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松平綱隆


松平綱隆


松平 綱隆(まつだいら つなたか)は、江戸時代前期の大名。出雲国松江藩2代藩主。官位は従四位下・信濃守、出羽守、侍従。雲州松平家2代。

生涯

寛永8年(1631年)2月23日、出雲国松江藩初代藩主・松平直政の長男として誕生した。

慶安4年(1652年)12月26日、元服する。江戸幕府4代将軍・徳川家綱より偏諱を授かって綱隆と名乗り、従四位下・信濃守に叙任する。寛文6年(1666年)2月、父が死去したため、同年4月10日に家督を継いだ。その時に次弟・近栄に3万石(広瀬藩)、三弟・隆政に1万石(母里藩)を分与している。同年12月28日、侍従に遷任する。信濃守を止め、出羽守を兼任する。

ところが、藩内では先代・直政の治世末期から続く社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しを抱えていた。そこへ追い打ちをかけるように重臣・香西隆清(こうざい たかきよ)の追放事件や大水害による被害が起きたため、藩政の混乱が隠し切れないものとなった。

綱隆は、米・雑穀の移出禁止、酒造の禁止、藩札を発行するなどで事態を切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも延宝元年(1673年)には、綱隆が神主の小野隆俊(おの たかとし)の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平家はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀った。

延宝3年(1675年)閏4月1日に急死した。享年45。跡を四男の綱周(綱近)が継いだ。あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたといわれている。綱隆の男系血筋は直応の代で断絶する。

系譜

  • 父:松平直政(1601-1666)
  • 母:久姫 - 慶泰院、松平忠良の娘
  • 正室:亀姫(1634年 - 1707年) - 万姫、天称院、松平忠昌の娘
    • 男子:大学
    • 男子:弁丸
    • 男子:小次郎
    • 女子:津与 - 玉蓮院、有馬頼元正室
  • 側室:三木氏
    • 四男:松平綱近(1659年 - 1709年)
  • 側室:養法院 - 平賀氏
    • 五男:松平吉透(1668年 - 1705年)
    • 次女:豊姫 - 清高院、松平近時正室
    • 三女:清

偏諱を受けた人物

  • 松平政(実弟、母里藩松平氏初代)
  • 小野俊(家臣)
  • 香西清(家臣)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 松平綱隆 by Wikipedia (Historical)