたり大々的に行われた。江戸に帰った翌文化7年(1810年)12月には軍制改革が行われた。その後、文化12年(1815年)2月、支藩守山藩領の鹿島郡松川(現在の大洗町)の近海に異国船が現れたというので、海防は一層強化され、水戸藩の海岸全域にわたる軍の配備が定められた。
しかし改革の空気も、文化期の後半になるとまた弛み、門閥派の家臣の台頭を許したようである。
文化13年閏8月19日(1816年10月10日)、江戸藩邸において急死した。享年44(満42歳没)。跡を長男の斉脩が継いだ。
治紀の代の改革は大きな成果は挙がらなかったが、質実剛健を目指した政治姿勢、彰考館の学者の抜擢、沿岸防備などの政策は、三男の斉昭(斉脩の弟)に継がれることとなった。
※日付=旧暦
女系ながら徳川秀忠と松平信康の血を引いている。
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