
ネロ指令(ネロしれい、ドイツ語: Nerobefehl)とは、第二次世界大戦末期の1945年3月19日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの指示により、国防軍最高司令部が発出した「ライヒ領域における破壊作戦に関する命令(ドイツ語: Befehl betreffend Zerstörungsmaßnahmen im Reichsgebiet)」の通称。この命令は自国内における「焦土作戦」を命令する物であったため、後世の歴史家などによって、かつてローマを自ら焼いたという伝説があるローマ皇帝ネロになぞらえて「ネロ指令」と呼ばれる。
1945年の時点で東部戦線も西部戦線も戦場はドイツ国内となり、戦争は最終局面を迎えていた。3月19日に発出されたこの命令は、ドイツ国内のインフラストラクチャー、資源、産業施設等について、敵が入手する前の破壊を命じるものであった。
ヒトラーによる焦土作戦命令はこれが初めてではない。例えば1944年8月に行われた連合軍によるパリ解放の少し前、ヒトラーはパリ軍事総督のディートリヒ・フォン・コルティッツ大将に、「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」といういわゆる「パリ廃墟命令」を出している。しかし、コルティッツ大将はパリ廃墟命令を無視し続け、8月25日に連合軍に降伏した。同じように、1944年後半にオランダ奪還を図る連合軍の動きに対し、ヒトラーはオランダ国家弁務官のアルトゥル・ザイス=インクヴァルト親衛隊大将に焦土作戦命令を出したが、ザイス=インクヴァルトはその実行の抑止に努めていた。
このように、ヒトラーによる焦土作戦命令は実行されないか何らかの妨害を受けており、それはこの命令も同じだった。既に戦後を考えていた軍需大臣アルベルト・シュペーアは、産業破壊が戦後復興や国民生活の差し障りになると考え、ヒトラーと面会してその中止を訴え出た。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、命令を撤回しなかった。しかしシュペーアはヒトラーに内密で命令をサボタージュし、一定程度の産業保護に成功した。
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