住吉 廣行(すみよし ひろゆき、1754年(宝暦4年) - 1811年9月23日(文化8年8月6日))は、江戸時代中期から後期に活躍した大和絵の流れをくむ住吉派の絵師。通称は、住吉家当主が代々名乗った内記。号は景金園。松平定信に重用され、徳川家斉の時代に狩野派に替わって大和絵界の頂点に立った。
住吉派4代住吉廣守の妾腹の3男とされるが、実際は廣守の高弟・板谷桂舟(慶舟)の長男とも言われる。住吉廣守の養子となって住吉家を継ぎ、住吉派を率いる5代当主として、1781年(天明元年)に江戸幕府の御用絵師となった。1786年(天明6年)10代将軍徳川家治の養女・種姫が紀州藩主・徳川治宝に輿入れする際、絵巻物類を制作した。寛政の内裏新造に際しては、制作途中に亡くなった狩野典信に代わり賢聖障子を制作した。
また、老中松平定信の命により柴野栗山や屋代弘賢と山城、大和の古社寺の宝物調査にあたって、1792年(寛政4年)に『寺社宝物展閲目録』(東京国立博物館蔵)をまとめたほか、古画の鑑定や模写も数多く行なった。1794年(寛政6年)尾張藩主・徳川宗睦の命で『東照宮縁起絵巻』の模写を完成させている(名古屋東照宮蔵)。亡くなる年には、朝鮮通信使に贈る屏風絵を制作したとする資料もある。
1811年(文化8年)没。戒名は隆善院廣行達道居士。住吉家は長男廣尚、次いで次男弘貫が継承した。廣行の戒名も刻まれた住吉家代々の墓は、上野の護国院から多磨霊園に改装され、現存している。
弟子に、伊予松山藩御用絵師の遠藤廣實など。
江戸時代初期に住吉如慶によって創始された大和絵の画派で、代々幕府の御用絵師を務め、明治時代まで続いた。内記を通称として継承した。
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