石川 丈山(いしかわ じょうざん、天正11年(1583年) - 寛文12年5月23日(1672年6月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。父は石川信定(石川正信の子)。三河国出身。大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲し、丈山と号した。子には石川之昌が、子孫に石川竹厓がいる。
江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。
諱は初め重之、後に凹、通称は初め三彌、後に嘉右衛門、字は丈山、号は六六山人、四明山人、凹凸窠、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東渓、三足など。
天正11年(1583年)、三河国碧海郡泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)にて、代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。
一途な性格で早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。慶長3年(1598年)、徳川家康の近侍となり、その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。大坂夏の陣に参加して功績を挙げるが、家康が先陣争いを禁じていたにもかかわらず、軍令に反して抜け駆けをしたため、家康から賞されなかった。軍令に背いた丈山は浪人となり、妙心寺に隠棲した。
元和3年(1617年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事して儒学を学んだ。文武に優れると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かった。紀州(和歌山県)和歌山の浅野家に一時仕えるが、数ヶ月で京都に帰る。その後、病気がちな母を養うために再び浅野家に仕官し、浅野家の転封に従って安芸(広島県)広島に赴き、そこで13年ほど過ごした。母が死去すると引退を願い出たが許されなかったため、病気と偽って広島を去り、寛永13年(1636年)に相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。
さらにその後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を寛永18年(1641年)に建てて終の棲家と定めた。この時、洛東の隠者・木下長嘯子の歌仙堂(三十六歌仙の肖像を掲げていた)に倣って、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。そのため凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった。煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたともいわれ、東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。この頃、後水尾上皇からお召しがあったが「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った。上皇はその意を了として丈山の歌を「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波そふ影は恥かし」と手直しして返したという。清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、寛文12年(1672年)に90歳で死去した。
なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、江戸幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説もある。小堀遠州など当時の文化人とも広く交流したと伝えられるが、中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六であり、京田辺市の一休寺(酬恩庵)の庭園は3人の合作によるとの伝えが遺されている。
丈山は選定に当たり林羅山と協議した。詩人の特徴によって2人ずつ対になっており、堂内でもそのように掲げられている。
丈山は源義家の子・石川義時の末裔である。義時の7代孫である石川信茂が三河国に移住し、その7代孫の石川信貞が松平長親に仕えたことにより、信貞の子孫は松平氏・徳川氏の家臣となった。
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