田中 角栄(たなか かくえい、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。
衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。
自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていたころは、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国の航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。1972年(昭和47年)に総理大臣になると、高等教育を受けていないにもかかわらず努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」、「庶民宰相」、「豊臣秀吉」とも呼ばれた。また、天下人の太閤秀吉になぞらえ子飼いの武将の「七本槍」を彷彿とさせることから、中堅幹部は「七奉行」とマスコミに表現された。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を与えた。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった。
1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ。
なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒(1936年卒)と公称することが多かった。後に中央工学校の五代目校長に就任している。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが、専門学校を含める「専修学校」という学校制度は1976年(昭和51年)に創設されたため、彼が在学当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。
二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。
1934年(昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所の大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った。
夜間部在学中に、保険業界専門誌『保険評論』を発行する小山哲四郎の書生になったり、輸入専門の貿易商「高砂商会」の配送員といった職にも就いたりした。
この頃になって、父親の事業が波に乗ってきたことで、大学に行く金を出してもいいと言ってきた。そのため、一時は海軍兵学校入校を目指し、理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」英語系の正則英語学校に掛け持ちしたり、商業系「錦城商業学校」には4年次に編入で入学など複数の学校通った。しかし、母が病で倒れたの報を受けて、海軍よりも稼げる実業系に志望を変えた。当時既に設立していた共栄建築事務所では海軍大尉の5倍を稼いでいた。通っていた学籍は放校となっている。
1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。このころ、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了) にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。
1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して田中土建工業を設立した。
仕事で訪れた理化学研究所のエレベーターで偶然大河内正敏と乗り合わせた。そして。彼は角栄が自分の家で1934年の上京時に門前払いをくったことを知り、柏崎とのつながりに親しみを覚えたことで、理研の仕事が角栄の会社に舞い込むようになった。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。
1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(韓国のテジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。同年8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」という演説をした。
翌1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する。民主党は日本社会党・国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。
同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。
1948年10月、芦田内閣が昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。
再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ。その主なものとして建築士法 や公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し、後に日本住宅公団が設立された。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した。二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。
民主自由党は1950年3月に自由党となる。
政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同路線を運営する長岡鉄道株式会社の社長に就任した。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが、これは大蔵大臣だった池田勇人が一肌脱ぎ、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している。1972年に退任。また、同じく1953年に『越山会』が誕生した。
田中は1954年には、吉田茂率いる自由党の副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。1955年3月、衆議院商工委員長に就任する。
1955年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党し、田中も参画する。
一.直紀を父・直人の選挙区だった福島3区から衆議院選挙に立てること。 二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。 三.以上の約束を披露宴で公表すること。 だった。
ウィキクォートには、田中角栄に関する引用句があります。
田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は田中の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」などと評され流行語にまでなった。田中派の中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔、野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。橋本と小渕を除く5名は、田中が自民党幹事長として1966年(昭和44年)の総選挙を陣頭指揮した時に初当選し、他の2名も田中が自民党の大実力者としての地位を築いた時代に門下生として物心両面で大きな恩恵を受け当選してきた。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた「国家老」本間幸一、目白詰めの「城代家老」山田泰司、総理大臣秘書を務めた榎本敏夫などがいる。しかし、田中が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。
ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは田中を「闇将軍」と呼んだ。田中自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲くこと)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。眞紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。
典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネルなどが知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設されたため、反発も少なからずあった)などの生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げるとともに、業績を強烈にアピールした。
選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。
自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。それでも倒れた翌年1986年の総選挙では本人の肉声が全く伝えられない中で田中はトップ当選する。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
浦佐駅東口には、田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって、銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が、校内に銅像を立てようとした際には「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言い、これを断っている。
田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として、日中国交正常化を条件としたことがある(詳しくは日中国交正常化を参照)。田中がロッキード事件で失脚した後も、1978年10月の鄧小平の初訪日時には、中国側から日中国交正常化の立役者として田中や大平元外相、さらにそれまで歴史的に復交の基礎作りをした様々な貢献者の遺族にも会いたいとの希望が出され、この結果、鄧小平は田中の私邸を訪問することとなった。鄧小平がこのとき田中を訪問した理由については、「最初に井戸を掘った人を恩人として中国では大切にするのだ」という説明が、日本側においてはしばしばなされる。その後、田中も晩年の1992年に再訪中している。
田中は、ブラジル側に「セラード農業開発協力事業」という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001年の終了までの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現:JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆った耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。
北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せず曖昧な回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。
北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を評価した。当時の大平正芳外務大臣は、同年7月4日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います」と答弁している。
アメリカ合衆国との関係では、初めてのアメリカ大統領(ジェラルド・R・フォード)訪日があり、日米首脳会談後の共同声明で「日米親善の歴史に新たな1ページが刻まれた」と発表した。昭和天皇・香淳皇后主催の宮中晩餐会では日米から182名が出席した。戦後最大規模だった。
議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多く、国対政治の嚆矢とされている。
民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。また、民社党の衆議院議員であった和田耕作はロッキード事件の論告求刑の数週間後、「田中前総理と政治倫理」というパンフレットを作り、「角栄の功績を法律論で縛ってはいけない。政治家としての行動規範は検察的求刑には馴染まない。仮に5億円を授受していたとしても、私的に着服したものでも無かろう。政治家の政治倫理の問題を単なる法律違反の論議に矮小化してはならない」「私は政治倫理の消極面を過小評価するつもりはないが、それを必要以上に強調すれば、何もしないサラリーマン的政治家が立派な倫理的な政治家であるかのような重大な錯誤が起こるからである」という内容で、永田町周辺にばらまいた。
公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派や竹下派(後の平成研究会)所属議員の中にも公明党議員や公明党の支持母体創価学会と親密な関係を持つ者が少なくなかった。自公連立も田中派・竹下派に属した小渕恵三内閣期にはじまっている。
1981年2月に、同じ選挙区で議席を争っていた社会党の小林進の永年在職(25年)議員表彰祝賀会が行われ、その会に田中も招待されたが、田中は「私は社会党の悪口はいうが、小林君の悪口は言ったことが無い。小林君も、自民党の攻撃はするが、田中角栄の攻撃はしたことがない」と挨拶した。
正妻・はなとの間には1男1女をもうけたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。なお、はなには連れ子の静子がいて池田勇人元首相の甥にあたる山持巌と結婚している。
東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男3男は認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。秘書であった佐藤昭子との間の1女(敦子)は認知されていない田中の子供とされている。
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