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南魚沼郡


南魚沼郡


南魚沼郡(みなみうおぬまぐん)は、新潟県の郡。

人口7,831人、面積357.29km²、人口密度21.9人/km²。(2024年4月1日、推計人口)

以下の1町を含む。

  • 湯沢町(ゆざわまち)

郡域

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、以下の区域にあたる。

  • 南魚沼市
  • 魚沼市の一部(虫野・干溝・板木・原虫野・大浦・大浦新田・十日町・伊勢島・岡新田)

歴史

郡発足までの沿革

『倭名類聚抄』の国郡部に、「越後国魚沼」と記されている。

『兵範記』に、保元の乱の後で平正弘の所領だった「魚野郡殖田村」が没収されて後白河天皇領となったことが記されている。

『吾妻鏡』では「於田庄」の名で記されている。

鎌倉時代には新田氏の配下の里見氏などが拠点とした。『太平記』に「上田山」「栽田山」の地名が見える。

上杉氏の頃は主に上田庄と呼ばれた。江戸時代の頃は魚沼郡と呼ばれた。

慶長3年(1598)年に上杉氏が会津に移封となり、代わって堀氏の入った高田藩(福嶋藩)の一部として扱われる。

堀氏が改易された後、いずれも短い期間で松平氏、牧野氏、福島正則、直轄領になった後、再び松平氏が入るなど頻繁に領主が変わった。

寛永の頃にいくつかの村をまとめて大肝煎(大庄屋、大割元)が置かれ、当郡域では浦佐組54ヶ村、六日町組66ヶ村、塩沢組58ヶ村に分けられた。

越後騒動の後、延宝9年(天和元年・1681年)から享保9年(1724年)までの43年間と、宝暦5年(1755年)から宝暦13年(1763年)までの8年間は天領。

享保9年(1724年)から宝暦5年(1755年)までの23年間と、宝暦13年(1763年)から文久元年(1861年)までの99年間は会津藩の預り領であった。この頃は小千谷に陣屋があった。また必要に応じて塩沢と十日町にも出張陣屋が置かれた。

文久元年に幕府によって組替が行われ、代官支配の村と預り領の村、会津藩領の村にそれぞれ分割され、桑名藩の飛び地も存在するなどした。

隣の小出島には会津藩の陣屋が置かれ、当地域は国境付近の天領も含めて会津藩士が警備を担当していた。この事が戊辰戦争で戦地になる要因となった。

  • 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、魚沼郡のうち後の本郡域の支配は以下の通り。●は寺社領、○は寺社除地が存在。(177村)
  • 慶応4年
    • 5月 - 郷村からも兵が召集された閏4月21日から24日の三国峠の戦い、同27日の小出島の戦いの後、新政府軍の統治下に置かれる。小千谷民政府が治安維持に当たった。
    • 7月27日(1868年9月13日) - 幕府領が柏崎県(第1次)の管轄となる。
  • 明治元年
    • 9月22日(1868年11月6日) - 会津戦争で会津藩が新政府軍に降伏して領地を没収され、領地が柏崎県の管轄となる。
    • 11月5日(1868年12月18日) - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。
  • 明治2年
    • 2月22日(1869年4月3日) - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。
    • 8月25日(1869年9月30日) - 旧・柏崎県の管轄地が柏崎県(第2次)の管轄となる。
  • 明治初年 - 大倉新田・川棚新田が大倉村に合併。(175村)
  • 明治4年
    • 11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により全域が柏崎県の管轄となる。当郡域には第四大区が置かれ21の小区に分けられる。
    • 奥村新田・蓑和島村が合併して奥村となる。(174村)
  • 明治6年(1873年)6月10日 - 全域が新潟県の管轄となる。当郡域には第十三大区が置かれ九つの小区に分けられた。
  • 明治5年(1872年) - 小栗山本新田・小栗山今新田が小栗山村に合併。(172村)
  • 明治8年(1875年) - 干溝新田が干溝村に、明川新田が山口村にそれぞれ合併。(170村)
  • 明治9年(1876年) - 泉孫新田が泉村に合併。(170村)
  • 明治10年(1878年) - 思川新田が思川村に、中野新田が中野村にそれぞれ合併。(167村)

郡発足以降の沿革

  • 明治12年(1879年)
    • 4月9日 - 郡区町村編制法の新潟県での施行により、魚沼郡のうち167村に行政区画としての南魚沼郡が発足。郡役所が六日町村に設置。同日大区小区制廃止。
    • 2ヶ所ずつ存在した田中村が南田中村、北田中村にそれぞれ改称(それぞれ現行の大字に継承)。
  • 明治14年(1882年) - 早川村より清水村が分村。(168村)
  • 明治16年(1884年) - 祖師村が上野村に合併。(168村)
  • 明治18年(1886年) - 早川村より一ノ沢村が分村。(169村)
  • 明治20年(1888年) - 鰕島新田が鰕島村に改称。

町村制以降の沿革

  • 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。特記以外は現・南魚沼市。(47村)
  • 明治26年(1893年)6月9日 - 栃窪新田が改称して栃窪村となる。
  • 明治30年(1897年)1月1日 - 新潟県で郡制を施行。
  • 明治33年(1900年)
    • 7月13日 - 六日町村が町制施行して六日町となる。(1町46村)
    • 11月16日 - 塩沢村が町制施行して塩沢町となる。(2町45村)
    • 12月7日 - 水無村・坂本村が合併して赤石村が発足。(2町44村)
  • 明治34年(1901年)11月1日 - 下記の町村の統合が行われる。いずれも新設合併。(2町35村)
  • 明治39年(1906年)4月1日(2町16村)
    • 上関村・大沼村・大君田村が合併して石打村が発足。
    • 中目来田村・富実村・吉里村・上島村・栃窪村および大富村の一部(竹俣・竹俣新田・片田村・思川)が塩沢町に編入。
    • 南旭村・長崎村・旭村および三和村の一部(雲桐)が合併して上田村が発足。
    • 小栗山村・余川村・君帰村・欠ノ上村・川窪村・八幡村・美佐島村および大富村の残部(西泉田)・三和村の残部(東泉田・大月)が六日町に編入。
  • 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
  • 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
  • 昭和25年(1950年)4月1日 - 伊米ヶ崎村の一部(干溝)が北魚沼郡小出町に編入。
  • 昭和29年(1954年)5月1日 - 伊米ヶ崎村が北魚沼郡小出町に編入。(2町15村)
  • 昭和30年(1955年)3月31日 - 湯沢村・三国村・三俣村・神立村・土樽村が合併して湯沢町が発足。(3町10村)
  • 昭和31年(1956年)
    • 4月1日 - 藪神村・浦佐村・大崎村・東村が合併して大和村(第2次)が発足。(3町7村)
    • 9月1日 - 六日町・五十沢村・城内村・大巻村が合併して改めて六日町が発足。(3町4村)
    • 9月30日 - 塩沢町・中之島村が合併して改めて塩沢町が発足。(3町3村)
  • 昭和32年(1957年)2月1日 - 塩沢町・石打村・上田村が合併して改めて塩沢町が発足。(3町1村)
  • 昭和37年(1962年)4月1日 - 大和村が町制施行して大和町となる。(4町)
  • 平成16年(2004年)11月1日 - 六日町・大和町が合併し南魚沼市が発足し、郡より離脱。(2町)
  • 平成17年(2005年)10月1日 - 塩沢町が南魚沼市に編入。(1町)

変遷表

行政

歴代郡長

脚注

参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 15 新潟県、角川書店、1989年9月1日。ISBN 4040011503。 
  • 旧高旧領取調帳データベース
Collection James Bond 007

関連項目

  • 北魚沼郡
  • 中魚沼郡

外部リンク

『越佐地図教科書』(国立国会図書館デジタルコレクション)- 1896年(明治29年)1月出版。人口 55,943人、戸数9620との記述あり

『南魚沼郡志』(国立国会図書館デジタルコレクション) - 1920年(大正9年)出版。南魚沼郡教育会編・著


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 南魚沼郡 by Wikipedia (Historical)