浅田 真央(あさだ まお、ラテン文字:Mao Asada、1990年9月25日 - )は、2000年代から2010年代にかけて活躍した日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)。中京大学体育学部卒業。マネジメントはヒーローズマネジメント株式会社。
主な競技成績は、2010年バンクーバーオリンピック銀メダル、2014年ソチオリンピック6位入賞、2008年・2010年・2014年世界選手権優勝、グランプリファイナル優勝4回、四大陸選手権優勝3回、全日本選手権優勝6回など。
シングルの選手で男女を通じ史上初めてファイナルを含むグランプリシリーズ全7大会を制覇。2010年バンクーバーオリンピックでは、女子シングル史上初めて、1つの競技会中に3度の3回転アクセルを成功させた。
姉は元フィギュアスケート選手・タレントの浅田舞。
愛知県名古屋市生まれ。名古屋市立高針小学校、名古屋市立高針台中学校、中京大学附属中京高等学校(84回生)、中京大学体育学部体育学科卒業。血液型はB型。名前の真央は、父親が女優の大地真央のファンであったことに由来する。浅田の2005年グランプリファイナル優勝と荒川静香の2006年トリノオリンピック優勝の相乗効果で、日本はフィギュアスケート・ブームになった。
尊敬しているフィギュアスケート選手は伊藤みどり、エフゲニー・プルシェンコ。伊藤の衣装を着用して競技に臨んだこともあり、「みどりさんの衣装を着るといつも調子がいい」と語っていた。1998年長野オリンピック金メダリストのタラ・リピンスキーにも憧れの言葉を寄せており、彼女の演技を見て自分もオリンピックに出たいと思うようになったという。趣味はジグソーパズルとレゴ制作。現役時代、練習中や試合前によく聴いていた曲はDREAMS COME TRUEの『何度でも』。2005年世界ジュニア選手権で優勝した時からトイ・プードルを飼いだした。愛犬の「エアロ」は、ネスレのチョコレート菓子「エアロ」に由来しており、同製品のイメージキャラにも選ばれた。
オリコンによる「好きなスポーツ選手ランキング」の女性部門において、2007年、2009年、2010年、2011年 2013年 、2014年で1位 となった。バンダイが行ったアンケート「バンダイこどもアンケートレポート」によると、子供が好きなスポーツ選手として、2009年7月(集計は5月に実施)では総合2位・女の子部門1位、2011年9月(集計は7月に実施)では総合1位 に挙げられている。
2020年7月22日に放送された『水曜日のダウンタウン』の「古今東西 日本人知名度ランキング」では、第27位(86.3%)にランクインした。これは女性スポーツ関係者ではトップで、スポーツ関係者全体でも3位である。
1990年9月25日、愛知県名古屋市で誕生。若い頃にバレエダンサーを目指していたというバレエ好きの母の影響で、3歳からクラシックバレエを始める。その後12歳まで越智久美子によるバレエのレッスンを受けていたほか、ジャズダンスや器械体操、英会話など、多くの習い事を経験した。5歳の時、姉の舞とともにスケートリンクに遊びに行き、スケートに出会う。その後、舞とともに門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会し、スケートに取り組んだ。浅田の母はスケートに関しては素人だったが、トレーニングの本を購入し、1998年長野オリンピックを制したタラ・リピンスキーの演技を映像で見て夜中まで研究するなど、浅田を献身的にサポートした。小学3年生になった1999–2000シーズンには全日本ノービス選手権Bクラス(10歳まで出場可能)に8歳で初出場し、6位入賞。次年度の同大会では優勝を果たした。
小学5年生になった2001–2002シーズンからグランプリ東海クラブに移籍し、山田満知子・樋口美穂子両コーチに師事。全日本ノービス選手権Bクラスでは2連覇を果たし、2階級上となる全日本ジュニア選手権では6位に入賞した。2002–2003シーズン、全日本ノービス選手権Aクラスで優勝、全日本ジュニア選手権では4位に入る。小学6年生にして特例で出場したシニアの全日本選手権では、不完全ながら3回転-3回転-3回転のコンビネーションジャンプ(3回転フリップ-3回転ループ-3回転トウループ)を跳び、7位入賞を果たす。この試合がきっかけとなり、マスメディアには「天才少女」と呼ばれるようになった。2003–2004シーズンには全日本ノービス選手権Aクラスで2連覇、全日本ジュニア選手権4位、全日本選手権8位の成績を収めた。
2004–2005シーズン、ジュニアグランプリシリーズで2戦連続優勝を果たし、ジュニア国際デビューを飾った。ジュニアグランプリファイナルでは、国際大会女子シングル史上5人目、ジュニア女子では史上初となる3回転アクセルを成功させ、優勝を果たした。国内では全日本ジュニア選手権で初優勝し、シニアの全日本選手権でも3回転アクセルを跳んで2位となった。2005年世界ジュニア選手権では大会史上初めて3回転アクセルを成功させ、初出場にして初優勝を果たした。
2005–2006シーズン、シニアのグランプリシリーズに初参戦。初戦の中国杯では世界女王のイリーナ・スルツカヤに次ぐ2位、エリック・ボンパール杯ではサーシャ・コーエンを破ってシリーズ初優勝を果たした。グランプリファイナルではスルツカヤを破り、日本選手として村主章枝以来2人目の優勝を果たした。全日本選手権では非公認ながら女子シングル史上初となる2度の3回転アクセルを成功させ2位となる。グランプリシリーズの実績から2006年トリノオリンピック出場を期待する声もあったが、国際スケート連盟の定めた「五輪前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りず、代表資格を得られなかった。連覇が期待された2006年世界ジュニア選手権は、ジャンプのミスが響き2位に終わった。
2006年夏、コーチをラファエル・アルトゥニアンに変更し、米国カリフォルニア州レイクアローヘッドに拠点を移す。2006–2007シーズンが開幕すると、NHK杯で総合得点199.52点の歴代最高得点を叩き出して優勝。グランプリファイナルは、フリーのジャンプで2度転倒して2位に終わった。地元名古屋開催の全日本選手権では、大会直前に右手小指を骨折しながらも初優勝。東京開催の2007年世界選手権ではショートプログラムで5位と出遅れたが、フリーで当時の歴代最高得点を出して巻き返し、銀メダルを獲得した。
2007年夏はロシアに渡り、タチアナ・タラソワの下でバレエなどに取り組んで表現力や芸術性の強化をはかった。2007–2008シーズンのグランプリシリーズは2戦とも優勝し、3季連続出場のグランプリファイナルではショートプログラム6位から巻き返して2位となった。全日本選手権では、ショートプログラムでシーズン初の3回転フリップ-3回転ループを成功させ、2連覇を達成した。同年12月、慣れない海外生活での心労 や、5月に中京大学のフィギュア専用リンクが完成し、国内で練習に専念できる環境が整ったことを理由に、練習拠点を米国から愛知に戻す。アルトゥニアンは定期的に来日することになっていたが、四大陸選手権の直前に電話で「責任を持てない」と伝えられたため、師弟関係を解消した。2008年四大陸選手権では初出場で初優勝を果たした。しかし、大会後に左足首を傷めてしまい、世界選手権はコーチ不在のうえ足首の怪我が完治していない状況下で臨むこととなった。2008年世界選手権では、フリー冒頭の3回転アクセルを踏み切ろうとした瞬間に大きく転倒したものの、その後は落ち着いて演技をまとめた。結果、ショートプログラム2位から逆転優勝を果たし、日本人選手5人目の世界女王となった。
2008–2009シーズンからはタチアナ・タラソワに師事。苦手なルッツやサルコウをプログラムに入れること、フリーで2度の3回転アクセルを跳ぶこと、フリーの『仮面舞踏会』でこれまでとは違う傾向のプログラムを滑ること、と多くの課題に挑戦した。シーズン2戦目、NHK杯のフリーで2度の3回転アクセルに挑戦し、2度目が回転不足判定となったものの、他の出場選手に大差をつけて優勝した。キム・ヨナの地元韓国で開催されたグランプリファイナルのフリーでは、国際大会では女子史上初となる2度の3回転アクセルに成功し、3季ぶり2度目の優勝を果たした。全日本選手権では3連覇を達成。2009年世界選手権では、ショートプログラムで3回転フリップ-3回転ループが認定される一方、3回転ルッツが2回転となるミス。フリーは再び2度の3回転アクセルに挑んだが、2本目で転倒し総合4位となり、シニア国際大会では初めて表彰台を逃した。2009年国別対抗戦はショートプログラムで3回転アクセルのコンビネーションに成功、フリーでは2度の3回転アクセルに挑戦し(2度目が回転不足判定)、キム・ヨナに次いで女子史上2人目となる200点超えの総合得点を記録した。このシーズンはジャンプの回転不足が厳しく判定される傾向にあったため、3回転-3回転が成功と見なされないことが多く苦心した。グランプリファイナルの優勝後に、視聴者に「浅田選手よりもキム選手のほうが実力が上」と感じさせる報道をした日本のマスコミ(フジテレビ系番組『情報プレゼンター とくダネ!』、後に不適切な表現であったと謝罪)の評価があることを聞いて落ち込み、一時期は練習の意欲を失った。世界選手権連覇の重圧に苦しむなど、メンタルコントロールの難しさも課題となった。
2009–2010シーズンはルッツ、サルコウ、3回転-3回転のコンビネーションジャンプをプログラムに入れず、ショートプログラム・フリーで計3度の3回転アクセルを決めることに集中する構成を組んだ。しかし、グランプリシリーズでは3回転アクセルが6回中1回しか成功せず、エリック・ボンパール杯は2位、ロステレコム杯は5位に終わった。シニア移行後初めてグランプリファイナル進出を逃すほどの不調に、国内外のスケート関係者からは「フリープログラムの『鐘』が合っていない。もっと浅田に合った滑りやすいプログラムに変えるべきではないか。」との意見も聞かれた。全日本選手権では復調を見せ、4連覇を達成してオリンピック代表に決定。韓国で開催された四大陸選手権では、フリーで2度の3回転アクセルを成功させ優勝した。
バンクーバーオリンピックでは、オリンピックの女子としては初となるショートプログラムでの3回転アクセルに成功し、2位につける。フリーでも2度の3回転アクセルを成功させ、1つの競技会中に3度の3回転アクセルを成功させた初の女子選手となった。フリー後半には3回転フリップと3回転トウループでミスが出たものの、合計205.50点で自己ベストを更新し、銀メダルを獲得。浅田は伊藤みどり・荒川静香に次ぐ日本女子史上3人目のオリンピックメダリストとなった。試合後にはフリーでのミスに対し「悔しい」と涙を流したが、その夜、母から「銀メダルって凄いんだよ」という言葉をかけてもらったことで結果を受け入れることができたという。3月の世界選手権では2年ぶり2度目の世界女王に輝き、男子の髙橋大輔とともに日本フィギュアスケート史上初のアベック優勝を果たした。
2010–2011シーズンは6月から9月頃まで長久保裕をジャンプ専門のコーチにつけ6種類全てのジャンプの矯正に取り組む。9月から佐藤信夫コーチに師事し、ジャンプの矯正も続けた。グランプリシリーズのNHK杯、エリック・ボンバール杯では新しく変えたジャンプに苦しみ、2大会とも表彰台に登れずグランプリファイナル進出を逃した。1か月後の全日本選手権では復調し、ショートプログラム1位、フリー2位で安藤美姫に次ぐ総合2位となる。四大陸選手権ではショートプログラムで冒頭の3回転アクセルが着氷に乱れたもののフリーでは成功させ、シーズンベストを大幅に更新し、安藤に次いで2位となった。連覇のかかった世界選手権は東日本大震災の影響により1か月先に延期、その間に被災地の惨状を目の当たりにし、「こんな時に大会に行ってもいいのだろうか?」と練習に身が入らなくなった。みかねた佐藤コーチから1週間の休養を与えられたが、重要な時期に食が細くなり、いつもより体重が4、5kg減少した。大会本番では佐藤コーチから3回転アクセル回避を提言されたが、浅田は自分の信念を貫き通した。結果はショート7位、フリー6位の総合6位に終わった。
2011–2012シーズンはグランプリシリーズ初戦のNHK杯で2位、ロステレコム杯では日本選手最多となるグランプリシリーズ8度目の優勝を果たし、3季ぶりにグランプリファイナル進出を決めた。だが、カナダでのグランプリファイナル開幕直前、以前から体調不良だった母親の健康状態が悪化したとの連絡を受けて帰国し、ファイナルを欠場した。その後、母は肝硬変のため死去(48歳没)。浅田はその死の際に間に合わなかった。母親の葬儀翌日の12月13日から練習を再開し短期間の調整で臨んだ全日本選手権では、2年ぶり5度目の優勝を果たした。四大陸選手権ではショートプログラム、フリーともに同シーズン中封印していた3回転アクセルに挑戦したが、どちらも回転不足と判定された。ショートプログラムではトップに立ったものの、フリーではルッツやサルコウなどのミスも響き2位となった(ただし総合点ではシーズンベストを更新した)。世界選手権ではショートプログラム・フリーともに3回転アクセルを含むジャンプのミスが重なり、2年連続の総合6位に留まった。
シーズン終了後にはスケートへの意欲を失い、辞めることも考えたという。その後、トロントとモスクワでの振付作業や、ハンガリーでのバレエレッスンなどを通してスケートへの気持ちが戻り、7月ごろから本格的に練習を再開した。9月中旬から11月中旬までは、かつて師事した越智久美子のもとでバレエのレッスンを受けた。
2012–2013シーズンは中国杯、NHK杯とグランプリシリーズで連勝、だがNHK杯後に疲労から発症した腰痛が悪化してしまう。腰痛が完治していない状況下で臨んだグランプリファイナルでは4年ぶり3度目の優勝を果たした。全日本選手権でも2度目の2連覇と6度目の優勝を果たし、世界選手権と四大陸選手権の代表に選出された。四大陸選手権では、ショートプログラムで冒頭の3回転アクセルを成功させ、バンクーバーオリンピックでマークした自己ベストに迫る総合205.45点で3年ぶり3度目の優勝を飾った。世界選手権はショートプログラムで6位と出遅れたが、フリーでは自己ベストを6年ぶりに更新し2位、総合3位で3年ぶりの表彰台に立った。このシーズンは出場した国際大会と全日本選手権を合わせた6戦中5勝を挙げ、復活を印象づけた。
2013年4月、浅田はソチオリンピックを自身のキャリアの集大成とすることを明言し、マスメディアはこれを引退宣言と報じた。2013–2014シーズン、グランプリシリーズ初戦のスケートアメリカで優勝し、これにより浅田はファイナルを含むグランプリシリーズ全7大会を制覇した。これはシングルの選手では史上初、全体でもペアの申雪/趙宏博組に次ぐ2組目の快挙となった。続くNHK杯ではフリーと合計得点で自己ベストを更新し、207.59点で優勝を果たした。12月のグランプリファイナルを前に、フリーで2度の3回転アクセルに挑戦することを明言した。グランプリファイナルではショートプログラムで3回転アクセルを着氷させ、回転不足と判定されたものの首位発進。フリーでは3回転アクセルを2本とも失敗したものの、合計204.02点で優勝を果たした。グランプリファイナル前に再発した腰痛の影響もあり、全日本選手権では総合3位に沈んだ。2014年1月、浅田はフリーの3回転アクセルを1本に変更し、オリンピックでは6種類の3回転ジャンプを8本入れる構成で臨むことを決意した。
2月に行われたソチオリンピックでは団体戦のショートプログラムに出場し、冒頭の3回転アクセルで転倒し3位となる。個人戦のショートプログラムでも冒頭の3回転アクセルで転倒したほか、ショートプログラムの必須要素であるコンビネーションジャンプが入らないなど痛恨のミスを犯し、16位と大きく出遅れてしまう。演技後のインタビューでは「何も分からない」と放心状態になった。しかし、翌日のフリーでは冒頭の3回転アクセルに成功し、全6種類計8度の3回転ジャンプを全て着氷する会心の演技を見せ、自己ベストの142.71点をマークした。演技を終えた浅田は涙を浮かべ、その後は笑顔で歓声に応えた。結果はフリー3位、総合6位入賞とメダルを逃したものの、バンクーバーオリンピックに続く2大会連続の3回転アクセル成功は女子シングル史上初の快挙となった。帰国後の記者会見では引退の可能性について「今のところハーフハーフ(半々)ぐらい」と語り、進退に関する明言を避けた。
3月にさいたま市で行われた世界選手権では、ショートプログラムで完璧な演技を披露し、歴代最高得点の78.66点で首位に立った。フリーでも首位を守り、合計では自己ベストを上回る216.69点をマークし、4年ぶり3度目の世界女王に輝いた。3度の世界選手権制覇は日本選手では初の快挙となった。2014年5月19日、記者会見にて1年間の競技生活休養を発表し、今後の去就については休養期間中にゆっくり考える予定であると語った。
2015年5月18日、公式ブログにおいて、現役続行の意思を明らかにした。2015–2016シーズン、2015年ジャパンオープンで競技復帰し、141.70点という高得点をマークして女子1位となる。グランプリシリーズ復帰戦となる中国杯を優勝で飾り、NHK杯では3位となりグランプリファイナルに進出するも、グランプリファイナルでの出来はショートプログラムで3位、フリーで6位と芳しくなく総合では最下位の6位に留まった。フリー当日は体調を崩しており、フリー演技後に医師の診察を受けた結果「胃腸炎」と診断され、出場が予定されていたエキシビジョンをキャンセルし緊急帰国した。全日本選手権ではショートプログラムで5位と出遅れるも、フリーで苦手の3回転ルッツをクリーンに成功させ3位となり、伊藤みどりに並ぶ11個目のメダルを獲得した。四大陸選手権と世界選手権の代表に選出されたが、世界選手権に集中するために、四大陸選手権は辞退した。2季ぶりの出場となった世界選手権では、シーズンベストを記録し7位に入った。
2016–2017シーズン、グランプリシリーズのスケートアメリカで6位、フランス杯では9位と不振続きで、3回転アクセルの解禁も全日本選手権まで遅れた。全日本選手権では3回転アクセルを解禁して臨んだが、ショートプログラムでは1回転となり8位と出遅れ、フリーでは転倒。その後3回転ルッツを成功させるものの、その他ではミスが目立って12位となり世界選手権代表を逃した。
2017年4月10日夜、競技選手としての現役引退をブログで表明し、同12日に東京プリンスホテルで引退会見を開いた。
プロスケーターとしての1歩として、アマチュア時代の2007年夏から毎年開催出演するアイスショー「THE ICE」の大阪公演(7月29日 - 7月31日、大阪市中央体育館)および愛知公演(8月4日 - 8月6日、愛知県体育館)に出演した。またCMなどタレントとしても活動している。2018年5月からは「全国に感謝を届ける」というコンセプトのアイスショー「浅田真央サンクスツアー」を開催。2021年4月まで全国各地を回り、全202公演を滑り切った。2022年9月からは「過去を超えて進化する」というコンセプトのアイスショー「BEYOND」を開催し、2023年7月まで全国23か所で全103公演を行った。
2023年3月28日、国際規格のスケートリンクと千人規模の観客席を備えた施設「MAO RINK」を2024年秋にも東京都立川市に開設する計画を立飛ホールディングス(立飛HD)とともに発表した。多摩都市モノレール線立飛駅近くの敷地約9000平方メートルを立飛HDが提供して総工費数十億円の大半も負担し、スケート競技やアイスショーだけでなくスケート教室も開催できるほか、浅田の衣装などの展示も予定している。
アクセルやループを得意とし、当時の女子としては希少な3回転アクセルを含む6種類全ての3回転ジャンプを跳ぶことができる選手であった。小学生のうちから3回転アクセルの練習を始め、2003年の中部ブロック大会(ノービスA)で3回転アクセル-2回転トウループのコンビネーションジャンプに成功。
2006年世界ジュニア選手権でショートプログラムに3回転アクセルを取り入れ、2008年グランプリファイナルのフリースケーティング(フリー)で女子シングル史上初の2度の3回転アクセルに成功。2010年バンクーバーオリンピックでは、オリンピックの女子シングル史上初めてショートプログラムで3回転アクセルを成功させた。同一競技会でショートプログラム、フリーと合わせて3度の3回転アクセルを成功させたのも女子シングル史上初であり、ギネス世界記録に認定されている。
一方でルッツやサルコウを苦手としており、プログラムに取り入れていなかった時期があった。特にルッツではインサイドエッジから踏み切る癖があり、2007–2008シーズンのルール改定でエッジ判定が厳格になってからは踏切違反を取られることが多かった。
コンビネーションジャンプはセカンド、サードジャンプに得意なループを用いることが多い。中でも3回転フリップ(または3回転ループ)-2回転ループや3回転フリップ(または3回転ループ)-2回転ループ-2回転ループの3連続ジャンプを多く取り入れていた。トウループを用いたコンビネーションでは2回転アクセル-3回転トウループ、3回転アクセル-2回転トウループを取り入れていた。3回転フリップ-3回転トウループも2008年世界選手権のフリーで成功させているが、以降はプログラムに入れていない。
かつては3回転フリップ-3回転ループを積極的に取り入れており、数々の試合で成功させていたが2008–2009シーズンからセカンドジャンプで回転不足を取られることが多くなり、2009年世界選手権ショートプログラムでの成功を最後にプログラムから外すようになった。2013年四大陸選手権から再び取り入れるようになり、中々完璧な成功とはならなかったが、2015年NHK杯ショートプログラムで久々に成功と認定された。
しなやかさと力強さを兼ね備え、現行採点では評価のウエイトが大きい柔軟性を生かしたスピンやステップ、スパイラル(現在のルールでは技術要素から外されている)を行うことができ、高いGOEを獲得することができる。片手ビールマンスピンを行うこともできるがレベル認定の規定の2回転を行う前に体勢が崩れてしまい、レベルを取りこぼすことも多く2007年世界選手権以来しばらくプログラムに取り入れていなかったが、2009年エリック・ボンパール杯からフリーで用いている。ストレートラインステップシークエンスのレベル4を2007年の日米対抗戦のショートプログラムで、またサーキュラーステップシークエンスのレベル4を2009年世界国別対抗戦のショートプログラムで獲得している(2011–2012シーズンからステップのレベル取得の要件が緩和されたが、それ以前にレベル4を獲得していたのはカロリーナ・コストナー、レイチェル・フラット、鈴木明子、浅田の4人のみ)。
海外の興行会社による日本公演
日本の興行会社による国内公演
海外の興行会社による海外公演
バラエティー番組のゲスト出演等は除く。
2012年2月8日に発売予定であったエッセー『大丈夫、きっと明日はできる』(浅田真央著 佐藤雅美著)が浅田の意向により発売中止となった。予定されていたエッセーは209ページにわたり、2010年のバンクーバー五輪で銀メダルを獲得した以降の生活などを綴ったもので、書店からは10万部以上の予約が入っていたという。
ところが、浅田は2011年12月に母を亡くした事を踏まえ、自身のウェブサイトで「本の宣伝、告知について、私の思いと異なるもので進められたところがあり、出版を中止させていただくことになりました」と報告している。発売を予定していたポプラ社の広報では、宣伝告知ポスターに浅田の写真と『ママ、ほんとうにありがとう』という母の死を強調する様なメッセージが添えられていた事が問題だったのでは無いかと言う見解を示した。また浅田のマネジメント会社では、浅田が出版社側の宣伝方法に不信感を抱き、年明けには出版中止の意向を固めたとの説明をしている。
これについて出版社であるポプラ社のウェブサイトでは、「この本は約1年以上前から企画していたもの」と前置きした上で「一部宣伝方法に著者ご本人の意にそぐわない部分がございましたので、誠に勝手ながら発売を中止させていただきたいと思います。」と読者に向けて謝罪文を公表した。尚、ポプラ社の広報では、出版中止に伴う損害賠償については、その意向を否定し「今後も真央さんのご活躍を心から願っています」と表明している。
またNEWSポストセブンでは、母を亡くした直後にポプラ社へ発売延期を申し入れたが断られた事、その3週間後に「真央ならできる!」と、本文から遺言の如く引用した広告を出した事に対し、「ママの死を売り物にするようなことは絶対にやめてほしい」と関係者に洩らしていた事、そして追い討ちの如く「ママ、ほんとうにありがとう。何度、ありがとうと言っても足りません」と、本の引用ではない宣伝用の言葉が用いられた事の3つの要因による決断であるとの、フィギュア関係者の見解を紹介した。
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