小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都小笠原村の行政区域を指す。東京都特別区の南南東約1,000キロメートルの太平洋上にある30余の島々からなる。総面積は104平方キロメートル。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。小笠原諸島は別名をボニン諸島(Bonin Islands)という。
南鳥島を除く小笠原諸島は海洋地殻の上に形成された海洋性島弧である。太平洋プレートがフィリピン海プレートの東縁に沿って沈み込むことによって誕生した。
民間人が居住するのは父島・母島の2島。2020年現在、人口は、父島2173人、母島456人である。自衛隊などの公務員が常駐する島としては父島・硫黄島・南鳥島がある。
これらを除く島は無人島である。ちなみに、小笠原群島(右地図赤丸で囲った部分)は小笠原諸島の一部の名称であるが、時折混同され、小笠原群島の意味で小笠原諸島と呼ばれることがある。
小笠原諸島は生物地理区の区分上において、日本で唯一オセアニア区に属している。また、形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。周辺の海域では多くの魚類、鯨類(クジラやイルカ)、サンゴが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では特に固有のカタツムリの動物相と維管束植物の植物相が豊富である一方、人間が持ち込み野生化したヤギも生息しており、森林の破壊や表土の流失、固有植物の食害などの問題をもたらしている。
日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。
年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は小さい。春から初冬にかけて台風が接近する。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる。
気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所( 2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報および、週間天気予報は発表されていなかった。ただし、小笠原諸島周辺海域は2017年現在でも地方海上予報区の区域外であり、海上警報も発表されない。
古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される。
北硫黄島(には先史時代(1世紀頃)のものとみられる石野遺跡がある。父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが詳細な時代は不明である。
ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している。1817年にフランスのアベル・レミューザが三国通覧図説の地図を載せて小笠原諸島を「BO-NIN諸島」として紹介した。以後、ヨーロッパの地図でボニンという名称が使用されることとなったという。
19世紀に入ると欧米の捕鯨船が寄港するようになる。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である。1825年にはイギリスの「サプライ」が父島を訪れ、1826年にはイギリス捕鯨船「ウィリアム」が父島で難破した。1827年6月8日、小笠原諸島を探索していたイギリス海軍の調査船「ブロッサム」が到着。「ウィリアム」の元乗組員で、島に残っていた2名を発見した。「ブロッサム」艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは父島をロバート・ピールにちなんでピール島、母島をベイリイ島などと名付け、領有を宣言した。彼は、発見したのは『日本誌』などの掲載されている島とは別の島であると主張した。この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかったようである。1828年、ロシア調査船「セニャーヴィン」(フョードル・リトケ艦長)が来訪。
19世紀初頭林子平の『三国通覧図説』から小笠原諸島がボニン・アイランズ(Bonin Islands)としてヨーロッパへ紹介されると、各国の船舶が小笠原諸島へと寄港するようになった。
1827年イギリス海軍のブロッサム号を率いるフレデリック・ウィリアム・ビーチーが現在の父島二見港から上陸すると、前年行方不明となったイギリスの捕鯨船ウィリアム号の乗組員 2人と遭遇し、他国の船も来航していることを知ったビーチーは、領有宣言板を島内の木に打ち付け島を離れた。ビーチーより小笠原諸島の存在の報告を受けた在ホノルルイギリス領事は、ボニン・アイランズへの入植計画を進め、1830年欧米人5人と太平洋諸島出身者25人による入植団をつくり、現在の父島へ入植を果たした。この後も各国の船舶は、水や食料を確保したり病人を下船させるなど、様々な目的で頻繁に小笠原諸島に寄港した。
小笠原に漂着し外国船に助けられた日本人から伝わる情報や、ペリーの「小笠原諸島に関する覚書」におけるこの地への評価から、小笠原諸島は幕府首脳の関心を引いた。1861年江戸幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告した。1862年1月(文久元年12月)外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に赴き、外国人島民に日本が管理することを告げた。その後八丈島から日本人の入植者が送りこまれ開拓が始まった。最新の研究が示したように、文久年間の小笠原開拓は徳川幕府にとって外交上の挑戦のみならず、知的かつ環境的変遷も引き起こした。小笠原諸島の測量に関わった小野友五郎は製図学の最新方法を活かし、小花作之助などといった探検家は異国的環境についての情報を収集した。阿部櫟斎を筆頭に、数人の本草学者が小笠原在住の異国人と交流し、その文化について学んだ。1863年8月(文久3年5月)に西洋列強の圧力で幕府は退島を命じた。維新後の1875年12月は、明治政府は小笠原諸島を改めて開拓した。
第二次世界大戦終戦以降は、連合国軍の占領下におかれ、連合国軍の1国であったアメリカ軍の占領担当地域になった。アメリカ軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くはアメリカ軍施設で働いた。
島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは、アメリカ軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で、アメリカ軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。アメリカ軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉めることとなった。
また、後に日本国政府の意向を無視して、父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって知れ渡った。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていたという。1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したが、アメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫した。その理由は核兵器の保管だったという。占領中は米英語教育が行われて居り返還後、欧米系住民の子弟は、日本語教育の困難な問題により、アメリカ合衆国に移住した者もいた。が、親世代は外見は欧米人であるが、既に日本人として日本語教育を受けて来て居り、自分の子供達と巧く意志疎通が出来ない状況になって居た。此れも子弟が米国に渡る切っ掛けにもなって居た。
固有の植物や海産物が多く採れ、ボニンコーヒー、海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司・味噌汁・ピーマカ(魚の酢漬け、ビネガーの転訛)、パッションフルーツ・マンゴー・パパイヤ・グァバなどを用いたデザートやリキュール、ダンプレン(ダンプリング、欧米系住民の食文化)などがある。
欧米系住民が話していた英語やハワイ語の語彙と日本語八丈方言(八丈語)、日本語共通語が混合された、独特の言語(「小笠原方言」などと呼ばれるピジン言語・クレオール言語)が存在する。
伊豆諸島の系統を引く大和民族的なものと、南洋諸島に移住した島民などから伝えられたミクロネシア系民族の影響を受けたものが共存する。後者の民謡は『南洋踊り』と呼ばれ、2000年に東京都指定無形民俗文化財となった。
小笠原の就業者のうち公務員が3割を占め、観光業や飲食業などを加えて第三次産業従事者が7割超である。以下第一次産業が1割、第二次産業が2割となっている。
パッションフルーツ、レモン、マンゴー、コーヒー(日本では沖縄諸島と小笠原のみ)の栽培のほか、はちみつ(甘露はちみつ)、塩、ラム酒の製造も行い、土産のほか本土にも出荷される。サツマイモやアサガオなど一部の農産物や植物は本土には存在しない害虫の移出を防ぐため、諸島外への持ち出しに厳しい制限があり、消毒などの手続きを要する。
漁業については、近年、小笠原近海において他国によるサンゴの密漁(中国漁船サンゴ密漁問題など)が増加しており、密漁船との衝突などを恐れて漁を控える漁船が相次いでいることが問題となっている。
本土からの物資輸送は定期船「おがさわら丸」入港日に商店に品物が入荷されるため、その直前は販売品が少ない。小笠原諸島では曜日に関係なく船の入港日に合わせた活動が行われている事例があり、船が島に停泊していない(船が東京に戻り、観光客も大半がいない)日は閉まっている店舗も少なくない。都では生活必需品に限り運送費を補助し、価格の安定化を図っている。
物流面の制約からファーストフード店やコンビニエンスストアといったチェーン店は存在しないが、個人経営の食堂や商店などはあり、食料品や日用品も販売している。書店はなく、購入できるのは商店で売っているごく限られた雑誌や本のみである。新聞の宅配もなく、おがさわら丸の入港時に一週間分の新聞をまとめて商店に並べる。
スーパーマーケット、レストラン、薬局などは揃っている。父島の農協(JA)直売所では諸島内で収穫される亜熱帯果物が手に入る。現金自動預け払い機(ATM)は小笠原郵便局と二見港のゆうちょ銀行ATM、信組系カードは七島信用組合小笠原支店で利用可能。
飲食店、商店は農協売店と漁協売店を含めて数軒、ガソリンスタンドが1軒存在する。「飲み屋」を除いては概ね午後 6時までの営業である。定休日は農協売店がおがさわら丸出港日翌日、漁協売店が日曜日、個人経営の商店も日曜日、但し、おがさわら丸入港中は日曜日も営業となっている。理髪店は無い。
父島と母島に 1局ずつ設置されている。 2局とも風景印が配備されている。
自社による宅配便事業を行っているのは、日本郵便(ゆうパック)の 1社のみである。他の宅配便業者は基本的に小笠原海運を通して、地元にある運送会社に連絡運輸(他業者差込)という形をとっている。なお、「おがさわら丸」が宅配便を扱う事実上唯一の交通手段になるため配達には相応の時間を要する。また、期日指定が出来ないほか、各社ともクール便の取り扱いはしていない。
上記の理由により通信販売は制約が生じる場合がある。ニッセンなど小笠原諸島への取り扱いを行っていない業者もあるほか、商品の発送については代金引換の対応を行わなかったり銀行振込あるいはクレジットカード(国際ブランド付デビットカードを含む)による代金先払いを要請する業者もあるという。それでも、小笠原諸島の住民にとって通信販売は日用品を得る貴重な手段である。
小笠原諸島は、ヤマト運輸の宅急便のサービスが日本で最後(1997年11月)に営業を開始した地域である。ヤマト運輸ではサービス開始当初、新聞の 1ページ全面広告で最後の営業開始地域が東京都である旨を見出しにして、全国100%がサービスエリアであることをPRした。なお、父島にあった宅急便センターは後に撤退しているが、運賃体系は引き続き通常のものが適用している。
小笠原の電話は、戦前に本土 - 小笠原 - グアム間の海底ケーブルがあり、1905年(明治38年)に本土との公衆電話が開通している。戦後は1969年(昭和44年)に父島から銚子無線電報局を相手に短波回線により運用を開始したことに始まり、1983年(昭和58年)まで短波帯多重無線による電話が行われていた。当時は回線が数回線しかなく、オペレーターに通話を申し込む方式で電話が殺到すると待たされることも多かったようである。電波障害により雑音が交じり、通信が困難になることも多かった。1983年(昭和58年)からは通信衛星を利用した本土とのダイヤル即時通話が始まった。しかし衛星を利用しているため音声が若干遅れる。
母島において戦後、一般加入電話は1983年(昭和58年)まで小笠原村役場母島支所、小笠原島農業協同組合母島支店(当時)、小笠原母島漁業協同組合の 3回線のみであった(東京都小笠原支庁母島出張所は行政無線、五洋建設は独自に短波帯に無線回線を持っていた)。
携帯電話は1999年(平成11年)から父島と母島の一部でNTTドコモの音声通話のみ使えるようになったが、当初はi-modeが使えなかった。FOMAは2006年(平成18年)6月8日よりFOMAプラスエリアとして父島と母島の一部地域で使えるようになり、movaでは利用出来なかったi-modeとデータ通信も含め、FOMAの全サービスを利用出来るようになった。利用可能機種はFOMAプラスエリア対応機種に限られる(iPhone 3G、3GS、4のSIMフリー版は、正式には対応していないが、FOMAプラスエリア周波数帯を受信出来るため、利用可能である)。
KDDIのauは2007年(平成19年)3月末までに父島の一部地域からサービスを開始し、EZwebも利用可能。母島は2012年(平成24年)7月よりサービスを開始した。
SoftBankは2011年9月6日に父島、2011年11月上旬には母島にて 3Gハイスピードのサービスを開始した。
※ 特記ない場合は父島・母島。
アマチュア局に対してJD1で始まる(プリフィクスという)コールサインが本諸島地域へ指定される(本土及び伊豆諸島とは別地域扱いされる)ことから、このコールサインを使用した交信を行うべくアマチュア無線の運用を目的とする旅行者も存在する。 父島にアンテナなどの設備一式を備えた宿(民宿「境浦ファミリー」)があり、貸し出してくれるため簡単に運用することが可能である。
アメリカ無線中継連盟 (ARRL) が発行するDXCCというアワードにおいては、日本は南鳥島、南鳥島以外の小笠原諸島、小笠原諸島以外の3つのエンティティに分けられている。 南鳥島については他の陸地と大きく離れており、別のエンティティとされる。 南鳥島以外の小笠原諸島は、日本本土との最短距離が177マイル で距離に関する規定の225マイル以上は満たさないが、行政上の扱いによる規定により、日本復帰時に「小笠原が本土と異なるコールサインを使う」との条件により、日本アマチュア無線連盟が郵政省に折衝し、JD1のプリフィクスのコールサインを指定することで本土とは別のカントリー(当時の呼称、1998年改称)になった。 なお、QST(ARRL機関誌)1949年3月号のカントリーリストによると日本復帰前のコールサインは米国のKG6IA-IZ(太平洋諸島信託統治領の一部)が指定されていた。 1972年の沖縄県の本土復帰にあたっては小笠原のようなコールサインの指定が行われなかったため、沖縄県は本土と同じエンティティとして扱われている(復帰前の沖縄はKR6(米軍関係)およびKR8(琉球人))。
また、電話の項に記述しているが、以前は本土との有線系電話が非常につながりにくかったことや、父島と母島間の通話が困難だったことからかなりの島民が開局していたが、有線系電話回線の改善によりその数は減少した。開局していた島民の大部分は単に日常通信手段としてアマチュア無線を使っていたためで、2014年3月31日現在、島民による島外向け運用は父島・母島(小笠原村で住民登録できるのは父島・母島のみ)あわせても一桁程度で、JD1のアマチュア局が聞こえていても、その運用のほとんどが旅行者によるものである。
日本国内向けの衛星放送(BS・CS放送)および短波放送は国内他地域と同様に視聴・聴取できる。
父島・母島では小笠原村ケーブルテレビに加入することで、東京の地上波テレビ各局の放送を光ファイバーケーブル経由で視聴することができる。一方で、諸島内での地上波テレビ放送の電波の送信は、アナログテレビ放送が停波された2011年7月24日正午以降行われていない。
1972年5月11日から村民会館で本土から送られた番組の週2回・2時間30分の公開サービスをNHKが実施した。
小笠原のテレビ放送は1976年に父島、1977年に母島で開局したケーブルテレビ局が、本土から船便で送られたNHKと民放のテレビ番組を1日数時間放送したことに始まる。この方法では生放送ができないため、共同通信が自社の船舶向けファクシミリ通信で、小笠原向けにニュースの配信を行っていた。
1984年にはNHK-BS(衛星テレビ放送)の実用化放送が開始された。父島・母島には衛星波を受信して地上波として再送信するテレビ中継局が1つずつ設置され、NHK-BSのみではあるものの初めて本土と同時刻に同番組が視聴できるようになった。なお開始当初のNHK-BSは国内各地の難視聴地域向け放送として、一部番組を除いて地上波のNHK総合・教育テレビの番組が編成されていた。
1996年からは東京都による「難視聴対策用衛星中継回線」の運用が始まった。
これは東京タワーから発射されるNHKや民放のテレビ放送を江東区青海にあるテレコムセンターにて受信し、そこでデジタル圧縮・信号のスクランブル化・SHF波(Ku-band 14GHz帯)への変換を行った上で、電波を通信衛星JCSAT-3号に送信(アップリンク)し、衛星において周波数をCバンド(4GHz帯)に変換して父島と母島にある地上局へ向けて受信(ダウンリンク)、両地上局にてスクランブルを解読(デスクランブル)し、上表のUHF波に変換した上で、送信所(既設の父島・母島両中継局)からUHF波として再送信するというものであった。さらに一部の地区では共聴受信により、東京タワー本局とほぼ同じチャンネル配置になるようチャンネル変更も行っていた(ただしTBS 4ch、TOKYO MX 5ch、日本テレビ 6chとなっていた。NHK-BSは上表と同じ)。
スクランブル化とデジタル圧縮を施していた理由は、小笠原地域以外(本土や近隣諸国など)で衛星回線の電波を傍受され、放送を視聴されるのを防ぐためであった。スクランブル方式は「小笠原向け方式」と云われる独自の方式で、解読するデコーダーは一般では入手出来なかった。また衛星回線の使用には年額4億円もの莫大な費用がかかり、この放送の視聴のために島民から毎月3,000円を「テレビ放送受信費」として徴収し、NHKや在京民放各社も費用を出していた。にもかかわらず、マイクロ波を使用した衛星回線は天候変化に弱く、大雨などの際には受信障害が発生していた。なお、沖縄県の大東諸島でも小笠原向けの衛星中継回線が活用されテレビの視聴が可能となったが、天気予報等は全て東京向けのものがそのまま流され、沖縄県には系列局の存在しない日本テレビ・テレビ東京は視聴できないようになっていた。
従来の地上テレビ放送(アナログテレビ放送)は2011年7月に終了することが決定していたが、その後の小笠原諸島における地上デジタルテレビ放送の受信については、衛星回線経由と海底光ファイバーケーブル経由の両案が検討されていた。最終的にはインターネットなどの通信事業と併せて、都が主体となって情報基盤整備を行うこととなり、小笠原向けの地上デジタル放送の伝送は「統合情報基盤光ケーブル」と称される海底ケーブル経由で行われることとなった。当時の報道によると、2009年内に業者選定および工事発注を行い、2011年7月の地上アナログ放送終了までには整備を終わらせる予定と報じられた。
統合情報基盤光ケーブルでの放送送信は、まず八丈島にある八丈中継局を同島内で受信し、そこから父島・母島に向けて海底ケーブルで伝送する方式で、父島・母島内での伝送には、莫大な予算費用と工事期間を要するデジタル中継局の新設ではなく、既設の小笠原村営光ファイバーケーブルが利用された。
なおその整備に先駆け、2010年3月からは地デジ難視対策衛星放送(BSセーフティーネット/標準画質放送)が本放送を開始し、小笠原村はその対象地域に含まれることとなった。それに伴って同年6月30日、旧来の衛星回線によるアナログテレビ放送の送信が終了した。ただし父島・母島の両テレビ中継局は、NHK-BSの2波、およびBSセーフティーネット放送の対象外であったTOKYO MXの計3波を送出する地上アナログテレビ中継局として存続した。
2011年5月18日、小笠原村ケーブルテレビによる在京各局の地上デジタル放送(ハイビジョン画質)の試験放送が開始され、村はBSセーフティーネット放送の対象地域から外れた。同年7月24日には地上アナログテレビ放送終了日をもって父島・母島両中継局も廃局となり、後述の通りラジオ中継局として転用された。
以上の経緯により、現在小笠原諸島内では地上デジタルテレビ放送の電波を送信する中継局はない。
2013年3月31日、父島・母島それぞれにNHKラジオ第1・第2・FM放送の3波すべての中継局が設置された。これは2011年までアナログテレビ放送を送信していた中継局を転用したものである。外国波による混信対策のため、中波のNHKラジオ第1・第2も含めFM波での送信である。他のラジオ局の中継局は設置されていない。
なおインターネット環境があれば、インターネットラジオ「radiko」および「NHKネットラジオ らじる★らじる」は23区・多摩地域と同様のサービスが利用できる。
小笠原諸島には長らくラジオ中継局が存在しなかったため、超短波(FM)放送は異常伝播時以外は全く聴くことができず、中波放送(AM)も一部地域を除き電離層に反射して届く夜間に限り聴くことが出来る程度であった。日中に直接受信で聴取可能だった放送は短波放送(ラジオたんぱ=現・ラジオNIKKEIや、NHKワールド・ラジオ日本の国外向け日本語放送など)に限られ、1990年代以降は放送衛星によるCSラジオ・BSデジタルラジオが加わったものの、在京ラジオ各局の安定的な聴取は2010年のradiko試験運用開始(ただし村内の高速インターネット回線整備は2011年)、および2013年のNHKラジオ中継局設置まで待たなければならなかった。
父島と母島にそれぞれ村営診療所があり医師と歯科医師がそれぞれ常駐している。問診のみならず、一般的な血液検査機器(自動血球計算器、自動生化学測定器など)および、超音波画像診断装置、上部消化管内視鏡、単純X線撮影装置、X線透視装置、ヘリカルスキャンCT装置が両島に配備されている。これは特に母島診療所においてこの規模の離島としては国内に類を見ない設備である。これを補完するために専門医による診療は定期的巡回診療の際に行われる。
診療所で対応困難な急病人が発生した場合は村役場からの連絡を受け、東京都知事が海上自衛隊に出動要請を行って海上自衛隊機で搬送することになる(後述)。
本土から小笠原諸島へは非常にアクセスしにくいため、島内で急を要する重病が発生した場合は自衛隊や海上保安庁による搬送が行われる。海上自衛隊硫黄島航空基地所在の救難ヘリコプターにより一旦硫黄島へ向かい、硫黄島から自衛隊や海上保安庁の航空機によって本土に搬送される方法、または海上自衛隊岩国基地所在の第31航空群第71航空隊が海上自衛隊厚木基地に常時1機待機させている救難飛行艇で本土へ搬送する方法があったが、現在は厚木への前進待機が中止されている為、全て硫黄島経由で搬送されている。以前は小笠原のヘリポートに夜間照明が設置されていなかったため「夜間に発病すると手遅れ」とも言われていたが、現在は夜間でも搬送ができる。
父島と母島以外の島行の公共交通機関又はそれに準ずる一般客向け輸送機関は存在しない。また、父島や母島へ行く場合も交通手段はおがさわら丸、ははじま丸のみ。
父島には小笠原村営バスが運行されている(東京都シルバーパス使用可)。他には観光タクシー、レンタカー、レンタルスクーター、レンタサイクルがある。諸島外から自家用車やバイクを持ち込む場合は貨物扱いとなり、125cc以下のバイクはチッキ(受託手荷物)扱いとなる。
母島には定期公共交通機関がない。レンタカー、レンタルスクーターがある。レンタカー、レンタルスクーターの取り扱い店は共に1軒であり、それぞれ保有台数は少ない。予約をしておらず、当日朝の先着順で貸し出しを行っている。その他、島内各地へは有償運送(乗合タクシー)を行っている。母島発遊覧・遊漁船が運行している。
空港のない父島列島には、以前から空港建設・民間航空路線開設の要望がある。一般のアクセスは船に限られ、東京都心からブラジル・サンパウロに飛行機で行くよりも時間がかかる。かつて父島には、洲崎地区に大日本帝国海軍の飛行場があったが、戦後はヘリポートのみで、固定翼の陸上機が発着できる場所がない。
海上自衛隊父島基地には、飛行艇用の揚陸スロープが設置されており、岩国基地所属の飛行艇が飛来するが、急病人および東京都知事や国務大臣など要人の搬送を目的とする場合に限られている。1994年2月の小笠原行幸啓では、US-1が使用された。
下記の都議会予算特別委員会などで、今までに父島洲崎(1,000m級滑走路)、兄島(1,600m級滑走路)、父島時雨山(しぐれやま)を予定地とする空港建設がそれぞれ検討された。兄島候補地では、父島との交通手段を確保する必要があるなどの困難を伴い、貴重な動植物の保護の必要があることから、空港建設のめどは立っていない。羽田空港からの民間飛行艇による運航や、硫黄島航空基地を経由した大型ヘリコプターによる運航、同じく硫黄島から船便での運航など、空港を父島列島に建設しなくてすむ方法も検討されているが、結論は出ていない。
古くからの住民の多くは簡単に往来できる空港建設を熱望している一方で、小笠原の自然に惚れ込んで移住した新住民の多くは「秘境らしさ」を残したいため、空港建設に消極的であるなど、島民の意見もまとまっていないといわれる。また世界遺産登録後は、環境悪化に対する懸念も浮上している。
2005年、東京都知事石原慎太郎はテクノスーパーライナーの就航断念を受け、空港が「地域振興に極めて必要である」として、環境に配慮しながらも最低限の第三種空港を建設する意欲を明らかにした。その方法として、羽田空港D滑走路建設で検討されながらも採用されなかった「メガフロート」と地上滑走路の併用を考えていることを明らかにした。2006年3月15日の東京都議会予算特別委員会で石原都知事は「(かつて日本軍が建設した飛行場があった)父島洲崎地区を(空港として)利用したい」旨、表明した。
東京都では2008年以降小笠原諸島における本土との間の航空路開設についての検討を進めるにあたり、 関係者間の円滑な合意形成を図ることを目的として、小笠原航空路協議会を設置している。
2018年1月5日、小池百合子都知事が定例記者会見において、平成30年度予算案に小笠原諸島における空港建設のための調査費を計上した。滑走路は1,000m以下を想定しているとの報道がある。
日本航空のグループ会社の日本エアコミューターなどが使用するATR 42 などの中型ターボプロップ機は、航続距離1,560km前後ながら1,200m級滑走路での運用が可能で、40名前後の旅客型の他にコンビ機(旅客と貨物兼用)の設定も可能である。2018年7月開催の第7回小笠原航空路協議会では、STOL性能を向上させ800mの滑走路に対応し開発中のATR 42-600Sが候補とされた 。しかし、2020年7月開催された第9回、同協議会以降、ATRの親会社レオナルド S.p.A傘下アグスタウェストランドが開発中のティルトローター機であるAW609も候補となり、競合する可能性が出てきている。
2022年度においても、東京都は、小笠原諸島と本土を結ぶ航空路について約5億円の調査費を計上し調査を行ったが、環境面への配慮や航空機の選定に時間を要することから、2022年11月25日現在、航空路線開設の見通しは立っていない。
※ 海上保安庁南鳥島ロランC局は、2009年(平成21年)12月をもって運用を終了している。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou