安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の経済学者、社会主義者、政治家。
キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。
福岡藩士岡本権之丞の次男として福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。
小学校を卒業したのち附属小学校に進んで山座円次郎、不破彦麿、塚本道遠らと級友となり、1879年3月に優秀な成績で卒業したが、実家が貧しかったこと、付近に中学が設立されていなかったこともあり、地元の漢学塾に入門した。その後、同志社英学校(現・同志社大学)に入学していた義兄が磯雄の才能を惜しみ、磯雄を海軍軍人にするために同志社に学ばせようと父親を説き、学資の援助を申し出たことにより同志社英学校に入学することとなった。1884年同志社英学校卒業(在学中、新島襄より受洗)。
その後、母校の同志社で教師となり、続いて岡山教会で牧師の任を務めたのち、1891年より米国コネチカット州のハートフォード神学校へ留学。岡山教会時代に牧師として信を高めていたことでハートフォードの現地教会から資金が得られたこと、ハートフォード神学校が寄宿費・食費を校費で負担してくれたことで、安部自身が念願していた留学が可能になった。
1894年にハートフォード神学校を卒業し、同年ベルリン大学に入学。しかしその数カ月後、岡山が大洪水に見舞われたという報を受けたため、留学を中途で切り上げて1895年2月に帰国、同志社教員を経て1899年に東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となる(1907年から教授)。
1901年、社会民主党を結成するが直後に禁止。日露戦争では非戦論を唱えた。公娼制度の廃止や産児制限など、初期の女性解放(フェミニズム)運動にも積極的に関与した。 1922年3月には、石本恵吉とともに日本産児調節研究会を創立している。
1924年に日本フェビアン協会を設立。1928年、第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続5回。また東京市会議員も務めた。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。
1932年春、フランスから来日した女性ジャーナリストのアンドレ・ヴィオリスがインタビューを行い、その模様は『1932年の大日本帝国』に描写されている。
1938年3月3日、右翼団体「防共護国団」の団員によって襲撃された(詳細は安部磯雄襲撃事件を参照)。
1940年3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題で、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席すると、書記長麻生久の支配下にあった社会大衆党中央執行委員会により、党首でありながら、鈴木文治、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らとともに党除名処分を受ける。翌年1月衆議院議員を辞職。
戦後は日本社会党の顧問。1949年2月10日、老衰のため新小川町の江戸川アパート自室で死去。墓所は雑司ヶ谷霊園。
なお、同志社時代の1898年に、有志学生と共に日本で初めての大学生協「同志社消費組合」を結成している。
「知識は学習から、人格はスポーツから」形成されると考え、特に日本に伝えられて日の浅い野球の普及・発展に力を注いだ。1901年には早稲田大学野球部の初代部長に就き早慶戦の糸口をつくっただけでなく、日露戦争まっただ中の1905年には同部で野球史初の海外遠征を強行し、野球発祥国アメリカで行われている数多くの技術・練習法などを持ち帰った。安部らはこれを早稲田部内の秘伝とせず著書や指導などによって日本全国に伝えた。これによって日本の野球技術発展の基礎をもたらした。また嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立した。1930年東京六大学野球連盟初代会長就任(1932年の早稲田大学野球部の連盟脱退問題で引責辞任)、1946年日本学生野球協会初代会長就任。
こうした数々の功績から「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれる。早稲田野球部の本拠地であった戸塚球場は安部が創設者大隈重信を説得して築いたもので、彼が死没した1949年に「安部球場」、合宿所を「安部寮」と名称を改められた。没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。なお2015年に、安部球場から移転していた練習用グラウンドの東伏見野球場が、安部の生誕150周年を記念し「安部磯雄記念野球場」に改称された。
1904年春、野球部の集会が開かれた時、安部は「もし諸君が一高、慶応、学習院の3大強豪を破って、対抗試合に全勝したら、アメリカに連れて行きましょう」と言った。この年の秋、創部4年目の早稲田大学が強豪たちをなぎ倒して全勝した。外の教授は唖然としたが、安部は大隈総長に直接会って掛け合った。「いいだろう」、と大隈は答えた。1905年の理事会で臨時予算が5500円組まれた。掛け合って2等船室の値段で1等船室に泊まった。サンフランシスコで野球道具を買ったが、アメリカ人が払ってくれた。7勝19敗であったが、試合の態度でアメリカ人を称賛させた。
安部は犠打について否定的な考えの持ち主だった。日本で初めてこれを行ったとされる早稲田大学の泉谷裕勝を「卑怯である。武士道に反する」と言って、よく叱っていた。しかし、早稲田大学が1905年にアメリカ遠征をした時に犠打が大いに行われていたので、安部もしぶしぶ「やってよろしい」と認めるようになったという。
妻の駒尾との婚約は安部21歳時、結婚は31歳時と離れているが、問題があったわけでなく、安部の留学と駒尾の学業のためである。安部にとって駒尾は愛妻であると共に友であり、よき話し相手であった。明治末期に「理想の夫婦」を実現している。安部は家庭生活を重要視していた。安部の子供を整理すると
安部は教育にあたっては、子供の主体性を重んじたが、遠足は強制していた。しかもその距離は半端でなく32キロとか36キロというもので、中年になっても妻と長い距離弁当持参でハイキングに行った。安部71歳時富士登山もしている。
1917年に学長の座を巡り、早稲田騒動が起きた。安部は一方を支持したが、理事や高等予科長を辞任している。飛田穂洲によると、安部はもっと厚遇されるべきであるが、不満を漏らしたことはなかったという。便利屋(utility man)と称して与えられた仕事をこなした。野球における団体生活がその背景にあると漏らしている。野球部長のみならず、競争部長、早稲田大学交響楽団初代部長(大学から金をひきだすために安部を利用した話がある)、図書館館長などを務めた。嘉納治五郎を助けて1912年のストックホルム五輪の国内委員も務めた。 1926年12月14日、政治運動への参加により、教授としての職責を果たすことができなくなったとして早稲田大学に辞表を提出。大学側は遺留に努めたが本人の意志はかたく、翌1927年1月に受理された。
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