田邊 憲治(たなべ けんじ、1899年12月19日 - 没年不詳)は、日本の撮影技師、照明技師である。新漢字表記田辺 憲治、田邊 憲次(新漢字表記田辺 憲次)あるいは田邊 憲二(新漢字表記田辺 憲二)と表記されることがある。照明技師の時代に田辺 憲一あるいは田辺 謙一(たなべ けんいち)とも名乗っている。
1899年(明治32年)12月19日、京都府京都市に生まれる。
旧制・京都市立美術工芸学校図案科(現在の京都市立芸術大学美術学部デザイン科)を卒業し、1920年(大正9年)に松竹蒲田撮影所に入社する。満21歳のとき、1921年(大正10年)8月18日に公開された『更け行く夜』(監督賀古残夢)で技師に昇進した。同作の撮影技師については、日本映画データベースでは長井信一とされているが、文化庁の日本映画情報システムは田邊であるとしている。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災により、同撮影所の機能は京都の松竹下加茂撮影所に移転、田邊も下加茂へ異動している。1924年(大正13年)には蒲田に戻った。『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、当時は東京府荏原郡品川町大字南品川字三ツ木(現在の東京都品川区西品川)に住んでおり、自らの当時としての代表作に『逆流に立ちて』を挙げ、愛用の撮影機はとの問いに「ベルエンド・ホーエル」(ベル&ハウエル)と答えた。1926年(大正15年)7月24日に公開された『仇討同志』(監督吉野二郎)を最後に、同社を退社している。
1927年(昭和2年)、すでに松竹キネマを離れ東亜キネマ甲陽撮影所にいた賀古残夢が賀古プロダクションを設立するにあたり、『生さぬ仲』『銀蛇』の2作の撮影技師を務めた。以降、同作を配給した牧野省三のマキノ・プロダクションに入社し、中島宝三、押本七之助、金森万象らの監督作を多く手掛けた。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、田邊は、松浦茂、石野誠三、三木稔、大塚周一、大森伊八、野村金吾らとともに「撮影技師」に名を連ねた。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)3月6日に公開された『血ろくろ傳奇』(監督金森万象)を最後に退社している。
4年のブランクを経た1935年(昭和10年)、片岡千恵蔵プロダクションが製作、石本秀雄が撮影技師を務めたトーキー『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で、「田辺憲二」の名で照明技師としてクレジットされており、以降、照明技師に転向している。第二次世界大戦後は、1952年(昭和27年)5月1日に公開された『春秋鏡山城』(監督安達伸生)からクレジットがみられ、マキノ・プロダクション時代の同僚の撮影技師・藤井春美と多く組んだ。満62歳となった1963年(昭和38年)3月3日に公開された『五人のあばれ者』(監督小沢茂弘)で撮影技師・伊藤武夫と組んだのが最後のクレジットであり、以降の作品歴は見られない。没年不詳。
クレジットは特筆以外すべて「撮影」である。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である。
特筆以外すべて製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である。
すべて製作は「宝塚映画製作所」、配給は「東宝」、特筆以外「田辺憲一」名義である。
すべて製作・配給は「新東宝」、特筆以外「田辺憲一」名義である。
すべて製作は「東映京都撮影所」、配給は「東映」、特筆以外「田辺憲一」あるいは「田辺謙一」名義である。
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