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日本人


日本人


日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは、日本の国籍を持つ人、または日本列島の民族集団(大和民族など)の構成員、もしくは日本への所属・帰属に係る意識を持つ人を指す多義的な呼称である。本記事では、現代の日本国民の歴史的主体となっている民族の起源、形成、特徴に関する事柄を中心に解説を展開する。

概要

定義

法律上の定義) 日本人とは、法律上、日本の国籍を持つ全ての人を指し、その逆は外国人とされている(国籍法第4条)。「日本国民」ともいう。

日本国籍は、父または母が日本国民であるとき出生によって取得される(血統主義)。ただし、帰化や届出(認知された子の国籍の取得、国籍の再取得)によって生後取得される例外もある。

民族集団として日本人) 他方、日本人という語は、日本列島に起源を持つ下記の民族集団に分類される言語・文化および出自を有する人、あるいはそのように見なされる人の呼称でもある。

  • 大和民族(狭義の日本民族)
  • 琉球民族(大和民族に類した別個の集団とみなす考え方と、大和民族の支族と分類する考え方とがある)
  • アイヌ民族(日本列島北部の集団)

もっとも、日本国内では、上記の民族を系譜に持つほとんどの人々は現在、言語や生活様式、習慣などのうえで、大和民族の文化への同化の流れをうけて互いに非常に似ている。例えば孤立した言語であるアイヌ語の母語話者は、ごく僅かな人数、あるいは消滅したと推定されている。したがって、文化的相違を込めた意味での著しい民族性の違いが残っている場合はむしろ例外的である。一方で、ルーツの違いを込めた意味での民族性の違いを意識する人もいる。また、新大陸などへ移民した日本人の子孫のうち、日本語をはじめ日本の民族に特有な文化のほとんどを引き継いでいない人に対しても日本人(英:Japanese、葡:japonês、等々)という呼称が使われることがある。ただし、日本語では、一般に日系人と呼ばれている。

アイデンティティとして日本人) 日本人なる集団の境界線を日本への所属・帰属に係る意識すなわちアイデンティティ(同一性)に求めることができる。そのアイデンティティ集団は、以下のように民族的同一性・文化的同一性・国民的同一性の各観点別に分析できるが、各集合が大いに重なっているため、曖昧な認識を抱える人が多い。

  • 上記日本の民族を自らのアイデンティティとする人。
  • 日本語を母語とするなど、日本の文化、文明を自らのアイデンティティとする人。
  • 特定の文化・歴史を有する共同体である「日本国民」を自らのアイデンティティとする人。

概史

日本民族(先述)は、人種的にモンゴロイドの一つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。祖先はユーラシア大陸東部より複数回にわたって渡来。樺太を経由して北海道に至る北方ルート、朝鮮半島を経由する北西ルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる。大陸出身の集団がヤマト(日本国の旧称)に帰化した古墳時代までは相当の規模の渡来があった可能性があるが、本州以南、同時代の末から江戸時代までの長い期間は、大量移民などによる民族の相違が現れるほどの変化は一切なかった。

また、近現代における人の国際的な移動に伴い、日本人(日本国籍者、以下この段落で同じ)の中に、海外にルーツを持つ者も含まれている。主な事例として、親の一人が外国人であるケースや帰化者のケースがある。この現象は、在日コリアンの帰化やバブル期以降の外国人流入の増加を背景に、戦後から顕著になった。ただし、総人口に比して有意の現象であることは必ずしも言えず、かつ、混血と文化的同化の影響で、海外ルーツの人々が日本民族に溶け込んでいることも珍しくない。2024年(令和6年)の時点で日本人の民族的構成が明治期よりはやや多様になったと考えられるが、他国と比較するとき、日本国民が明らかに多民族国民になったという証拠がない。詳しくは、外国系日本人の節を参照。

先住民

日本列島全体の歴史的先住民は縄文人である。地域等によって程度の差はあれど、以後発展した日本列島のどの民族も縄文人の血を引いている。

日本列島には蝦夷(えみし)や隼人(はやと)などの集団が居住していたが、ヤマト王権成立後は同化が進み、これらの集団が大和民族と呼ばれるようになった。詳しくは、民族としての形成についての節を参照。

いっぽう、ヤマト王権の統治が及ばない北海道の蝦夷は、その文化を続縄文から擦文に発展させたのち、樺太(サハリン島)から渡来した、異質な文化を抱えるオホーツク人と混血した。アイヌは、擦文・オホーツクの文化が融合して12世紀~13世紀に形成された民族である。日本政府はアイヌを「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」と認識している。アイヌ文化の振興等を目指している2019年のアイヌ施策推進法(平成31年法律)に基づいて、公的な資金がアイヌ政策事業へ本格的に投入され始めた。アイヌ民族が法律で先住民に認められた背景として、1950年代半ばより米国などで始まった先住民族の権利のをめぐる各国での活動の広がりと、明治期以降行われた同化政策を否定的に捉える歴史観がある。

大和民族については、本州、四国、九州などの先住民であることが自明の史実だとして、大和民族の先住性を政府があえて公認する動機が少ない。

国籍および居住地に基づく日本人の人口

日本国籍を有する人々として定義される日本人のうち、2021年(令和3年)3月1日時点で、日本に住む者は122,948,477人であるいっぽう、2019年10月1日時点で、海外に住む者は1,357,724人となっており、日本人のうち約1%が海外に居住している。このように国籍により定義される日本人人口は、帰化した者の数、帰化以外の方法で日本国籍を取得した者の数、国籍法第13条の規定により国籍離脱をする者の数、戸籍法第103条または同法第105条により国籍喪失した旨届出または報告があった者の数によっても増減する。2020年における年間帰化者数は9,079人、国籍取得者数は772人、国籍離脱者数は705人、国籍喪失者数は891人である。

言語

日本人の大半が日本語を話すほか、沖縄県では琉球語(琉球方言)、伝統的な方言はほとんど衰退しており、本来、琉球語を個別言語とするか日本語の方言とするかで議論があり、琉球語の下位方言をさらに独立した言語とする場合もある。これらの言語・方言は「日本語族」あるいは「日琉語族」という語族に属してる。アイヌ語は、母語として使用できる話者の数が極めて少なくなっている。アイヌ語は孤立言語である。

日本語族の起源については、孤立した語族とする説は支配的である。日本語は、膠着語であり、助詞、モーラ、高低アクセントなどの特徴を持っている。漢文の影響で、シナ語派由来の多くの字音語(漢語)が使われている。また、近現代以降は、英語など欧州の言語を中心に外国語から多くの語彙を借用している(外来語)。

言語社会学的に見ると、一部の日本人は明治以来、外国語を美化する感情から日本語に対する自己否定的な姿勢を持っており、甚だしくは英語やフランス語のような外国語を日本の国語として採用してはどうかという意見を持つ有識者(森有礼、志賀直哉、尾崎行雄)まで現れていた。日本人の言語である日本語は大日本帝国の時期、アジア大陸・太平洋に広く伝わった。

宗教

日本在住の外国人を含んだ宗教の信者数は、2018年(平成30年)時点の日本の宗教法人に対する文化庁の宗教統計調査では、神道系が約8,721万人、仏教系が約8,433万人、キリスト教系が約192万人、その他約785万人、合計1億8,131万人と日本の人口の約1.5倍になっている。いっぽう、読売新聞が2008年(平成20年)に行った全国有権者へのアンケート調査では、「何らかの宗教を信じている」と答えた人の割合は26.1%、「何らかの宗教を信じていない」と答えた人の割合は71.9%という結果だった。河合隼雄は『対話する生と死』の中で、「日本人は宗教を毛嫌いしたり無宗教であることを公言する人が他国に比較し多いことを指摘し、キリスト教やイスラム教信者の信仰心は日本人の想像を超えるものである」と述べている。また、「日本では戦時中に宗教が国家権力と結びつき悪用されたことやもともと日本人は日常生活の中に、宗教性を入れ込んで生きる姿勢を保持していたため、特定の宗教を他の一神教の信者らが『信じる』ような態度で信仰しなかった」と指摘している。

自然人類学的特徴

以下、民族的分類による日本人について概説する。

身体的特徴

皮膚の色はやや赤みがかった薄い黄色(いわゆる肌色)、頭髪は黒色か茶色で直毛もくせ毛もあり、瞼は一重・奥二重のものも二重のものもあり、身長は中位、また幼児期に蒙古斑が現れる。平均身長は1940年代末ごろから伸び、男性は171.7cmになっている。成人女性は通例として、成人男性より平均身長がほぼ8%低い。平均身長は男性女性ともに1978~1979年生まれ以降、低くなっている。

  • 日本人の形質変化
歴史的に日本人の形質が大きく変化してきたことは人類学者・鈴木尚らの研究によって明らかになっている。近代以降は下肢が伸びて身長が高くなる、顎が縮小して面長になるなどの変化(小進化)が著しい。歯の縮小と永久歯の減少が進んでおり、親知らずが生えない日本人が増えているが、それ以上に顎の退化が進み、歯並びが悪い日本人が増えている。歴史的には同様の現象は徳川将軍家を始めとする江戸時代の大名家にも顕著にみられ、柔らかい食べ物を好むようになったことが、原因と考えられている。

成立

主要に日本人を形成したのは、「ウルム氷期の狩猟民」と「弥生時代の農耕民」とが渡来したことだった。「ウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹をなした」という。「ウルム氷期直後の厳しい自然環境」が改善され生活が安定化していくと、「日本列島全域の縄文人の骨格は頑丈」となり、独自の身体形質を得ていった。そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、「再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来」した。その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとどめ、その後「徐々に均一化」されていった。「地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文化の変革による身体形質の変化はあっても、現在なお縄文人的な形態をとどめている」とされる。

近年、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類による「モンゴロイドの2型」を用いている。すなわち「古モンゴロイド」と、寒冷に適応した「新モンゴロイド」である。「初め日本列島に渡来した後期旧石器時代人ないし縄文人は古モンゴロイド」であり、「縄文時代終末から弥生時代に渡来した弥生人を新モンゴロイド」と呼ぶ。弥生人は主に米作を伝え、それに従事していたとされる。米作の普及が遅れ「新モンゴロイドの影響が及びにくかったアイヌや東北、山陰、九州および南西諸島の住民は、古モンゴロイド的特徴を今もなお残している」と解されている。縄文人・アイヌは東ユーラシア系統から少なくとも30000年前に分岐しており恐らくモンゴロイドの成立前であるためそもそもモンゴロイドではない可能性もある[4]。

かつては約3万年前に大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により置換説は否定され、混血説が主流となっている。

民族としての形成

以下、民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。

石器時代の日本人

石器時代の日本列島には下記の人々が活動した記録がある。

  • 種子島の横峯遺跡の約3万年以上前の土層(地層)からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の地層は火山灰による時代の確認が容易である。
  • 愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されており、この地域が日本人のルーツといわれている。

縄文人と弥生人と古墳人

従来までの説としては、縄文時代から始まる縄文文化を持ち狩猟採集生活をしていた先住民の縄文人に続き、半島からの渡来してきた弥生文化を持つ弥生人が稲作をもたらすなどしながら混血していったという1991年に東大名誉教授だった埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が長らく定説であった。 しかし最新のゲノム分析からこの説は覆えりつつある。

金沢大、鳥取大、アイルランド・ダブリン大などの教授、研究員らで構成される国際共同研究グループの最新のゲノム解析では、旧石器時代に大陸から渡ってきた千人ほどの小さな集団が日本列島に適応して縄文人となり、弥生時代までに北東アジアを起源とする弥生人が渡来し、続いて古墳時代までに東アジアを起源とする古墳人が渡来し、以後、混血融和しながら現在の日本人を形成していったとする「三重構造モデル」である。 考古遺跡から発見されている人骨から採取された『縄文人』『弥生人』『古墳人』のDNAは『現代日本人』に直接受け継がれている。 現代日本人では古墳人のゲノムが7割近くを占める。縄文人のゲノムは本土日本人、琉球列島集団、現代のアイヌのゲノムのそれぞれ約1割、3割、 7割を構成しているとされる。

今後の研究次第では更に「三重構造以上」になる可能性もある。1970年に沖縄県で日本では少ない旧石器時代の人骨人が複数発見され、出土した場所の地名から港川人と名付けられたが、その一つのミトコンドリアDNAを調べたところ、分析した現代日本人約2千人の中に同じ遺伝子の特徴を受け継ぐ直系の子孫はいなかったものの、現代日本人・弥生人・縄文人に多く見られるタイプの祖先型の遺伝子を持つことが分かったという。これは港川人の集団が日本人の遠い祖先にあたる可能性を示唆しており、東南アジアのマニ族からは、縄文系日本人と近縁であることを示す遺伝子が検出された。

倭人

倭、倭人に関する記載は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』と『論衡』にて登場するが、これらの記載は中国南東部の倭人のことを指しているとする説と日本列島の倭人のことを指しているとする説があり、日本列島住民との関わりは不明である。少数意見として、約7300年前の鬼界カルデラの噴火に伴う日本列島からの難民が倭人の源流になったとする説がある。

「日本民族」の形成

古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。

「日本人」「日本民族」という認識(民族国家「日本」の成員としてのアイデンティティ、同胞意識)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」、「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

大和盆地の大王を中心とした連合政権国家または中央集権国家であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州、四国、九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九州の熊襲および隼人と呼ばれた諸部族は大和朝廷に服属せず抵抗したが、軍事的な征服事業や懐柔政策により、隼人は8世紀ごろ、蝦夷は10世紀〜11世紀ごろまでには完全に大和朝廷の下に統合されていった(隼人の反乱、日本の古代東北経営)。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。

国民国家の認識

近代に入り、日本がネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された民族を含む国籍的概念であった。これらの地域には日本本土と同じ法令(現行の刑法など)が施行された事実上の併合であった。朝鮮人からは数千名の貴族が叙爵(侯爵・伯爵・子爵・男爵)され東京の帝国議会貴族院に議席を有した。また、朝鮮高等法院などの裁判所の裁判例は、東京や大阪の下級審を拘束した(現在の東京地方裁判所も、朝鮮高等法院の裁判例に違反した場合、控訴理由になる)。以上から、日本本土は内地それ以外の地域は外地と呼ばれていたのは地理的概念である。

事実上の内地であった南樺太では、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。

沖縄については

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遺伝子

以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内に古くから住む住民がモンゴロイドに属する。「モンゴロイド」には朝鮮人やモンゴリア人などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットやアメリカ先住民が含まれる。

だが遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。

なお、日本人の元となった集団を仮定する際、その集団(もしくはその集団と遺伝的に近い集団)が「どこで発生したか」、「どこを通って日本にやってきたか」、そして「現在の集団においてどの集団と近縁か」は分けて考える必要がある。

分子人類学による解析

分子人類学の進展により、日本人に関してもDNAからルーツをたどる研究が行われるようになった。最初に発達したのが、母系をたどるミトコンドリアDNAハプログループの研究だった。しかし、ミトコンドリアDNAハプログループは人間を構成しているDNAの中で非常に少ない部分に過ぎず、すべての遺伝子を表すものではない。また、ミトコンドリアDNAのハプログループはアフリカで誕生した人類がどのように女系を通じて子孫へDNAを継承したかを示すのみであり、女系の継承と民族の移動は一致せず、女性は婚姻を通じて各方面へ移動し民族情報を持たない(民族固有の特徴を解析できない)ことが明らかとなった。その結果、ミトコンドリアDNAの解析は下火となり、世界的には男系を追跡することの可能なY染色体ハプログループの研究に主役の座を奪われた。にもかかわらず、日本のアカデミズムにおいてはY染色体の研究は微々たるもので、ミトコンドリアDNAの研究が依然として続けられた。その理由の一つにはミトコンドリアDNAは染色体にある核の外部構造で、情報量はY染色体と比べ非常に少ないが、それゆえに研究者本人が低予算で簡便に解析ができたからである。その後、世界の研究の潮流に抗えず、遅れて日本もY染色体ハプログループの研究を取り入れるようになった。Y染色体は蓄積された情報量がミトコンドリアDNAよりも多く、多様性があり長期間の追跡が可能であり、かつ歴史時代の情報と合致させるのに適していた。しかし、世界のY染色体研究から大きく取り残された差は埋め難く、2004年のヒトゲノムの解読を契機に、核内の常染色体を解析するゲノム研究に移行した。ミトコンドリアDNAとY染色体はそれぞれ母系・父系の一系を延々と遡源し先祖を辿る遺伝子を解析するものであるのに対し、常染色体はその人間を構成する遺伝子情報を解析するというもの(例えば、日本人固有の遺伝子を何%保有しているかなど)であり、そもそも何を目指した研究を行うのかの興味の範囲や方向性に違いがあるため、Y染色体と核ゲノムの研究を比較し一概にどちらが優れているかの評価はできない。

Y染色体ハプログループ(父系)による系統

母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した。注目すべきは日本列島においてM55のSNPによって定義される縄文系のD1a2a系統が日本人男性の3割、さらにその中のCTS8093のSNPによる系統が約2000年前に発生したにもかかわらず、日本人男性の1割を占めていることである。K2によって定義されるO1b2系統は日本人の弥生系の子孫であり、D1a2a系統に次いで多数を占める。さらにM216のSNPを持つC系統を合わせると日本人男性の8割がこのいずれかに属しており、現在の日本人男性の大半を占める。C系統の内、F3393以下のM8のSNPを持つ系統は、非YAP(YAPの変異を持たない)縄文系であり、日本列島に最初に到達した系統であるともみられている。C系統の内、M213の痕跡を持つものは、モンゴル、女真、満洲などの北方遊牧民族と祖を同じくし歴史時代になって以降の渡来とみられる。漢民族に由来するM122のSNPを持つO2系統は中国、朝鮮、ベトナム等においては最多を占め、東南アジア、インド北東部やネパールなどの南アジアでも広範囲に見られるO系統の最大のサブグループであるにもかかわらず、日本においてはD1a2a,O1b2の両系統に次ぐことが特徴的である。O2系統は現在の日本人のY染色体ハプログループの中では、CTS8093やK2のような父系の有力なクラスターを持たず、遺伝子的にみれば、分岐系統が異なる雑多な寄せ集めであるため、散発的に日本列島に渡来したと考えられている。

Y染色体一塩基多型分岐図

Y染色体ハプログループによる近隣集団との比較

日本人のハプログループは、出アフリカ後、イラン、チベット、アルタイ山脈、樺太、北海道を経由した「北ルート」で到達したとする説、インドから東南アジアを経由した「南ルート」で到達したとする説がある。D-64.1系統(約35%)、O-M176系統(約30%)、O-M122系統(約20%)の上位3系統で日本人全体の約85%を占めるほど高頻度に見られる。他にC-M8系統、C-M217系統、N-M231系統、O-M119系統、O-F2320系統、Q-M242系統なども低頻度に見られる。

Y染色体グループごとの近隣集団との関係

ハプログループD-F6251は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである。ハプログループD-64.1は、日本列島に固有に見られるタイプで、アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌや一部の沖縄県民(特に糸満市や南風原町等がある島尻地区)で高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD-64.1は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。現代韓国では平均して約2%の男性、中国では約0.02%(主に朝鮮族だが、満洲族、蒙古族、漢族の例も有り)の男性がハプログループD1a2aに属し、ミクロネシアやティモール島でも単一例が発表されている。
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもD系統が扱われ、チベット人にも、約50%の頻度でこのハプログループDを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする仮説を提唱した。しかし、実際にどのような経路を通ったかは様々な学説があり結論には達していない。

  • D系統は、現在世界で極めて稀な系統になっており、日本人 (D-64.1) が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。遠く西に離れたチベット人 (D-F6251) やアンダマン諸島(D-Y34637)で高頻度である他は、アルタイ(D-M174*)、タイ (D-F6251)、ヤオ族 (D-F6251)、フィリピン (D-L1378)、グアム島(D-M174*) 等の南方地域にわずかに存続するだけである。しかしながら同じD系統とは言え、D-M64.1系統と東アジア(チベット等)のD-F6251系統は分岐してから4 - 5万年もの年月を経ていると考えられる(O系統が誕生したのが3 - 4万年前であるため、これよりも前に分岐しているD-M64.1とD-F6251等は別系統であるがともに日本列島で見られる)。
  • ハプログループO-M175は東アジアから東南アジアにかけて最多を占めるグループである。O系統は今より約40,000~約45,000年前(41,750 (95% CI 30,597 <-> 46,041)年前、44,700年前或いは38,300年前、45,300 (95% HPD interval 39,400 <-> 51,900)年前)に東アジアにてハプログループNO-M214から誕生し、今より37,200年前頃から30,000年前頃にかけて多くの現代東アジア人や東南アジア人の父系に繋がる五つの大系統を生み出した。今より約35,000年前の日本列島の旧石器時代初期頃に日本列島にまで到達したと考えられるD系統と比べると、O系統はその後から東ユーラシア全域に広がり、誕生時期的には比較的若い系統であるものの、西ユーラシア系のハプログループRと並んで現代人類において最も帰属人口の多い系統となっている。日本で主に見られる詳細系統はO-M176系統とO-M122系統である。
    O-M176系統は、日本列島のほか、朝鮮半島でも日本と同程度見られ、東アジアのその他の地域や東南アジアでも稀に見られる。O-M176系統は今よりおおよそ31,108年前に現代東南アジア人男性の多くが属すO-M1304/K18との最も近い共通祖先であるO-M268から分かれ出て、今より約7、8千年前から朝鮮半島またはその近くの地域で急速に帰属人口が増え始め、やがて日本列島や中国大陸へ拡散をしたと見られる。日本のO-M176保有者の約7割(85/127 = 67%、525/761 = 69.0%、64/90 = 71%、57/77 = 74%、66/88 = 75%、38/46 = 83%、11/13 = 85%)で見られるO-47z(K7)というサブグループは、今よりおおよそ8,000年前に発生したと推定されており、朝鮮半島及び中国で多く見られるO-F2868(K4)というサブグループとはその時点で血筋がわかれたということになる。
    O-M122系統は、中国、朝鮮、ベトナム等においては最多を占め、東南アジア、インド北東部やネパールなどの南アジアでも広範囲に見られるO系統の最大のサブグループであるにも関わらず、日本においては低頻度であることが特徴的である。

日本人男性のY染色体比率

ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。

Y染色体グループから推定される日本人の成立史

崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万-3万年前にやってきたD-M64.1系統である。D-M64.1は日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%(但しサンプル数は16人のみ)、沖縄県約40%(4% - 56%)、本州約35% (31% - 39%)で、日本国外では韓国で平均して2%ほどの男性に観察されるほか、中国、ミクロネシア、ティモール島などで散発的に観察されている。遠縁のD-F6251が多数のチベット人で見られるほか、少数のウイグル人、モンゴル人、アルタイ人、イ(彝)人、ミャオ(苗)人、ヤオ(瑶)人、漢人などでも確認されている。D-CTS11577系統の下位系統は5万年以上前に分岐し、日本列島に至り誕生したのがD-M64.1であり、アルタイ-チベット付近にとどまったグループがD-F6251であると考えられる。

渡来時期については諸説あるが、後期旧石器時代及び新石器時代のヨーロッパ(クロマニョン人)、そして少数の現代ヨーロッパ人、ベルベル人、アルメニア人、ネパール人でわずかに見られるC-V20と姉妹系統のC-M8系統もかなり古い時代に日本列島に入ってきたと考えられる。崎谷満はC-M8の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている。他にも華南から海流に乗って日本列島に到達した南方経由説、樺太から北海道に流入後、日本列島各地へ流入した説など様々な意見がある。渡来年代についてはD-M64.1より早い4万年以上前という説もあり、C-M8が日本列島最古層という可能性もある。現代日本人男性の約20人に1人(5%)がこのC-M8系統に属していると見られ、韓国・朝鮮及び中国でも散発的に観察されている。

C-M217系統は現在、カザフ人、モンゴル人、エヴェンキ人等のアルタイ系諸族、極東ロシア(ニヴフ人、コリャーク人等)及び北アメリカ大陸北西部の原住民(例えば北部アサバスカ諸語話者等)に多い。崎谷はC2系統は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。ただし、C-M217系統も渡来時期については諸説あり、朝鮮民族や漢民族などの周辺民族にも一定頻度見られることから、後述のO-M122系統やN系統やQ系統等と共に渡来してきた可能性もある。ちなみにアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)で高頻度なC-M217系統はC-M407という若いサブクレードに属すものを除けばほぼ全てC-L1373系統であるが、日本人や漢民族、朝鮮民族などで観察されるC2系統はC-F1067系統が大半で、C-L1373はわずかである。(C-M217に属す日本人130人中111人即ち85.4%がC-F1067 > C-CTS3297に属すのに対して、わずか19人即ち14.6%がC-F1396に属し、河北省邯鄲市漢族730人のサンプル中79人がC-F1067に属すのに対してわずか13人がC-L1373に属し、韓国ソウルで採取された573人のサンプル中70人がC-F1067に属すのに対してわずか5人がC-L1373に属し、韓国大田で採取された133人のサンプル中14人がC-F1067に属すのに対してC-L1373に属す人が1人も観察されなかった。) また現代の日本で観察されるハプログループC-M217に属すY-DNAは幾つもの異なる下位系統に属しており、一概にC2系統といっても、そのルーツや渡来時期は複数存在したことが想定される。現代日本人に於けるC2-M217の頻度については、各研究によって差があり、少ないものでは2%、3%ほど、多いものでは6%、7%ほどとなっている。

O-M119系統は台湾の原住民の男性に非常に多いので、新石器時代の台湾または対岸の中国本土沿岸部が起源であろうと推測されている。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾に近いにもかかわらず、日本列島の男性ではO1aは全体の約1%(0%~3%)に過ぎない。中国復旦大学・黄穎、李輝、高蒙河らの研究によれば、中国春秋時代・百越(粤)のY染色体は、O-M119系統である。

O-F2320系統の下位系統の一つであるO-M95は現代の東南アジアの男性に多いが、元々は新石器時代の中国から拡散していったと見られている。O1a-M119と同様、現代日本人の全体の約1%(1%~4%)がこのO-F2320系統に属していると見られる。

O-M176系統について、崎谷満は従来の研究結果とは異なる主張を提示し、長江文明の担い手だと考えている。今までの研究結果とは逆にO-M176系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O-M176は南下し、百越と呼ばれ、残りのO-M176は西方及び北方へと渡り、中国東北部、朝鮮半島から日本列島へ渡ったと崎谷満は主張している。O-M176系統は中国江南から水稲栽培を持ち込んだと考えられ、日本列島への流入は弥生人と関連し、則ちO-M176系統の到来と共に縄文時代から弥生時代へ移行しはじめたと考えられる。O-M176系統は日本列島のほか、朝鮮半島や中国東北部の一部でも比較的多く見られる。しかし、池橋宏はO-M176が長江文明の地域である中国南部に殆ど発見されていないことと、日本の一部の地域に地層から稲のプラントオパールがみつかってはいるが、これが必ずしも長江から移動を意味するものではなく、稲の品種や技術が人々の間で伝来したと考えられると主張した。

O-M122系統について崎谷は、その一部は縄文時代~弥生時代にミレット農耕をもたらしたが、大部分は弥生時代よりも更に後、特に4世紀から7世紀頃に中国大陸及び朝鮮半島から到来した渡来人による流入が多かったであろうとしている。O-M122は現代の中国人(約53.30%)や朝鮮民族(42.1%、44.3%)に最多の系統である。

N-M231系統はウラル系民族に高頻度で、日本では約2%(0%-7.7%)の男性に見られるが、具体的な渡来経路などは明らかでない。N1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が青森で採取された26人のサンプルのうち2人のサンプル(即ち7.7%)に観察され、遼河文明の遺跡人骨からもN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が高頻度で見つかっており、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている。なお、現代日本で観察されているN-M231の下位系統は、主に中国で観察されているN-M128とN-M1819とN-CTS962、並びに韓国・朝鮮を中心として中国等でも観察されているN-Y23747/N-F4063であり、ウラル系民族等北アジアの男性に多く見られるN-F1419/M2017とN-P43ではないため、現代日本で見られるハプログループNはハプログループO2-M122やハプログループC2-M217やハプログループQ-M242等と共に渡来してきた可能性もある。(総人口に占める割合を取って見ても、O2-M122、C2-M217、N-M231、Q-M242はどれも日本人よりも中国人と韓国・朝鮮人に占める割合の方が大きい。ちなみに漢族や日本人に比較的多く見られるN-M128はネネツ人、ガナサン人、マンシ人、ハンティ人等東寄りのウラル系民族に多く見られるN-P43とは今より約10480年前に、朝鮮民族に比較的多く見られるN-F4063はフィンランド人、サーミ人、エストニア人等西寄りのウラル系民族に多く見られるN-F1419とは今より約12500年前にそれぞれ最も近い共通祖先をもっていると推定され、更に、これら全ての系統の最も近い共通祖先であるN-F1206は今より約17600年前の者と推定されている。)Wangら、2023のモデルでは古代ユーラシア人のmtDNA Rの分岐である東アジアのmtDNA pre-F*に関連した人口と相互作用したy 染色体N-M231の枝に属するWatahikiら、2024で言及されている日本の人口のy 染色体N-M231の東アジアの性質は、後述する脊椎動物古生物学・古人類学研究所の研究者らが共著した論文から観察できます。DNAに関しては、男性は母親から約51%を受け継ぎ、父親からはわずか49%を受け継ぎますため、脊椎動物古生物学・古人類学研究所の研究者らが共著したYangら、2020のモデルでは、後李文化の博山遺跡のy染色体N-F2905に属する古代男性標本が中国の長江流域の湖北省だけの同時にY染色体O-M119やO-M134やO-IMS-JST002611に属する標本たちに同等なDNAの約49%を持っていました(後李文化が河姆渡文化の土器といくつかの特徴を共有した「陶釜」という丸底土器を主体を持中に马家浜文化の形成に貢献しました)、後李文化の小荊山遺跡にはPCA上の博山遺跡の古代標本の近くにクラスター化されたY 染色体N-F2905に属する1つの古代標本があり、小荊山遺跡にも、y 染色体N-L729(N-F1206)に属する4つの標本で正確な遺伝的系統を形成する1つの古代標本があった、さらに、X染色体の組換え中に男性の減数分裂に参加したy 染色体N-L729に属する祖先が存在する場合のように、これはy染色体N-M231のすべてのタイプに関連した小荊山遺跡の個人たちの集団の相対的な均一性を示してあり、全体的にこれらの小荊山遺跡の個人たちが中国の福建省の亮島遺跡の古代標本のDNAとおおよそ類似したDNAの100%を持つものとしてモデル化できます。y染色体N-M1819はWangら、2023のモデルでは台湾の「選択された」オーストロネシアのタイヤル族のy染色体との主な類似性が示されました、さらに、中国の河南の省龍山文化の平粮台遺跡のy染色体N-M1819に属する古代男性標本のy染色体には中東の要素もウスト・イシム人に関連した要素もありませんでしたが、その代わりに、古代平粮台遺跡で後期石家河文化のタイプに属した、すなわち良渚文化の瑶山遺跡から報告された翡翠の加工技術を組み合わせたタイプに属した翡翠のアーティファクト発見されたことを考慮して、平粮台遺跡のy染色体N-M1819に属する古代男性標本がPCAには澎湖諸島の翡翠のアーティファクトや炭化米を発見された锁港遺跡のY染色体O-F871*やO-M175*に属する古代標本たちと良渚文化の影響を受けて稲作を取り入れた昙石山文化の古代標本たちで遺伝的系統たちを形成しました。Rootsiら、2007に記載されている日本、フィジー諸島などに分布する「祖先パラグループN*」については(比較のために、Hammerら、2006では、y 染色体 NO*/Nの両方に属する標本が徳島と九州に存在していました)、脊椎動物古生物学・古人類学研究所の研究者らが共著したWangら、2021のFigure2Bの日付指定可能なモデルやFigureS3Dの同等の時間スケールを持つ最初のモデルでは、38100年前の系統と38000年より少し若い系統の17%と18%が広西のY 染色体O-M188>O-M7に属する古代独山の標本に分離されていて、古代独山の標本は宝剑山「縄文人と同様に東アジア人との遺伝的類似性を示す」広西の宝剑山の古代標本に貢献し、古代独山の標本に関連した広西のmtDNA B4a1eはフィジー諸島の人口のmtDNA B4a1a1nと突然変異を共有しています、さらに、「古代のゲノムと現生人類の進化の道筋」では、脊椎動物古生物学・古人類学研究所の研究者らが南シナ海の島々などを含む農業革新の独立した中心地を設置ましたが、その代わりに、最終モデルでは、若いy染色体N-M231のに属するの博山の古代標本の独立した遺伝的要素が古代独山や亮島や奇和洞遺跡に代表されるY染色体O-M122やO-M119やO-M268に属する標本たちに関連した人口と共存し続け、Y染色体O-M122やO-M119やO-M268に属する標本たちに関連した人口の分裂前にわずかに分離しましたが、他のモデルによると、分裂後に得られた集団たちと個別に相互作用し続けました。

Q-M242系統はアメリカ大陸の先住民族及びシベリアの一部の先住民族(ケット人、セリクプ人、コリャーク人、チュクチ人等)で多く見られるハプログループである。東アジアでは北方漢族男性(約4%~5%)で比較的多く見られ、日本ではわずか約0.40%の男性に観察されている。

ミトコンドリアDNAとY染色体による比較結果の相違

ミトコンドリアDNAのハプログループ構成を東アジアの集団で比較すると、本土日本人・山東、遼寧の集団、韓国の集団は互いにかなり類似しており、沖縄の集団はハプログループM7aが多いなどの相違があるが依然本土日本人と近縁で、台湾・広東の集団は離れているという結果になった。

いっぽう、Y染色体による比較では、主にハプログループDが日本人において優勢であり、他の集団にはほとんど見られないことで、中国・韓国・モンゴルといった東アジアの集団から日本人は大きくかけ離れている。また、アイヌ、沖縄においてもハプログループDは頻度が高い。

この相違について篠田謙一は、母系と父系の子孫の残し方の違いに原因があると考えている。すなわち、女性は一生に産むことのできる子供の数が限られているのに対し、男性は一人で多くの子供を作ることができるといった事情に起因するという説である。特に、支配者層の父系DNAは短時間で爆発的に増加することがある。日本列島では縄文人の遺伝子とみられるY染色体ハプログループDが広範囲に温存されていることから、縄文系の支配者層が長きにわたって王者として君臨し、その後日本に流入し弥生時代を開始した集団がそれを補佐する形で平和裏に共存し、その後も王朝交替することがなかったか、同じ縄文系の中での交替にとどまったのではないかと推測している。

斎藤成也は、ミトコンドリアDNAやY染色体もそれぞれ母系、父系単系の系統樹を知るのに適しており、その構成要素を知るゲノムワイドな分析と役割の違いを指摘している。

ミトコンドリアDNAによる近隣集団との比較

以下にミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統樹様にして表したものを記す。人類集団は常に混合しているため、多数の遺伝子を用いた分析においては一元的な系統関係は存在しないことに留意する必要がある。この図はあくまで他集団との類似性を示すものである。

下図左では、日本人集団に最も近いのは朝鮮人集団であり、その次にカンボジア人集団であるという結果となっている。下図右では、日本人集団は朝鮮人集団、マレーシア人集団、ポリネシア人集団などと近縁で、「アジアのモンゴロイド」としてまとめられている。「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順で、「ネグロイド」とは最も離れている。

ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(母系)による系統

1980年代からのミトコンドリアDNAハプログループ(母系)の研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、民族集団の系統樹も作成されるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推測できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる。

日本人に特徴的なミトコンドリアDNAハプログループとして、ハプログループM7aがある。

また、篠田謙一は2007年の著書で、ハプログループM7の発生を四万年前、さらのそのサブグループの発生を二万五千年前と推定し、M7の起源地を当時海水面の低下によって陸地となっていた黄海から東シナ海周辺とした。

これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南アジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想するいっぽう、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている。

その他、日本人によくみられるタイプとして、ハプログループD (mtDNA)、ハプログループA (mtDNA)、ハプログループG (mtDNA)、ハプログループN9 (mtDNA)、ハプログループB (mtDNA)、ハプログループF (mtDNA)が挙げられる。

HLAハプロタイプの流れ

HLAハプロタイプについては、日本人には大きく以下の4タイプの流れが認められる。

  1. B52-DR2: 中国大陸北部と朝鮮半島から北九州・近畿へ
  2. B44-DR13、B7-DR1: 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ
  3. B54-DR4: 大陸南部から琉球諸島を経て太平洋側へ
  4. B46-DR8: 大陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ

1. は中国北部、モンゴルの一集団に高頻度のタイプで、国内では九州北部から本州中央部にかけて多い。

2. は満族、韓国人に高頻度タイプで、国内では日本海側に多い。

3. は中国南部に多いタイプで、国内では沖縄や太平洋側に多い。

4. は国外では満族と韓国人のみに多くみられ、国内には九州北部から本州中央部にかけて多い。このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も高頻度でみられる。

さらにこれとは別に縄文系と想定される別の複数のハプロタイプが南九州や北東北に存在する。またアイヌは日本人と異なる型が多いという。

塩基多様度のネット値 (DA) 分析による系統関係

ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌと東アジア人クラスターが分岐、次いで東アジア人が分岐、次いで沖縄と本州とが分岐する。

核DNAに対するゲノムワイドな解析

ヒトゲノムが解析されて以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待されてきた。しかし、ゲノムワイドな解析を行う場合、個体によって差が開き過ぎるため、長期間の人類史を追うための解明には不適であるとの指摘もある。具体的には個体「A」のゲノムを解析し、近隣諸国の人々との違い、混合割合を算定したところで、その個体「A」がどのようなパートナーと婚姻し子供を生むかで、次の世代の個体「B」は全く異なるDNAの構成となるからである。このように一世代で全く異なるDNAに置き換わってしまうものを根拠に、古代のある時代を推算して結果を導くことに注意喚起がなされている。

遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、①注目するDNA領域長、②遺伝的組み換えの有無、③遺伝様式などが挙げられる。

遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。

ゲノム解析は中立進化をしている領域のほか、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される。

上記詳細は太田(2007)、斉藤(2009)、斎藤(2017)などを参照。

以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。

International HapMap Consortiumの研究では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。

Tian et al.(2008)では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortiumによってなされている。

日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスターに分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった。

しかしYamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。その後、斎藤成也ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行われた。

その結果アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。また、アイヌ人は本土人との混血の度合いの差により個体間のばらつきがきわめて大きいが、遺伝的な多様性自体は本土人や沖縄人よりも低かった。また、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。さらに、東アジアの他の30の人類集団のデータと日本列島人の比較調査が行われた。30集団のうちほとんどの集団が近縁のグループを形成したのに対し、本土日本人、沖縄人、アイヌ、韓国人、ウイグル人、ヤクート人のみが大きく乖離していた。このうち日本列島の三集団はアイヌ、沖縄人、本土人の順に同傾向の乖離を示し、縄文人の影響を受けていることが確かめられた形となった。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。

アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた。

また、アイヌ人を縄文人に見立て、他の日本列島人と比較すると、本土日本人には14‐20%、沖縄人には27‐30%の縄文人の血が伝わっていると推定された。

また、日本を七地域に分けてその遺伝的距離を測った研究では、沖縄と他の本土日本人との距離はその他の地域同士の距離よりも大きく離れていた。沖縄人と個々の地域集団との関連でいえば、比較的地理的に近い九州だけではなく、東北の集団とも比較的共通性がみられることがわかった。さらに別の調査では、出雲地域の集団や南薩摩の集団が東北の集団と遺伝的に近いことが判明した。またこれら沖縄、東北、出雲、南薩摩の集団は、関東の集団と比べて大陸の集団との遺伝距離が遠いという結果になった。これは、北九州、畿内、中部、関東などの政治文化の中心地には弥生時代の渡来人やその後も断続的に続いた流入民が集まりやすく、逆に沖縄・東北・出雲・南薩摩などの周縁部は弥生以降の渡来人の影響が少なかったことが影響しているのではないかと推測されている。

また、斎藤はアイヌと本土日本人との遺伝的距離、そして本土日本人における遺伝的地域性を鑑みて、縄文人の後に大陸から渡来した人々は遺伝的に二つの集団に分かれると主張した。

2005年の疾病管理本部国立保健研究院のチョ・インホ博士研究チームは、韓国人、日本人、中国人の間に存在する遺伝的差異の中で、現在の韓国人と近隣諸国との遺伝的差異は中国人(10.4%)、日本人(5.9%)であり、韓国人と日本人の遺伝子が最も似ているとしている。

古代核DNA解析による研究

国立遺伝学研究所によると、下記のミトコンドリアDNA(母系)やY染色体ハプログループ(父系)ではなく、核ゲノム配列に基づく調査を行った結果、福島県三貫地貝塚から出土した縄文時代人に基づくものとして、縄文人は人類がアフリカから東ユーラシアに移り住んだ内でもっとも早く分岐した古い系統であること、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程であるとしている。

2019年、覚張隆史等のグループは愛知県伊川津貝塚から出土した特定の縄文人骨をIK002と名づけゲノム配列の解析を行った。その結果、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであるとしている。また、本州縄文人の個体の一つであるIK002であるが、アイヌのクラスターに含まれると同時に台湾原住民の中の一部や、8千年前のラオスの人骨との親和性が高いことから縄文人は南ルートを通った可能性を主張している。一方で、IK002という1個体の解析であり、他の地域、他の時代の縄文人も同様に南ルートを示唆できるかについては不明とし、今後調査する個体を増やすとしている。

Boer et al. (2020) による全ゲノム研究では、いくつかの縄文人の標本を分析し、それらが現代のアジア人と遺伝的に異なり、シベリアを通って日本に移動した可能性が高いことを発見し、南ルート仮説を支持しない結果となった。

マルティン・ロベーツによると、古代北東アジアの古代DNAからは、遼河文明の地にあたる遼河流域の遼西地域のキビ農耕民では、時代が進むとともにアムール川系統の遺伝子が多数派であったものが、黄河系統の遺伝子が増える傾向が見られ、それは前4000BPから前3500BPの夏家店下層文化まで続くが、前1100BPから前500BP頃の夏家店上層文化(Upper XiaJiaDian)では再びアムール川系統が増加している。一方で朝鮮半島では、新石器時代の南岸では、ばらつきは大きいものの0〜95%で縄文人系統の遺伝子と、100〜5%で遼河文明の紅山文化の遺伝子との混血であるとモデリングできた。一方青銅器時代の朝鮮半島西部では100%夏家店上層文化系統であった。日本においては青銅器時代(弥生時代)の渡来系弥生人で縄文人系統10〜20%弱、夏家店上層文化系統の混血としてモデリングできた。形質的には縄文人の特徴が強いとされる西北九州弥生人では45%縄文人系統、55%夏家店上層文化系統であった。沖縄県先島諸島では、青銅器時代の長墓遺跡で縄文人100%であったが、歴史時代には縄文人系統20%、夏家店上層文化系統80%であった。

核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
  • 第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)

第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に流入した。特に1万2000年前まで日本は大陸と陸続きであったため流入は容易であった。この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった。この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展したと考えられる。

  • 第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)

縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった。また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性がある

  • 第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)

朝鮮半島から稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった。特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった。

  • 第三段階後期(約1700年前-現在)

政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた。南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ。北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ。

仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人、南方中国人)がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、第一段階の集団の遺伝子はアイヌの一部が100%を受け継いでおり、沖縄人は20%弱、本土日本人もそれより低い確率で受け継いでいるが、その他の三集団ではほとんど見られない。第二段階の集団の遺伝子は、沖縄人が80%以上、本土日本人が60%以上、韓国人は30%前後、北方中国人が10%前後受け継いでいるが、南方中国人はほとんど持っていない。第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%前後、韓国人の70%前後もこの系統である。本土日本人においては第一段階の集団よりも多いが、第二段階の集団よりは少ない。アイヌにもある程度影響のある個体が存在するが、沖縄人への影響はほんの一部に過ぎない。ただし、これらの推計は限りなく単純化されたもので、必ずしもそのまま受け取れるものではないことに注意する必要がある。

都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造

Watabe et al. (2020)は、47都道府県の日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。47都道府県を対象に主成分分析では、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映しており、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県であった。第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意な相関が見られた。また、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかった。この結果は、先住の縄文人と大陸から来た弥生人との混血度合の差異と地理的位置関係が本土日本人の遺伝的地域差を形成した主要因であることを示している。大陸から地理的に近い九州北部よりも、近畿地方や四国地方の人々に弥生人の遺伝的構成成分がより多く残っていることが示唆された。

その他の分子人類学的指標による諸説

集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している。分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を批判しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌとは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本州日本人はアイヌや琉球諸島、チベット、一部の台湾原住民と近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している。松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)。

京都大学ウイルス研究所の日沼頼夫はALT(成人T細胞白血病)レトロウイルス (HTLV) のキャリアが多い地域を縄文系の人が色濃く残存する地域と考えた。ATLのウイルスキャリアは日本人に多数存在するが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されず、アメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などで多い。日本国内の分布に目を転じると、九州や沖縄、アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐、五島列島などの僻地や離島に多いことが判明している。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅し、弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられている。

最近の研究から、東アジア人(モンゴロイド)を特徴付ける遺伝子があることがわかった。

Chauber&Driem (2020)は、縄文時代(紀元前6000年頃に)日本列島には現代のオロチョン人に近い"アルタイ的民族"が北東アジアから移住し、陶磁器文化に代表される初期の縄文文化を導入したと推定している。 さらに、弥生人が到着する前に、オーストロネシア人が日本最南端(特に先島)にいた可能性があると述べている。

形質人類学、考古学からの接近方法

日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。

東大人類学教室の長谷部言人、鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。

それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人の混血であるとする「二重構造説」を唱えたが、近年分子生物学の研究が進むにつれて「縄文人」も北方系であるとする研究結果が多数出るに至っている。

考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を1割程度に見積もる研究者が多い。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションによると、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高く、渡来が少数でも数百年で大きく数を増やす可能性も示された

稲作の起源とその考古学的分析

日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在しているが、稲作以前から日本列島には人が住んでいたことと、移民してきた少数の稲作耕作者から稲作が原住民に伝搬された可能性とを考えれば、稲作伝搬が必ずしも大規模な移民を裏付けるものではないことに注意が必要である。 従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島北部から南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。いっぽう、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とする意見もある。しかし、池橋宏によると発見された稲の品種の中で、江南を起源とする稲のプラントオパールの数が非常に少ないことを指摘している。

民族学・古代史から

民族学

人類学者の鳥居龍蔵は、アイヌ、固有日本人(朝鮮半島から、あるいは沿海州から来た北方系民族)、インドシナ族(苗族)、インドネシア族(隼人)を主な構成要素として日本民族が形成されたと考えた。


言語学から

日本語の起源を解明することで、日本人のルーツを明らかにするという研究もある。

日本語の起源は、従来、アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。現在のところ、日本語の起源については、いくつかの説が出ているが決定的なものはない。

学際研究による日本列島へのヒト渡来経路の総合的分析

平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会による共同研究「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」が行われ、2010年2月20日には国立科学博物館にて公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態、DNA、食性モデルの一致、不一致」が開催され、また雑誌『科学』(岩波書店、2010年4月号)では同内容が掲載された。研究代表者の溝口優司は、研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったと断ったうえで、日本列島へのヒト渡来経路は現時点では次のようになるとしている。

  1. アフリカで形成された人類集団の一部が、5 - 6万年前までには東南アジアに渡来し、その地の後期更新世人類となった。
  2. - 3. 東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった(典型性確率を使った頭蓋計測値の分析で、オーストラリア東南部出土の人骨化石であるキーローなどに似た後期更新世人も、縄文時代人の祖先候補とすべきであることが指摘された)。
  3. アジア大陸に進出した後期更新世人類は北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得た。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいた。
  4. 更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住した可能性もある。
  5. シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布。

また同研究では、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道 - 九州地方の縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点が見出され、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされた。

名称

美称
  • 日本男児、大和男子(やまとおのこ)
  • やまとなでしこ(大和撫子)

前者は日本男性、後者は日本女性を指す。武士道、武芸、日本的道徳、教養、芸術、和裁、日本料理の技能などを備えていることの誉め言葉としてよく使われる。国際スポーツ大会で活躍した日本チーム・選手は、20世紀末からは「サムライ○○」と呼ばれるようになった。(例)サムライブルー、サムライジャパン。

他の言語

アイヌ語で、アイヌ人以外の日本人を、「自分のそば」「隣人」という意味のシサムという。それ以外の言語では、おおむね「漢語の日本の現地発音、ジパングに類似した固有名詞」+「国民、住民を表す接頭語、接尾語」で表現される。

外国系日本人・帰化

ヤマト王権(朝廷)が日本列島の大部分を統治するようになった後は、 王の徳を慕って日本に渡来した帰化人があった。彼らは技能を持って王権に仕えることで、地位を保証された。呉の国から機織りの技術や、百済からは天文・暦学の知識が体系化された状態で日本へ伝えられたが、これらはヤマト王権が諸外国の知識を取り入れて安定した基盤を築くことに貢献している。帰化人は各地の倭人との同化が進み、日本人(大和民族)が形成された。大和民族は、歴史や人類学で使う呼称であり、法令では使われていない。反対に日本政府は、日本人の中にアイヌのみを別個の民族としており、かつて蝦夷地と呼ばれ日本の本土への統合の度合いが低かった日本北部の一部地域の先住民族と定めている(アイヌ施策推進法)。アイヌの人々は日本の一民族であるため外国系日本人には含まれない。

一方で、近現代の国籍法に定める帰化によって、様々な外国人が日本国籍を取得することができた。日本の帰化は、本人の志望と法務大臣の許可とを要する。明治の国籍法制定の時から1988年(昭和63年)までの帰化者の総数は20万人弱であるが、その大多数は戦後の新国籍法(昭和22年公布)の下で行われた。さらに、平成になった1989年から2021年(令和3年)までの帰化者の総数は約40万人に上っている。もっとも、帰化者の生存・子孫ならびに混血の動向に関する統計が存在しないため、ハーフ等の混血者を含まない純然たる外国系日本人の現人口を推計することは困難である。

帰化に関する2020年(令和2年)の統計によると、同年末までに韓国・朝鮮籍から日本に帰化した累積者数は383,991人、中国・台湾からの帰化(中国籍からの帰化)は累計149,948人である。いっぽう、韓国・朝鮮・中国以外の籍からの帰化は、少数ながらも近年増加しつつある。2020年末現在のその累積者数は43,382人に上り、帰化前の国籍には、ブラジル、アメリカ、ロシア、モンゴル、ベトナム、フィリピン、ペルーなどがある。帰化者は元の国籍を離脱する原則があるため、通常であれば帰化者は日本国籍のみを有する日本人である。

また、アメリカ系日本人のような呼称は、帰化者に限らず海外ルーツの日本人を全般的に指すことがある。もっとも、これらの呼称は多義的である。当人のルーツが専ら海外にある、もしくは海外と日本の両方にあるという属性のみを言う場合がある一方で、海外ルーツのない日本人との様々な隔たりを強調し、一般日本人と切り離されたマイノリティー集団への帰属が含意されている場合もある。しかし、それらの捉え方は各本人の習慣の実態や帰属意識(民族的アイデンティティまたは国民的アイデンティティ)と合致していると限らないので、注意を要する呼称である。

その他

  • 祖先の調査
    • DNA分析によるルーツ(祖先)調査は、ナショナルジオグラフィック協会とIBMによるジェノグラフィック・プロジェクトや、ローカスなどで検査可能である。
    • 東京都健康長寿医療センター(旧・東京都老人総合研究所)の健康長寿ゲノム探索研究チームでも「健康長寿を可能にする遺伝的素因の解明」という主題のもとにDNA系統分析が行われている。
  • 邦人(ほうじん)
「邦」の字は「国」と同義であり、したがって「邦人」の字義は「国の人」(歴史的用語である国人とは意味が異なる)である。その語義は第1に「(文が主体とする)国の人間」を意味し、「自国の人」を指す。この意の「邦人」は、文の主体が日本であれば「日本人」を指し、他の国であればその国の人を指す(用例:アメリカ政府は邦人の救出に成功した)。ただ、当然ながら日本語において日本人を指すことが多いため、現代においてはこれが「邦人」の第2義となっている(用例:日本政府は邦人の釈放を要求した)。なお、第2義の「邦人」は日本に滞在する外国人や日系人を含まないことが多い。「日本国外に居留(在留)する在外日本人(海外在留邦人、略して在留邦人とも、在外邦人などとも呼ばれる。旅行者は含まない)」に対して使われることが多く、マスメディアでは「現地在留の日本人」を指して用いられる頻度が高い。現代日本語のニュアンスとしては、硬質な話題、すなわち、政治経済のニュースや現地在留の日本人が何らかの災禍を被ったネガティブなニュースで用いられるケースがほとんどである(用例:事故に巻き込まれた邦人の数は…)。硬質でない話題で用いられることは比較的少ない(用例:ご到着になった天皇陛下と現地在留の日本人らは…)。また、「当事国の在留日本人」という意味で「在+国名+邦人」や「国名+邦人」とする例も見られる(用例:在アルジェリア邦人拘束事件〈cf. アルジェリア人質事件〉。アルジェリア邦人拘束の報。※後者の場合は第1義的用法〈アルジェリア国の邦人〉との判別は不可能)。「内国人」とも呼ばれるが、一般的ではない。

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 日系人
  • 在外日本人
  • 人種
  • 民族
  • ハプロタイプ
  • ハプログループD (Y染色体)
  • ハプログループD1a2a (Y染色体)
  • ハプログループO (Y染色体)
  • モンゴロイド
  • 倭人
  • 日本人論
  • 日本人バイカル湖畔起源説
  • 日ユ同祖論
  • 日本の民族問題
  • 日本の外国人
  • コロポックル#コロポックル論争
  • 古代北部東アジア人
  • 「日本人」で始まるページの一覧

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 日本人 by Wikipedia (Historical)


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