野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。
1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。
1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。攘夷を唱え勤王志士として国事に奔走。四境戦争では当初、藩主側近として働き、小倉城陥落後は九州方面の軍監を命ぜられ参謀 前原彦太郎(後の前原一誠)とともに講和談判などの戦後処理にあたった。
1868年(明治元年)に山口藩参政 兼 公議人 兼 軍政主事となり、翌年には権大参事となる。1871年(明治4年)官命によりヨーロッパ諸国を視察する。翌年3月に帰国すると茨城県令、文部大丞、学務局長、大督学、文部大書記官、元老院大書記官を歴任し、1881年(明治14年)11月には元老院議官となる。さらに博物局長兼務、亜細亜大博覧会組織取調委員、内国勧業博覧会委員、同評議員などを命ぜられる。
1890年(明治23年)に貴族院が発足すると同年9月29日に勅選議員に任命され、同年10月20日、錦鶏間祗候となる。1900年(明治33年)にはこれまでの功績を認められ男爵を叙爵。
1927年(昭和2年)12月23日に東京上大崎長者丸の自宅にて没。享年86。勲一等旭日大綬章を授与される。
晩年は素軒の号で書家として活躍。日本書道会幹事長、書道奨励会会頭、選書奨励会審査長などを務めた。
行書を得意とし各地に筆跡が残されている。石碑も多くを手がけ、京都霊山護国神社の木戸公神道碑、上宇野令香園の毛利公神道碑といった勅撰碑のほか、全国で40基ほどを確認できる。
同じ長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人に数える文献もあるが「明治の三筆」と言えば日下部鳴鶴・中林梧竹・巖谷一六の3人を数えるのが一般的。
プッチーニが「蝶々夫人」のオペラを制作する際に、日本の事情や民謡に関して助言した、当時の在イタリア日本公使大山綱介夫人大山久子は野村素介の娘。久子は夫の死後、聖母の園養老院火災にて悲劇的な最後を遂げた。
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