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李埈鎔


李埈鎔


李 埈鎔(イ・ジュニョン(朝鮮語読み)、り しゅんよう(日本語読み)、1870年6月25日 - 1917年3月22日)は、李氏朝鮮末期の王族、大韓帝国の皇族。李王家の一族で、日本の公族。

父は大韓帝国皇帝高宗の兄の李載冕(完興君・李熹公)。母は洪氏。興宣大院君の嫡長孫。純宗・李王垠・李堈公の従兄弟。養子に李鍝(李堈の次男)。字は景極、号は石庭、松亭。日本での名は。李埈公。

経歴

高宗と閔妃と対立していた祖父の興宣大院君により、高宗の代わりの国王に意図されたが、活動はいずれも成功しなかった。

1895年5月、親日派内閣大臣の暗殺を陰謀したという罪で捕まり、特別裁判所で死刑判決を受けた。しかし、大院君の嘆願により、国王の特赦で流刑に減刑され、その年8月特赦で釈放された。

1896年、乙未事変直後日本に留学した。出国した後帰国が許されなくなり、日本に滞留してから1897年日本を出てヨーロッパ各地を視察。1899年以後にはまた日本に戻り千葉県に閑居した。

1907年高宗に代わり純宗が即位すると、朝鮮に帰国して「永宣君」に封ぜられ、雲峴宮に住んだ。また陸軍参将となり、勲一等太極章ついで大勲李花大綬章を授与された。

1912年に父が死去すると、公位を継いで「李埈公」と称された。

1917年3月22日、死去。跡継ぎの男子がなかったため、5月25日、従弟の李堈の次男の李鍝が養子となり、公位を継いだ。なお、側妾の全順爀との間に娘の李辰琬(尹致昭の六男尹源善と結婚)がいた。

死後は親日反民族行為者に認定された。

栄典

  • 1908年(明治41年)9月23日 - 大勲位瑞星大綬章
  • 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章
  • 1915年(大正4年)11月10日 - 旭日桐花大綬章

系図

永宣君埈鎔の親類・近親・祖先の詳細

脚注

参考

  • 『王公族としての認定基準と構成人員の増加--冊立詔書・王公家軌範・「王族譜」「公族譜」を手掛かりとして』 新城道彦 韓国言語文化研究 (16),2008年11月
  • 「王室文化の殿堂 雲峴宮 - 雲峴宮の人物」
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Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 李埈鎔 by Wikipedia (Historical)