仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置き、外様大名の伊達本家が治めた藩である。伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。表高は62万石であり、所領として現在の宮城県全域、岩手県南部および福島県新地町計約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があったが、戊辰戦争後に28万石に減封となり、その石高で廃藩置県を迎えた。
外様大名の伊達政宗が樹立し、以降は明治の廃藩置県まで代々伊達本家が統治した。伊達本家は、大広間詰国持大名。代々、徳川将軍家より松平姓を許され、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)があった。
表高62万0056石5斗4升4合で、諸藩のうちで第3位、実高は支藩の一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000人(江戸中期以降には約1万人)、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力(江戸中期以降は約3万5000人)を擁した。領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビやフカヒレは長崎俵物として外貨を稼いだ。
仙台藩が成立する以前の16世紀の中ごろ、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての領域は大崎家と葛西家が治めていた。また、宮城県中部は留守家や国分家、黒川家の領土だった。ここに南側から、信達地方や置賜地方を本拠とする伊達家が勢力を伸ばしており、これらの諸勢力は伊達家の影響を受けるようになっていた。
1590年(天正18年)、天下統一を目指す豊臣秀吉は小田原の後北条家を降した後、宇都宮で奥州仕置を行った。伊達政宗はこの前年に会津の蘆名家を討ち滅ぼして広大な領土を実現していたが、奥州仕置により旧領のみが伊達家の所領として認められ、会津領は没収された。また、この仕置きによって、大崎家や葛西家、留守家、黒川家は改易された。大崎家および葛西家の旧領12郡には木村吉清が封じられたが、まもなく葛西大崎一揆が起こった。この一揆は政宗と蒲生氏郷によって鎮圧され、一揆の責任を問われた領主の吉清は所領を取り上げられた。この一揆には政宗の関与が疑われ、秀吉は伊達家の本拠だった信達地方や置賜地方を取り上げ、旧大崎、葛西領全郡と、刈田郡を除いておおよそ現在の宮城県中南部に当たる部分を政宗の領土とする仕置きを行った。
秀吉が死ぬと、政宗は徳川家康に接近した。1600年(慶長5年)の家康による会津征伐では、政宗は家康から上杉景勝に対する備えを求められた。この時、家康は政宗に対して、秀吉に没収された伊達郡、置賜郡などの旧領を回復し、所領を100万石にまで加増するという約束をした(いわゆる「百万石のお墨付き」)。政宗は上杉領へ攻め込み白石城の戦いで上杉勢を破り、上杉勢に攻め込まれた山形の最上義光へ援軍を送ったが、援軍には合戦を傍観させた。一方、政宗は同じ徳川方である南部利直の領地で、和賀忠親を支援して岩崎一揆を起こさせた。関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、家康が政宗に認めた新たな領地は刈田郡のみだった。
露骨な野心を家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、2年間を領国外で過ごした。この間、1601年(慶長6年)、政宗は国分家の居城であった千代城を修築(実質は新築)、「仙台城」と改称し、それまでの居城だった岩出山城からここに移った。同時に城下町も建設し、政宗を初代藩主とする仙台藩(62万石)が成立した。1611年(慶長16年)に仙台を訪れたスペイン領メキシコの対日特派大使セバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見降ろした仙台の城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。この時期の仙台城下町人口は5万人と推定されている。
政宗は仙台藩とスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内で西洋式帆船(黒船)、サン・ファン・バウティスタ号を建造した。当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国であった。政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、常長を中心とする一行180余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。当時は、西日本の藩を中心に東南アジア地域との貿易(南蛮貿易)が盛んであったが、政宗は仙台藩自らが外国へ出向いて、ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとした。政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある。慶長遣欧使節団の派遣は、対スペイン貿易を志向する徳川幕府の承認、すなわち“外交権”を得たものであった。なお、支倉常長らは、初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人でもある。
しかし翌年、幕府は禁教令を出し、キリシタンおよび宣教師の弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、仙台藩によるスペインとの外交交渉は失敗に終わった。
幕末には藩士の玉虫左太夫が日米修好通商条約の使節団に加わっている。
政宗は1614年(慶長19年)からの大坂の陣にも参陣し、その後は、北上川の河川改修などの治水事業を行った。政宗の死後、跡を継いだ2代藩主・忠宗は、内政を充実させると共に、正室に2代将軍・徳川秀忠の養女である振姫(池田輝政の娘で家康の孫娘)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示して警戒を解こうと努力した。しかし、振姫との間の世子・光宗が夭折すると、櫛笥隆致の娘・貝姫との間に生まれた綱宗が後継者になる。忠宗が没すると、伊達騒動と呼ばれるお家騒動が起きる。貝姫の姉・隆子が後西天皇の生母で、綱宗は天皇の従兄弟になり、幕府に警戒されたと言われ、綱宗は隠居させられ、幼君・亀千代が立てられた。亀千代は成人し、4代藩主・綱村となったが、綱村は浪費によって多額の借金を生み出し、藩財政を致命的な状態に陥れたため、重臣らと対立して隠居に追い込まれた。
5代藩主・吉村は藩財政の再建に取り組み、買米制を利用して利益を上げる一方、幕府に対し仙台藩内の銅を利用することを条件に鋳銭を願い出て許可を得た。石巻に鋳銭場(現代の石巻駅前、地名に残る)を設置し、寛永通宝を鋳造した。この他に「仙台平」と呼ばれる絹織物の生産、鉱山開発、馬産の奨励を行った。これらの財政再建策の成功により、吉村は中興の祖と称えられる。
しかし、6代藩主・宗村の代に発生した宝暦の飢饉により買米バブルが崩壊すると、再び藩財政は破綻する。7代藩主・重村の失政に天明の大飢饉があいまって、借金は増大する一方であった。19世紀初頭の一時期、家老・中村景貞の施策により小康状態を得たが、その後は天保の大飢饉や海岸防備への対策費用捻出により、財政難は壊滅的状況へと逆戻りしていった。
1836年(天保6年)の飢饉への対応は、藩による現物支給や資金調達の限界を超えたため、各地域に任されることとなった。白石の片倉家の例では、秋田の佐竹北家に3000俵の買い入れを申し入れるなど、過去に交わされた僅かな縁を頼ったやりくりが行われた。1837年(天保7年)に入ると城下でも扶持米の支給が滞った下級藩士が騒動を起こす、強盗や放火が多発するなど不穏な状況となった。同年2月には新発田藩の豪商、市島次郎八家から確保した8000俵が海路により到着して救済の目途が立ったが、いずれにせよ多くの餓死者が出た。
戊辰戦争が起こると、明治新政府から会津藩討伐の命を受けて、軍勢を会津との藩境にまで進めた。しかし、藩政を握っていた家老の但木土佐は筋金入りの佐幕派であり、同じく佐幕派の会津藩と戦うつもりは初めからなく、進軍は形だけのものでそれ以上の行動は起こさなかった。その後は会津藩と交渉を行い、新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否した為、仙台藩は面目を失った。この問題に対して奥羽14藩が白石城に集結して話し合いを行った結果(白石会議)、会津藩・庄内藩の赦免を求める奥羽越列藩同盟が結成され、仙台藩がその盟主となった。
会津・庄内両藩の赦免を求める奥羽諸藩の嘆願書は、仙台に派遣された奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝に届けられたが、副総督・醍醐忠敬と下参謀・世良修蔵が「二月中出陣に先立って大総督に伺った指令に会津藩主・松平容保は死罪とあること、また容保が果して真に恭順謝罪を願うとならば、諸国の兵を退け、開城して自ら軍門に来って謝するが至当であるのに、実情を見れば、却って現地交戦の状あるは顕著であるから、決して許容すべきものにあらず」と反対し、それらの意見を受けた九条により却下された。
列藩同盟が手詰まりに陥る中、仙台藩士・姉歯武之進らが世良を殺害するという事件が起きた。世良は新政府による会津討伐の命を形だけのものしていた仙台藩に不満を持っており、融和策に動く仙台藩を批判した為、仙台藩強硬派からの怒りを買っていた。さらに奥羽諸藩が列藩同盟を結成した事は世良にとっても予想外の出来事であり、奥羽への不信感をますます高めることになった。奥羽鎮撫総督府は、奥羽諸藩の兵力を会津討伐の主力と計算していた為、新政府から派遣された兵力は500名程度しかおらず、この時点で会津・庄内を平定する事は不可能となった。世良は同じく下参謀であった大山格之助に、大坂・京都の新政府軍の主力を白河方面に集結させて、また酒田港にも援軍を派遣させ、会津・庄内を挟撃する旨の密書を送った。その密書を、以前から世良の暗殺を狙っていた姉歯武之進らが手に入れ、その一文に「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた事に激怒し、但木土佐の了承を得た上で、料亭に就寝していた世良を襲撃し、暗殺した。
新政府軍の下参謀を殺害してしまった事により、仙台藩を盟主とする列藩同盟は新政府との全面戦争を決意する。仙台藩は、奥羽鎮撫総督府軍を撃破して九条や醍醐らの身柄を確保し、仙台城下に軟禁した。これと呼応して、会津藩が白河城を攻略した。しかし、融和的な赦免を目的とした列藩同盟が軍事的な同盟に変貌した事に拒否感を持つ藩も多数あり、特に久保田藩は、新政府への開戦を要請した仙台藩の使者を斬り捨て、同盟から脱退した。仙台藩内でも重臣の三好清房が抗戦は無謀であるとして新政府への帰順を訴えていたが、但木土佐により自害に追い込まれた。
1868年(慶応4年)の白河口の戦いでは会津藩と共に列藩同盟軍の主力となり、平潟戦線においても磐城平藩と共に主力を担ったが、仙台藩軍は官軍より銃器の量も性能も圧倒的に劣っており、官軍への内通者も続々と出て各所で決戦に相次いで敗戦し退却していった。
磐城の戦いでは、相馬中村藩と共に新政府軍と戦うも敗北し、この際に仙台藩が自領の防衛を優先して藩境である宇多郡駒ヶ嶺村まで引き上げた為、孤立無援に陥った相馬中村藩は新政府に降伏した。仙台藩は北上する新政府軍と相馬口駒ヶ嶺付近で戦ったが、三度にわたる攻防戦はすべて仙台藩の大敗に終わり、藩境の駒ヶ嶺も陥落する。敗北が重なるにつれて藩内からは伊達一門を中心に降伏論が飛び出すようになり、但木土佐と対立していた遠藤允信が藩主・伊達慶邦に主戦派排除を訴えるなど仙台藩内は混乱に陥り、本拠地の若松城で窮地にある会津藩を救援する事すら出来なかった。そして迎えた旗巻峠の戦いでは、新政府軍の死者7名に対して仙台藩は46名の死者を出す大敗を喫し、9月10日、ついに慶邦の判断で仙台藩は降伏した。それまで藩政を握っていた但木らは退陣し、代わって遠藤允信が家老となり、但木らの身柄を謀反首謀者として新政府に引き渡し、その他の主戦派も切腹させた。但木は東京にて叛逆首謀の罪で斬首となった。10月には駐屯してきた広島藩の兵が地元の信仰を無視して白鳥狩りを始めたのをきっかけに、船岡領主・柴田家の家臣が新政府軍に向けて発砲し、領主・柴田意広が切腹、家臣ら2人が斬首される事件が発生している(白鳥事件)。
政府により謀反の責を問われた藩主・慶邦は12月7日に謹慎および領地没収となった。しかし12日には息子の宗基に28万石が改めて与えられた。
この減封への対応で仙台藩は、在郷家臣らに帰農を命じ、直轄領を出来るだけ保持する一方で、万石級の大領の藩内領主の領地を数百石あるいは数十石に大幅に削減した。陪臣(主として万石級の領主の家来20,000人余)を解雇して士族籍を与えなかった。このため伊達邦直・邦成兄弟をはじめとする領主たちは、自らの家臣団の救済のため、私費を投じて北海道開拓のために移住を開始した。
仙台藩直営の事業としては、分領として与えられた沙流郡を三好清篤・星恂太郎が開拓したものがある。また、城下町・仙台では、侍町だった東一番丁で没落士族たちが商売を始め、これが現在の中心商業地「一番町」へと繋がっていく。
政府が接収していた仙台藩の主要施設には政府の施設が設置されていった。仙台城二の丸には東北鎮台(後、仙台鎮台→陸軍第二師団)が置かれ、三の丸は錬兵場になった。伊達政宗が隠居した若林城(若林区の由来になった)は、宮城集治監(現在の宮城刑務所)となり、西南戦争中に捕縛兵の収容施設になっていた。
蝦夷地支配のために白老に置かれた仙台藩の陣屋は白老仙台藩陣屋跡として残っている。
1869年(明治2年)12月7日に陸奥国が5分割されたため、仙台藩陸奥国領は陸中国・陸前国・磐城国に渡ることになったが、戊辰戦争に敗れた仙台藩は同日62万石から28万石に減封され、陸前国よりさらに狭い現・宮城県中部を占めるのみとなった(箱館戦争終結前だが仙台藩蝦夷地領も失ったと見られる)。
1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県により、仙台藩が廃止され、同じ領域に仙台県が置かれた。廃藩時の仙台藩の債務は、国内に110万8000円余り、国外に約11万8000円。政府は国内の債務の大部分と対外債務の一部を破棄し、一部をかつて仙台藩の蔵元を務めた豪商升屋に払わせることとし、残りを政府が公債として引き受けた。これによって、仙台藩は、仙台県・角田県・登米県・胆沢県に分かれた。最終的に、旧仙台藩の北部(現在の岩手県の北上市から南の地域、沿岸では気仙郡)は岩手県に組み込まれ、現在の新地町は福島県に編入され、その他のほとんどの部分が宮城県へとなっていく。
同年4月23日に石巻県石巻に置かれた東山道鎮台本営が、同年8月20日に廃止され、代わりに東北鎮台本営が仙台に置かれることになった。同年11月1日、当時の仙台の中心部である国分町の元外人屋に東北鎮台の本営が仮設された。
外様 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石
仙台藩の主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発により、18世紀以降は内高が約100万石に達する程、多くの米・農作物を収穫できるようになった。また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。その米を海路江戸に運んで大きな利益を得た。萱場木工の『古伝密要』によると、大凶作でない限り仙台藩は毎年約25万 - 30万石の米・農産物(主に大豆)を輸出していたが、この内10万石は江戸以外の地へ輸出される「脱石」となり、また南部藩から輸入された「北米」5万石を加え、石巻より江戸へ毎年約20万 - 25万石の米・農産物が輸送された。この内、江戸での登米や役米を除く約半分の10万石が「仙台米」として江戸に流通したという。仙台米の江戸への輸出が始まったのは寛永9年(1632年)で、明和7年(1770年)に書かれた 『煙霞綺談』は「今江戸三分一は奥州米なり」と記述している。一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、仙台藩は大坂に蔵屋敷を設置していた。石巻はこれらの航路の拠点として大いに発展した。
以下に一関藩を含めた仙台藩内高(1貫=10石で換算)の変遷をまとめる。表高は62万0056石5斗4升だが、新田開発により18世紀初頭に内高は100万石を超えた。
以上は藩内の租税算出の基礎となる内高での数字であるが、寛政9年(1797年)に書かれた萱場木工の『古伝密要』によると、奥州領分内高99万9002石7斗6升に対して貢租率53%の52万9476石7斗6升2合8勺を税収とし、実際の米の収穫高は税収の3倍、雑穀の収穫高は税収とほぼ同じであるという過剰の仮定により、仙台藩奥州領分の米・雑穀の実高合計を税収の4倍(内高の2.12倍)の211万7906石1斗5升1合と見積もっている。また江戸時代末期の安井息軒の『読書余適』には「二百万石余」、同じく江戸時代末期の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。このことから仙台藩の実高は200万 - 250万石に達したとする説が広く流布しているが、これらの数字は何れも推論に基づく誇張された数字であり、実態とかけ離れている。地租改正後の旧仙台藩領分の明治10年 - 明治12年三ヶ年平均農作物米換算石高は130万石(内、米91万石、大豆12万石(米価換算で12万石相当)、大麦22万石(米価換算で10万石相当)など)であり、豊作時に米の収穫高だけで内高を上回ることがあったというのが実態である。
寛永17年(1640年)の検地高7万4529貫338文(74万5293石3斗8升相当)に占める田畑の高と反別は以下の通りで、米の収穫高は総農産高の8割以上を占めていた。また雑穀としては大豆が重要な商品作物として広く栽培されたが、冷害に強いとされるヒエは商品価値が低く、あまり栽培されなかった。
また延宝4年(1676年)には蔵入地が31%を占めていたが、貞享年間(1684年ごろ)では以下のような知行構成となっており、蔵入地が若干減退している。
田畑の反別は安永4年(1775年)には13万1031町7反3畝歩にまで増加し、御蔵入地の割合も、幕末の安政3年(1858年)には39%まで増加した。しかしながら依然として御蔵入地の割合は低く、これが凶作時などの緊縮財政時には大きな負担を仙台藩に与えた。例えば中津川武蔵の『御在方全体之犠等品々御奉行衆被御聞届取調十ヶ条申達候留』によると、文政6年(1823年)において御蔵入地からの年貢は、米7万1900石、大豆4300石、金4万2000両に過ぎなかった。
このように米に頼りすぎた経済は、藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来および米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。特に買米制は凶作に弱く、凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。仙台藩が幕府に提出した報告書によれば、天明3年(1783年)、天明4年(1784年)にはそれぞれ56万5000石、53万2000石の損毛高を計上し、内高ベースでの米生産高は平年の半分であったという。また天保7年(1836年)には91万5784石の損毛高を計上し、米の生産高は10万石しかなかった。
また、凶作が起こると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までが餓死したと伝えられているが、これは他の藩には全く見られない現象であった。実際、天明元年(1781年)に50万2124人を数えた陸奥領内郡方人口は、天明の大飢饉後の寛政元年(1789年)には40万9632人にまで減少している。死因としては大凶作による餓死よりも、体力の衰えたところで流行した疫病(「傷寒」(腸チフスか)、「多羅病」など)の方が遥かに大きく、餓死20万人というのは大げさな伝聞といえるものの、藩全体の人口が10万人単位で減少したのは事実である。凶作の原因としては、やませによる冷害や天明3年(1783年)の浅間山の火山噴火のほか、新田開発の集中した北上川の洪水による度重なる水害が挙げられる。一方で飢饉の人為的要因としては買米・廻米制度が挙げられる。例えば天明の大飢饉では凶作の前年の天明2年(1782年)に投機的廻米のため、食糧備蓄を取り崩したことも飢饉に拍車を掛けたと五十嵐荘左衛門の『飢饉録』で糾弾されている。18世紀中ごろから幕末までは、仙台藩の新田開発は滞り、ほぼ内高100万石のまま推移した。
以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷をまとめる 。表にまとめた人口の他、陸奥領・一関藩の郡方人口については他の年代のものも記録として残っているが、これらについては江戸時代の日本の人口統計参照。また表中、享保2年(1717年)の数値は地域別人口で、陸奥領と一関藩の郡方人口の項に示されている数字は武家等を含む。
表に示すように、仙台藩総人口に占める武家の割合は22 - 25%と非常に高かった。しかしながら明治2年の時点で3万3128家17万2239人いた士分の内、陪臣2万3477家11万5771人のほぼ全てと、伊達家直属家臣団9651家5万6468人の内1993家9965人は帰農することとなり、士卒族の地位を得たのは士族2万9408人、卒族1万3091人のみである。
水産業では三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビやサメを、干鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」として清に輸出していた。特に三陸産の干しアワビは仙台藩領の気仙郡吉浜村(現・岩手県大船渡市)から名前を取って「吉品鮑(カッパンパオ)」と呼ばれていた。
細倉鉱山から採掘される銀、涌谷町で採掘される金、など鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業を奨励した。
仙台は馬産に適した地域であったことから藩をあげて育成に努めていた。
上記の他に塩、漆、煙草、紅花も藩の専売品であった。
このような恵まれた環境ではあったが、御蔵入地からの年貢は約10万 - 20万石程度で変動した。江戸時代後期以降は先述の偏った藩財政に、天明の大飢饉、天保の大飢饉などの凶作や欧米列強に対する海岸防備による出費が藩財政を直撃した。天保10年には幕府に許可をもらって参勤交代を延期する状況であったが、幕末には芝多民部が藩札発行を行って経済混乱を起こし、但木成行は、表高62万石でありながら10万石分限での藩財政運営を宣言した。
飛び地を除く陸奥国内21郡は、20の代官区に分けられ、これを奥・中奥・北方・南方の4人の郡奉行が統括した。
関ヶ原の戦いの功績により、慶長5年(1600年)に刈田郡3万8000石の加増を受けるが、政宗は不服を訴え続け、慶長6年(1601年)には近江国蒲生郡内5000石、慶長11年(1606年)には常陸国信太郡、筑波郡、河内郡内1万石、寛永11年(1634年)には近江国蒲生郡内5000石の加増を勝ち取った。この結果、陸奥国内の一円知行地に60万石、陸奥国外の飛び地として近江国に1万石、常陸国に1万石で合計62万石となり、これが幕末までの仙台藩の基本的な石高となった。その後、常陸国内で伊達氏所領の替地が何度か行われ、正徳2年(1712年)に下総国豊田郡内が組み込まれたことにより、以降幕末まで本土における支藩を含む仙台藩の所領62万0056石5斗4升(=1億1185万1999リットル≒9.3 - 9.9万トン)が確定した。
江戸時代後期になると、蝦夷地にも領地や警衛地が存在した。幕府は北方からのロシアの脅威の備えるため、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)には西蝦夷地を天領とし、奥羽四藩(津軽・盛岡・久保田・荘内)に警備を命じた。文化5年(1808年)には幕府は仙台藩に対しても箱館・国後・択捉への出兵を命じ、仙台藩は約2,000名の兵を派遣している。派兵は文政4年(1821年)まで続いたのち、これらの地域は一旦松前藩領に復した。
また幕末期の安政2年(1855年)、再び幕府は松前藩領を除く蝦夷地を天領とし、奥羽6藩(盛岡・仙台・会津・久保田・荘内・津軽)に警備を命じ、仙台藩は東蝦夷地の白老から択捉までの警備を担当することとなった。その際、仙台藩は現在の北海道白老町に陣屋を置き、また、根室・厚岸・択捉・国後にそれぞれ出張陣屋を構えた。安政6年(1859年)11月には白老、十勝、厚岸、国後、択捉を仙台藩の所領とすることが認められ、仙台藩預りの天領の警備衛地(日高、釧路、歯舞、色丹)を含む仙台藩の領地・警備地は、北海道の全面積のほぼ三分の一を占めることとなった。
現在の岩手県南部(仙台藩陸奥国領の面積の約1/3)、宮城県全域(同2/3)、福島県浜通り北部におよび、表高は60万石(=1億0823万4000リットル≒9.0 - 9.6万トン)。なお、現在の当地での水稲生産量は、江戸時代の表高の5倍以上、実高の3倍以上にあたる50万トン以上(300万石以上)となっている。
現在の茨城県南部と滋賀県中央部に飛地が分散して存在しており、それらの合計の石高は約2万石に及んだ。以下に2012年(平成24年)12月1日時点での住所を付記する。
内分支藩としては、陸奥国内に岩沼藩・一関藩・中津山藩があり、仙台藩知行域内に浮かぶ島のような形で存在した。これらの藩は仙台藩からも一門の家格を与えられて仙台城下に屋敷を持っていた。
また、仙台藩の別家として伊予国に政宗の長男・秀宗を藩祖とする宇和島藩とその支藩・吉田藩があるが、宇和島藩領は秀宗の大坂の陣における軍功に対しての新恩給与であり、仙台藩からの分知による支藩ではない。
明治元年(1868年)、明治政府より戊辰戦争の責任を問われて減封された仙台藩は、以下の変遷をたどった。
仙台藩から没収された白石城に盛岡藩が転封したことで白石藩が発足したが、わずか半年で盛岡に復帰したため、同地には白石県(のち角田県に改称)が設置された。
仙台藩として存続した地域は廃藩置県で仙台県となった。仙台県は角田県および登米県の一部を編入ののち宮城県に改称し、現在に至る(磐城国の地域は平県に、玉造郡と登米県の残部は一関県に編入された時期もある。宇多郡のみ現在は福島県)。
また、旧盛岡藩領と統合された胆沢県と江刺県は、一関県への編入を経て、現在は岩手県となっている(気仙郡は宮城県に編入された時期もある)。
蝦夷地の領地については、いったん全域が開拓使直轄領とされた後、改めて日高国沙流郡の一部を領有し、さらに開拓から撤退した熊本藩から根室国標津郡・目梨郡、佐賀藩から千島国振別郡、高知藩から紗那郡・蘂取郡の移管を受けた。また、仙台藩士の伊達邦成が胆振国有珠郡(後に虻田郡、室蘭郡も領有)、石川邦光が胆振国室蘭郡、片倉邦憲が胆振国幌別郡、伊達邦直・伊達宗広・亘理胤元が石狩国空知郡をそれぞれ領有した。
仙台藩では藩士の禄として、一般の藩では禄米が与えられるのとは違い、知行地を与える制度を取っていた。ただし、全ての家臣が知行地を持っていたわけでは無かった(詳細は下記参照)。
これは藩主が動員できる兵数より、家臣が動員できる兵数の総数のほうが遙かに大きいという軍制を自然と作りだし、どちらかというと中世に近い支配体系である。知行地内では一定の裁判権も認められていた。仙台藩は大藩であるので、その家臣にも3万石・2万石といった大名級の知行地を持つ者もいた。仙台藩では上級家臣を一門、一家、一族、準一家、着座、太刀上、大番と7つの家格に分類した。また、藩士は藩内に散らばる城・要害・館・所・在所に居住し、仙台に屋敷を持っていた。
このような支配体制を打破するための改革を目指したことが伊達騒動がおきた原因の一つだと主張する者もいる。
仙台藩内の城・要害の大まかな配置
仙台藩の南側は、城下町・仙台に到る3つルート(海側から、陸前浜街道・阿武隈川沿い・奥州街道)の縦深防御が中心で、それらのルートの結節点にも重要な城・要害が置かれた。以下に、江戸時代後期まで存続した城・要害等を示す。
仙台城自体は、北から東側にかけて広瀬川に囲まれ、その内側には北に二の丸空堀、東に二の丸土塁、三の丸水濠などが築かれた。本丸の東側は広瀬川沿いの崖、南側は竜の口渓谷、西側は青葉山丘陵と自然障壁に囲まれ、難攻不落の要塞となっている。また、青葉山丘陵の存在により完全に敵に囲まれることがなく、兵糧攻めに対する兵站路が確保されている。1610年ごろに仙台を訪ねたビスカイノは、仙台城のことを当時の日本で最も強固で最良のものの一つであると本国に報告している。
仙台城の城下町は当然防御戦を前提に都市計画されている。南側は広瀬川によって守られ、奥州街道沿いに長町方面から進んだ場合、河原町で渡河することになるが、すぐ西に若林城が配置され、河原町から北側には足軽屋敷が集中している。奥州街道は仙台城下の中心で仙台城大手門に連なる芭蕉の辻までの間、何度か折れ曲がる地点があり、直進できないようになっている。東側は若林城から原町方面まで天神宮・薬師堂等寺社地が連なり、北側は北山丘陵に沿って輪王寺等の寺社地が配置された。西側からの交通は山岳険しく困難である。
仙台の北側には東西に連なる「松島丘陵」があり、仙台平野を南北に分断している。松島丘陵の北側は、広大な仙北平野となっているため、防衛には仙台藩南側のようなルート沿いの「縦深防御」ではなく、「防衛ライン」を横方向(東西)に引くことになる。仙北平野の防衛ラインは「江合川」である。
仙北平野の防衛には、奥州街道沿いの防衛と、北上川沿いの防衛も組み合わせて、縦深防御も実現している。
仙台藩内には、長期籠城戦を見据えた大規模な城および港湾が合計4ヶ所あった。
一族以上の家柄を歴々と言い、衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。また、宿老が奉行職に就いている時も歴々と同様の特権が発生した。
太刀上以上の家柄を門閥と言った。
組士以上の家柄が士分にあたり、それより下の家柄は士分以外として扱われた。
それぞれの家格の家が更に家臣団(陪臣)を形成している。大進・歴々の家になると陪々臣までおり、平士クラスよりも禄高の多い陪臣も存在する。
禄の支給形態としては、地方支給・蔵米支給・切米支給・扶持方支給などがあった。また、一家の黒川氏より準一家の天童氏の方が石高が多いというように「家格が高い=石高が多い」とは必ずしも言えない場合も存在する。また、仙台藩では太刀上以上の家格による地方知行の対象地を給人前(きゅうにんまえ)とも称し、百姓の土地を支配して租税を納めさせる「百姓前地」と給人名請地(家臣自身の私有地が近世以後も安堵されて給地に編入されたもの)に由来して自らの家臣・奉公人に耕作させたり、小作地として経営する「奉公人前地」に細分化されていた。
仙台藩の役職を参照。
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