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平義線


平義線


平義線(ピョンイせん)は、朝鮮民主主義人民共和国平壌市中区域にある平壌駅から平安北道新義州市にある新義州青年駅までを結ぶ、朝鮮民主主義人民共和国鉄道省の鉄道路線である。

概要

日本統治時代には京義線として、京釜線と共に京城(現:ソウル)を起点とする朝鮮から満洲・中国方面への連絡を担う重要幹線と位置づけられていたが、軍事境界線を挟んで路線が分断されたことに伴い、北朝鮮側の路線を平壌駅を境として北側を平義線、同国の施政下においては南端となる開城までを平釜線(釜は釜山を指す)と改称し、現在に至っている。

平壌-北京・モスクワ間の国際列車も運行されており、外国人が利用できる唯一の路線であり、金日成・金正日専用列車も通る主要幹線の一つである。近年は状況が悪く最優等列車でも表定速度は時速30 - 40 km程度であり、日本統治時代より平壌-新義州間の所要時間が伸びている。

なお、京義線は第二次世界大戦末期に複線化工事が実施されていたが、朝鮮戦争で破壊された後はほぼ全線が単線での運行となっている。また北朝鮮では石油以外の資源が多く産出できることから、水力発電・火力発電(石炭)を用いて鉄道の電化が積極的に推し進められ、両線とも現在では直流3,000 Vにて電化がなされている。

路線データ

  • 路線距離:平壌-新義州青年間 224 km(推定値)
  • 駅数:31(両端駅を含む)
  • 軌間:1,435 mm
  • 電化区間:全線(直流3,000 V)
  • 複線区間:平壌駅-間里駅、漁波駅-粛川駅、南新義州駅-新義州青年駅 35.1 km

なお塩州 - 南新義州間のルートは、朝鮮戦争後に日本統治時代の多獅島鉄道を買収した旧:楊市線ルート(龍川経由)に切り替えられ、それまでの白馬経由のルートは支線の白馬線となっている。そのほか、平壌市内でもルートの一部が変更され、日本統治時代より20.9 km短縮された。

沿革

  • 1905年11月5日 - 京義線全線(京城-新義州間)開通。
  • 1939年10月31日 - 多獅島鉄道株式会社により新義州-多獅島港間開通。
  • 1940年10月29日 - 同社により南市-龍川間開通。結果的には京義線のバイパスの形が出来た。
  • 1943年4月1日 - 南市-新義州間が朝鮮総督府鉄道所属楊市線となる。
  • 1943年10月16日 - 南新義州駅が京義線との乗り換え駅になって楊市線の区間は南市-南新義州間に変更される。
  • 1944年4月30日 - 寿亭駅、堂嶺駅を廃止。
  • 1948年9月9日以降 - 平壌-新義州間が平義線となる。
  • 1954年6月3日 - 平壌-北京間を直通する国際列車の運行が開始される。
  • 1964年 - 楊市線が平義線に組み込まれ、塩州-南新義州間の旧区間を白馬線として分離。
  • 2004年4月22日 - 龍川駅付近で列車爆発事故が発生する。
  • 2020年3月31日 - 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行を受けた防疫措置として、中国との間の国際列車などを運行停止。

運行

2014年10月現在の、平義線平壌 - 新義州青年間の急行51・52列車の運行時刻は次の通りである。架線の電圧低下や停電などで実際には時刻通りに運行されないことも多いが、それでも国際列車の運行にはかなりの余裕時間が組み込んであるので、平壌発中国行きの国際列車の時刻が大幅に乱れることはあまりない。

駅一覧

  • 括弧内は旧駅名。

廃駅

  • 尼西駅(니서역) - 粛川駅と文徳駅との間に存在した。廃止当時は平安南道文徳郡に位置していた。
  • 寿亭駅(수정역) - 平壌駅から195.5km地点、塩州駅と内中駅との間に存在した。廃止当時は平安北道龍川郡に位置していた。
  • 堂嶺駅(당령역) - 平壌駅から201.7km地点、内中駅と龍州駅との間に存在した。廃止当時は平安北道龍川郡に位置していた。
  • 立岩駅(립암역) - 平壌駅から213.1km地点、龍川駅と楽元駅との間に存在した。廃止当時は平安北道龍川郡に位置していた。

脚注

注釈

出典

Collection James Bond 007

参考資料

  • 国分隼人『将軍様の鉄道 北朝鮮鉄道事情』新潮社、2007年1月20日。 

関連項目

  • 朝鮮民主主義人民共和国の鉄道
  • 中華人民共和国の鉄道
  • 朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)
  • シベリア鉄道
  • 京義線・東海線鉄道及び道路の連結事業



Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 平義線 by Wikipedia (Historical)