高原 直泰(たかはら なおひろ、1979年6月4日 - )は、静岡県三島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカークラブ代表者。ポジションはフォワード。沖縄SV株式会社CEO。元日本代表。
Kリーグ時代の登録名は高原(ハングル: 다카하라)。
血液型はB型。アルゼンチンから日本に復帰した2002年にはJリーグMVPとJリーグ得点王を獲得。2006年FIFAワールドカップ出場。
静岡県立清水東高等学校を卒業。同校在学中は全国高等学校サッカー選手権大会の出場はならなかった。1998年にジュビロ磐田に加入し、3月21日の開幕戦(京都戦)で途中出場。初出場・初得点を挙げる(2023年に後藤啓介が記録を更新するまではクラブ史上最年少での得点であった)。2000年、ベストイレブンに選ばれる。
2001年、J1リーグ1stステージ第13節横浜F・マリノス戦で優勝を決める延長Vゴールをあげた。同年8月にアルゼンチンのボカ・ジュニアーズのオファーを受けて移籍し、6試合で1得点を挙げた。12月にトヨタカップでの凱旋帰国が期待されたが、直前でメンバー落ちしてしまい出場が叶わないなど、必ずしもチーム首脳から確固たる信頼を得てはいなかった。しかも、2002年初頭、アルゼンチンの経済情勢が悪化し、通貨価値が1週間で半分以下になるなど情勢が混乱したことを理由にボカから契約解除となった。帰国後、磐田に復帰し2002年のJリーグ開幕を迎えた。
2002年、日韓W杯直前にエコノミークラス症候群を発症。その後復帰を果たすと、中山雅史とのコンビでゴールを量産し、MVP・得点王(26得点、史上最年少)の二冠を獲得。リーグ優勝に貢献した。
2003年には再び海外での活躍を目指していたこともあり、ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVのオファーを受けて完全移籍。一年目で連続無失点記録を継続中だったオリバー・カーン擁するバイエルン・ミュンヘン相手に得点を決めるなどし、リーグ戦を16試合(先発は12試合)3得点で終える。翌2003-04シーズンは、リーグ戦29試合(先発22試合)に出場するも2得点という結果に終わる。2004-05シーズン、トーマス・ドルが監督に就任するとシーズン序盤は先発から外れるも、第6節のヘルタ・ベルリン戦で2得点を記録し、レギュラーを獲得。リーグ戦31試合(先発は26試合)に出場し、FW中最多の7得点を挙げた。翌2005-06シーズンはリーグ戦21試合(先発は6試合)出場1得点で終えた。
2006年5月、ドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ3年契約で移籍。12月3日、アレマニア・アーヘン戦で3得点を挙げ、ブンデスリーガにおける日本人初のハットトリックを達成するなど、1ヶ月で6得点を挙げる。
2007年、5月5日のホームのアーヘン戦で得点を決め、自己記録更新中の同リーグシーズン通算得点を11とした。また、欧州主要リーグでの年間二桁得点の達成は、1998-99シーズンに中田英寿(ペルージャ)が達成して以来の快挙であった。この活躍もあってフランクフルトは1部に残留を決める。この年のフランクフルトサポーターが選ぶMVPにも選出された。2007-08シーズンはひざのケガでスタートが出遅れ、またフリードヘルム・フンケル監督との起用法における対立もあり、出場機会が激減した。
代理人であるトーマス・クロートと話し合いをした上で、浦和レッズとコンタクトがとれるかを確認。浦和側がFWの補強を望んでいたこともあり、移籍金1億8500万円、年俸1億8000万の3年契約。2008年1月11日に約6年ぶりのJリーグ復帰となる移籍が決定。しかし、フランクフルトで試合出場機会が減ったことによるコンディション不良、また長谷部誠、小野伸二の移籍、ポンテもケガで出遅れるなどのパサー不足という状況もあり、2008年はリーグ6点、ACL、ナビスコ杯各1点と合計8得点に終わり、期待以上の働きをすることはできなかった。
2009年は前シーズン限りで現役を引退した内舘秀樹に志願して、背番号7から馴染み深い背番号19に変更した。この年はキャンプ、練習試合で好調を維持し、J1開幕戦の対鹿島アントラーズ戦でスタメン出場を果たしたが、結果を出せず、次戦の対FC東京戦からはエジミウソンにスタメンを譲った。その後しばらくは途中出場が続いたが、ナビスコカップ予選リーグ第5節磐田戦でシーズン公式戦初得点を記録したのを皮切りに好調を維持し、貴重な得点を決めて勝利に貢献する時期もあったが、徐々にチーム状態が悪化し、更に自身も不慣れな左右のMFで起用される中で勢いを失い、スタメンを外れることも多くなっていった。最終的にはリーグ4点、ナビスコ2点と合計6得点という前シーズンを下回る成績でシーズンを終えた。
2010年は開幕前から既に構想外であり海外キャンプにも帯同しなかった。その理由として7月10日の会見で監督のフォルカー・フィンケより「去年の時点で今夏の移籍は決まっており、本来は昨冬に移籍するはずだった」ので「構想内の選手だけで練習するのは当然」とされた。同年7月23日に韓国Kリーグの水原三星ブルーウィングスに完全移籍した。移籍金は約4190万円、年俸は減額となるが差額は浦和が負担している。
水原での期待は大きく、Kリーグ最大の人気カードである対FCソウル戦では2得点を決め「とにかく最高!!」と自身のブログで喜びを爆発させた。シーズン終了後に自身のブログで「俺はこのチームで自分らしさを取り戻す事が出来たと思っています」と語った。
2011年、フロント主導でチーム改革を進める清水エスパルスから「得点王を狙える大砲」としてオファーを受け、1年契約+1年オプションの年俸2500万(2400万と報じたメディアもある)で完全移籍した。5月22日J1第12節大宮戦で2得点、4ヵ国(日本、ドイツ、韓国、アルゼンチン)リーグ通算100得点を達成。6月18日J1第16節古巣浦和戦では、大前元紀のクロスにダイビングヘッドでゴールを決めた。古巣に対してはゴールを喜ばない選手も多い中、高原は清水サポーターに向かって膝滑りをしながら両手を広げた。試合後の取材では「ブーイングされる覚えはない。俺は(チームから)追い出された側なんで」とコメントした。
2012年12月、契約満了のため、清水を退団することが発表された。
東京ヴェルディからJ1昇格請負人としてオファーを受け、2013年1月に完全移籍した。リーグ戦ではチーム最多の11ゴールを記録したが、チームは低迷しJ1昇格を逃した。2014年からはクラブの資金難と急激な若返り策が影響し、開幕から出場機会に恵まれず3試合連続でベンチ外となった。
同年3月21日、「このまま(東京Vに)残っていてもプレーする機会はもらえない」「試合に絡めないと分かっているのにその場にいるのは自分にもチームにも良くない」と、J3へ昇格したSC相模原へ期限付き移籍(2015年1月31日まで)。移籍後初先発したブラウブリッツ秋田戦でJ3初得点を記録。
2015年1月19日に完全移籍し 、2015年度のキャプテンに就任。同年5月24日に行われたY.S.C.C.横浜戦では、プロ生活初となる無回転FK弾を決めた。11月30日、契約満了による退団が発表された。
2016年に創設し、自身が代表(出資は、柔道の野村忠宏らとの共同出資)を務める沖縄SVでプレー。代表兼監督兼選手を務める。第52回全国社会人サッカー選手権大会に出場したが1回戦で敗れた。2020年からは山本浩正が監督に就任したため、監督業からは退いた。しかし、その後リーグでの成績不振もあり2021年シーズン途中から再び監督を務める事となった。高原が監督に戻りリーグ戦最終節で逆転優勝を果たす。
2023年7月2日、JFLで得点し、国内カテゴリーのJ1、J2、J3、JFL、地域リーグ、都道府県リーグでの得点を記録した。
8月31日、このシーズン限りでの引退を表明した。ラストゲームは、VONDS市原とのJFLと地域リーグの入れ替え戦だったが、自身も延長前半10分までプレーし、チームの勝利とJFL残留に貢献した。
引退後は、選手と兼任していた監督も辞めて社長業に専念。
沖縄SVが取り組んでいる「沖縄コーヒープロジェクト」(詳しくは沖縄SV#サッカー以外の取り組みを参照)の関係から、現役時代に自らも練習の合間を縫ってコーヒー農園での作業に従事しており、現在はコーヒー農家との兼業状態であるという。
各年代で日本代表に選出され、1994年にはU-16代表としてアジア選手権に出場。
1999 FIFAワールドユース選手権で3得点を挙げ準優勝、2000年のシドニー五輪では3得点を挙げGL突破、フル代表では2000年アジアカップに出場し優勝。
2002年、日韓W杯直前にエコノミークラス症候群 を発症し落選。この出来事はワールドカップ入りが確実であっただけに日本のファンが失望したほどの大きいアクシデントとも言えた。
2006年ドイツW杯アジア1次予選にFW中最多出場でシンガポール戦で1得点を挙げる。最終予選は第3戦まで連続で出場するが無得点で、その後は負傷を理由に欠場し、FIFAコンフェデレーションズカップ2005にも出場しなかった。ワールドカップ地区予選終了後は欧州リーグ所属のため代表招集の機会は限られる中、テストマッチ出場5試合で3得点を挙げ、6月に2006年ドイツW杯のメンバーに選出される。開幕前に行われた強化試合でも地元ドイツ相手に2得点を挙げる活躍で、エースストライカーとして本大会に臨む形となったが、グループリーグ3試合で無得点に終わった。
2007年3月24日、キリンチャレンジカップ、ペルー戦で代表に復帰し、イビチャ・オシム体制での初得点を挙げる(試合は2-0で勝利)。アジアカップでは4得点を挙げ、アジアカップにおいて日本人初の得点王に輝いた。
岡田武史への監督交代後にクラブでも代表でも不調に陥り、2008年5月を最後に招集されなかった。
左右両足から放たれるシュート、高さのあるヘディング、相手ディフェンダーをかわしてシュートする突破力など、求められる要素をすべて持つ万能型フォワード。
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