大林 素子(おおばやし もとこ、1967年6月15日 - )は日本の元バレーボール選手、スポーツキャスター・タレント・女優・モデルである。東京都小平市出身。八王子実践高等学校卒業。ホリプロ所属。日本バレーボール協会広報委員(元バレーボール日本女子代表選手)、神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科客員教授、会津大学非常勤講師、ブレス浜松ゼネラルマネージャー。
東京・新宿区生まれで、物心が付く頃に小平市に転居。小平市立第二中学校でバレーを始め、卒業後の1983年、バレーの強豪校である八王子実践高等学校に進学。高校時代は、第15回(1984年)春の高校バレーでは3位、第16回(1985年)は準優勝であった。1985年、高校在学中に全日本代表に初選出され、同年のワールドカップで国際大会デビューを果たす。
高校卒業後の1986年、当時実業団のトップチームであった日立に入団(同時に日立製作所に入社)。1989年ワールドカップ直前に、膝の半月板損傷、右足首の靭帯断裂という大怪我をしたため、ベンチ入りはしたもののコートに立つ機会はなかった。オリンピックには、1988年のソウル大会、1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会の3大会に出場し、日本のエースアタッカーとして活躍した。
1994年7月、日立の他の選手と共にプロ契約を求めて辞表を出し、話し合いを経て撤回した。10月、世界選手権に主将として出場。しかし翌11月、チームの内紛に端を発した騒動で吉原知子とともに日立を解雇される(Vリーグ発足の翌日のことであった)。
1995年1月、日本人初のプロバレーボール選手としてイタリア・セリエAのアンコーナと契約し、シーズン終了までの5か月間にわたってプレーした。
同年5月に帰国した後は、ダイエー・オレンジアタッカーズ入りが有力視されていたが、代理人問題で二転三転した末に東洋紡オーキスとプロ契約した。
1996年アトランタ五輪に出場したが9位という結果もあり、Vリーグで1シーズンプレーした後、1997年3月に現役引退した。
現役引退後はホリプロに所属し、スポーツキャスターとしてバレーボール中継解説や、VAS(バレーボールアドバイザリースタッフ)として後進の指導にあたる。また、日本バレーボール協会テクニカル委員、日本スポーツマスターズ委員会シンボルメンバー、日本スポーツ少年団委員などの要職に就いている。
1997年からフジテレビのF1グランプリ中継のピットレポーターを務めた。また、スカパー!のフジテレビワンツーネクストでは、『モータースポーツパラダイス』(2001年 - 2005年)→『F1GPニュース』(2005年 - 2011年)の司会を務めた。これによりモータースポーツと深く関わり、2001年には「大林アタッカーズ」の名称で女性ばかりのレーシングチームを結成し、監督として耐久レース「鈴鹿1000km」にも参戦(2003年にはチーム名を「レディスD」と改め、再挑戦している)。
一方で、スポーツ以外のタレント業でもテレビ等で幅広く活躍。2001年には、つんく♂プロデュースによる身長175cm以上のアイドルユニット『デカモニ。』として歌手デビュー。
2006年には初舞台となるAir studio公演『GENJI〜最後の源氏〜』(東京芸術劇場・藤森一朗演出)では、役者として北条政子を演じた。以後舞台を中心に女優としても本格的に活動を開始。
2008年4月より、神戸親和女子大学発達教育学部に新設されたジュニアスポーツ教育学科客員教授に就任した。
2009年からは“特攻の母”と呼ばれた食堂経営者・鳥濱トメの半生を描いた主演舞台『MOTHERマザー〜特攻の母 鳥濱トメ物語〜』の上演を続け、ライフワークとしている。
2010年には舞台『ファウストの悲劇』に起用されるなど、以後同作を含めた蜷川幸雄演出の3作品に出演。2015年には『母をたずねて三千里〜マルコ〜』でミュージカル作品に初出演。
2010年から、千葉県勝浦市バレーボール協会が主催する「大林素子杯」が開催されている。
2015年12月26日深夜(27日)のブログで、声帯結節の手術を受けることを明らかにした。12月30日、手術を終え退院。
2020年10月から2021年3月までの間、会津大学体育実技の授業でバレーボールの指導を担当する非常勤講師に就任した。
2022年、みちのくレコードから両A面シングル「陽だまりダイアリー」「愛する人と歩きたい」を発売し、演歌歌手デビューを果たした(大林素子名義としては初のシングル)。
2023年5月9日 V.LEAGUE DIVISION2 WOMEN(V2女子)に所属するブレス浜松のゼネラルマネージャーに就任した。
2023年5月現在
182cmの身長とサウスポーを生かした攻撃で、センター、セッター、レフトの後ろをコートの右端から左端まで走り抜けて打つブロード攻撃はモトコスペシャルと呼ばれた。
幼いころから歌手になるのが夢で、宝塚歌劇団などのミュージカルや音楽番組を見ながら家の中で歌や踊りを真似ていた。しかし当時から他の子より背が高かったため、小学校入学後にかわれるなどのいじめに遭ったことから、長身がコンプレックスとなった。その後も身長がぐんぐん伸びて小学6年生には170cmとなり、一時は引きこもったり自殺を考えるほど悩んだ。
遡って小学4年の時、テレビアニメ『アタックNo.1』の再放送を見たのをきっかけにコンプレックスだった長身が武器になると思い、中学ではバレーボール部に入部する。上記のいじめ経験から、入部時は「いつかバレー選手としてオリンピックに出て、皆を見返そう」と考えていた。また、他の記事で本人は「(いじめっ子への)“復讐”という意味もあった」とも言っている。
1年生の秋の新人戦でスタメンに抜擢されたものの当時は時々練習をサボっており、試合でミスを連発して負けてしまった。落ち込んでいたところ、監督から「練習しないやつに落ち込む資格はない」と告げられて改心し、以後バレーに真剣に取り組むようになった。たまたま家が日立の練習場に近かったこともあり、当時の日立の監督であった山田重雄にファンレターを出した。すると山田から「良かったら練習を見に来てください。」と返事が来て、それがきっかけで中学の練習後にたびたび日立の練習場に見学に行くようになった。
高校では他のバレー部員たちとの寮生活を送り、日常の家事も自分たちで行った。仲間とともに「私たちにとっては2位もビリも一緒。優勝するしかない」という気持ちでバレーを頑張った。また、ここで学んだ礼儀や規律、勝つことへの強い気持ちが、以降の“人生の糧”となっているという。
日立所属後のオリンピックでは、1988年のソウル大会では4位、猛練習を重ねて出た1992年のバルセロナ大会では5位となってしまった。危機感を持った大林は、山田監督たちが当時日本バレーのレベルを引き上げるため取り組んでいた「プロ化構想」に関わった。
1994年にVリーグが作られたがプロ化は実現せず、日立製作所を解雇された。当時、強豪国の選手が多くがプレーしていたイタリアのアンコーナに、「世界最高峰のリーグで己を鍛えたい」との思いから契約を決めた。アンコーナでは、熱気あるファンたちからの評価は厳しかったが、普段の立ち居振る舞いまで含めてプロとして自分を見せることの大切さを学んだ。
バレー引退後の1997年のF1イタリアGPでの初リポートが転機となり、以降モータースポーツに関わり始める。当初は現場取材に行っても中々話を聞き出せず、しばらくはサーキットで番組スタッフ以外誰とも会話できない状態が続いた。リポーターの仕事に自信を失くしかけたが、「モータースポーツに無知なことが原因かも」と気づいた。
これによりF1雑誌や過去のレース映像などを見て勉強し、これに伴って本人もライセンスを取得することにした。さらに、レーシングチームの運営を行うセルモのスタッフや、前ピットリポーターの林百合佳などから個人講義を受けて知識を深めていった。その後はメカニックやエンジニアなどの取材では専門的な話までしてもらえるようになった。この努力が番組スタッフにも認められた結果、以後15年間に渡ってフジテレビなどのモータースポーツ番組に起用された。
2001年に「デカモニ。」として歌手デビューしたことで、「歌や芝居をやりたい」という子供時代からの夢への思いが強くなった。ほどなくして知り合いの劇団に「お芝居をやりたいんです」と申し出て、以後『GENJI〜最後の源氏〜』でなど色々な舞台に出演して役者経験を積んだ。
以前から蜷川幸雄演出の舞台の大ファンだったことから、ある日彼の楽屋に訪れて作品への出演を直訴した。以後、蜷川の舞台稽古の見学や、自ら手紙やDVDを送るなどアプローチを続けて出演が叶った。『ファウストの悲劇』で蜷川作品に初参加した際、蜷川からは、その背の高さを芝居の武器にせよという意味で「君は大きいから普通の女優は無理だよ。日本一グロテスクな女優を目指せばいい」と言われたという。以降舞台全般では、年に5本程度のペースで出演している(2023年現在)。
全日本代表 (1985年-1996年)
受賞歴
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