『RAINBOW RAINBOW』(レインボー・レインボー)は、日本の音楽ユニットであるTM NETWORKのファースト・アルバム。
1984年4月21日にEPIC・ソニーからリリースされ、作詞は麻生香太郎、西門加里、小室哲哉、作曲は小室、木根尚登、プロデューサーは小室が担当している。音楽性はエレクトロ・ポップを基調としながらもラップ、AORなど様々な要素を導入している。
レコーディングは1983年10月1日から1984年2月4日までCBSソニー六本木スタジオおよびスタジオジャックスにて行われた。アルバムタイトルの由来は、虹の7色では収まりきらないバラエティー豊かなアルバムにしたいということから名付けられた。
先行シングルはなく、同時リリースされたシングル「金曜日のライオン (Take it to the lucky)」、後にシングルカットされた「1974 (16光年の訪問者)」を収録している。
オリコンチャートでは最高位71位となった。
宇都宮隆、木根尚登が在籍していたロックバンドであるSPEEDWAYは、1979年9月5日にシングル「夢まで翔んで」でメジャーデビューを果たす。音楽性はアメリカン・ロックを志向しており、カーズやスーパートランプなどに影響を受けていた。1980年にリリースしたシングル「Rockin' On the 月光仮面」よりキーボード担当として新たに小室哲哉が加入し、後に2枚のアルバムをリリースするも、1981年に小室が脱退する。
1983年初頭に「コンピューターを使って、1日で仕上げた」「小室がインストゥルメンタル曲が3曲収録された」内容のデモテープを小坂洋二に持ち込んだ。小坂はその内容の斬新さ・ポップさに驚きながらも、「これにボーカルが入っていたら、もっといい」と指摘する。
それを聞いた小室は新たなグループの結成を検討し、宇都宮と木根を勧誘する。デモテープ「1974 / パノラマジック」を1983年3月から制作して、1983年4月13日に完成した。そして、そのデモテープを当時所属していたJun & Keiに内緒で15社のレコード会社と「フレッシュサウンズコンテスト」に応募した。送ったら2日後に15社・コンテスト全てから電話が鳴って応対に回ったが、エピック・ソニーが一番反応が遅かった。小室が「今すぐ聞いてくれ」と催促したら、15分後に小坂から「今すぐ来てくれ」と言われた。その後、小坂から「どういう形でデビューしたいのか」「どんなLPを作りたいのか」等色々な質問をされ、その時点でエピック・小坂と組むことを決め、小坂から「登場の仕方は派手な方がいいから、そのコンテストに優勝してきてよ」と要請される。
5月にTM NETWORKを結成する。同年8月には東京放送(TBSラジオ)および日本コカ・コーラの主催で開かれていたアマチュア歌手・バンドのコンテストである「フレッシュサウンズコンテスト」に出場し、「1974」を演奏してグランプリを受賞。1984年にエピック・ソニーからメジャーデビューする事が決定した。
利用したレコーディングスタジオは、オタリのオープンリール式の16トラックか24トラックのマルチトラック・レコーダー・小さなミキシング・コンソール・Korg Polysixが各1台だけあり、専属のエンジニアが1人もおらず、当時活動していたフォークソングシンガー達からも「使えない」と見限られていた場所だった。小室は「小さなボーカルブースに何度も出入りして、殆どミキシング・コンソールを通さずにテープレコーダーに直接録音する」、「リズムはスネアドラムを借りて録る」、「一人の声を4回重ねる」、「環境の悪さが原因でノイズが入ったら、逆相で打ち消そうとその声域のノイズを入れる」、「スケジュールの都合でそのスタジオしか使えない場合はピアノが弾けないから、歌メロのデモは3人の声で録音する」等様々な工夫を凝らした。その経験から、小室は「『そのスタジオにある機材で何が出来るか』という実験性・遊び心を身に着けた」と回想している。そのスタジオ内での試行錯誤にスタジオ内での作業期間の3分の1を費やした。
シンセサイザーはRoland MC-8・PPG Wave 2.2・YAMAHA - DX7を主力とし、その他にもmoogやOberheim Electronics等の海外の当時の高級なシンセサイザーを多数使用した。揃えられたシンセサイザーは全てマニピュレーター小泉洋の私物であり、プログラミングの複雑な作業は全て小泉が担当した。最初はYAMAHA - DX1をメインにする予定だったが、発売日が遅れたためPPG Waveをメインにした。
小室の意向により、「カリビアーナ・ハイ」のように打ち込みでなくバンドスタイルでレコーディングしたいという意図があった曲では、何人かのミュージシャンが参加している。クレジットはLPレコードの帯の裏面にしか明記されていないが、北島健二をはじめその後のTM NETWORKに欠かせないサポートメンバーが参加している。但し、小室は「本来は終始テクノポップで押し通し、生のドラム・生のピアノ・生のギターを使わないトレヴァー・ホーンの手法に近づきたかった」と回想している。
宇都宮は「TM以前にやって来たバンドサウンドとは違うタイプのものだったし、初めて歌うような曲」「いきなりほとんどの曲に『ドラマーがいない』というところから始まるという全く違うレベルのものである」と称し、ある程度慣れて歌えるようになってから、それでも更に難しい曲が来た。宇都宮はその小室の独特の転調を持つ作風に挑むために、ドラムの音以外の全てのパートの音量を消した後に歌入れに参加した。
アルバム収録の際にボツとなった「OPEN YOUR HEART」は、小室のソロアルバム『Digitalian is eating breakfast』(1989年)収録の「OPERA NIGHT」としてメロディーを付け足し、歌詞、アレンジを変えて発表されている。お蔵入りしていたTMバージョンについてもベストアルバム『TMN RED』(1994年)に収録、また「グリニッジの光を離れて」についてもベストアルバム『Gift from Fanks T』(2020年)に収録され日の目を見ることになった。それ以外にも「QUATTRO」、「17 to 19」、「HAPPY BIRTHDAY YOUR POINT」、「LOVIN’YOU」、「悲しき16才」等ボツとなった曲があり、最終的には9曲に絞られた。
コンセプトは「お堅い事を抜きにして、夏のはじけ方をとにかく楽しんでもらう」「とりあえず気持ち良い音を出して、その時のテンションを最後まで押し通す」ことを目指した。
全体を通して小室はエレクトロ・ポップを目指していたが、1曲目「カリビアーナ・ハイ」に関しては「1曲目からピコピコした音だけだったら、ポップなメロディとはいえ、あまりにも前衛的に聴こえてしまう」との理由で生演奏の曲となった。また、同曲は歌謡曲ではなくワム!を意識していたという。2曲目「クロコダイル・ラップ (Get away)」ではRun-D.M.C.やビースティ・ボーイズを意識してラップを導入しており、サウンドに関してはニューロマンティック調の音となった。3曲目の「1/2の助走 (Just for you and me now)」はAORの曲となっており、ジャクソン・ブラウンなどのウエストコート・サウンドに影響されている。また「今までにないような新しい音楽を生み出したかった」との言の通り、イギリスに傾倒しすぎた場合はアメリカに、ロックに傾倒しすぎた場合はAORやポップスに寄る等意図的にバランスを取っていたという。また、前年にイエロー・マジック・オーケストラが散開しテクノポップブームが過ぎ去っていたため、その類の音はご法度にしていたという。7曲目の「金曜日のライオン (Take it to the lucky)」に関しては、本来はアース・ウィンド・アンド・ファイアーをイメージした壮大なものであったがすべてシンセサイザーの音に集約される結果となった。また、歌詞に関しては当初別人に依頼していたものの、曲に詞を乗せる事が難しいとの理由で断られたため、小室自身が作詞した。詞の一部ではセルジオ・メンデスの影響を受けている。8曲目の「RAINBOW RAINBOW (陽気なアインシュタインと80年代モナリザの一夜) 」に関しては、ヒッピームーブメントの影響を受けたサイケデリックなカルチャーや、ウッドストック・フェスティバルなどの総決算のような世界観を目指した。9曲目の「パノラマジック (アストロノーツの悲劇)」では、トレヴァー・ホーンやブライアン・イーノが製作するような音を目指し、エレクトリック・ライト・オーケストラのテイストが含まれている。また、全体を通してボーカルに関しては全く加工されておらず、「宇都宮くんは大変だったと思います」と小室はコメントしている。
音楽誌『別冊宝島1532 音楽誌が書かないJポップ批評53 TMN&小室哲哉[ポップス神話創世]』にてライターのともえりょうのすけは、本作の音楽性や歌詞に対して「幻想的なシンセサウンドと物語性のある歌詞が特徴」と表現した他、音楽解説者の榊ひろとは後のTM NETWORKの音楽性よりもバンドサウンドに近い事を指摘した他、「曲調的にもラテン・フュージョンがかったちょっとハードなシティ・ポップスという風情」と述べ、80年代初頭の風俗やトレンドを反映した楽曲群であると位置付けた。
1984年4月21日にEPIC・ソニーより、LP、CT、CDの3形態でリリースされた。
その後1987年7月1日にCDのみ再リリースされた。その後も1991年9月5日、1996年6月17日、2000年3月23日と再リリースされ、2004年3月31日は完全限定生産盤のCD-BOX『WORLD HERITAGE DOUBLE-DECADE COMPLETE BOX』に紙ジャケット、24bitデジタルリマスタリング仕様で収録された。
2007年3月21日には単独で紙ジャケット、デジタルリマスタリング仕様でリリースされ、2013年2月20日にはデジタルリマスタリング仕様でBlu-spec CD2にてリリースされた。
発売当時、シングル・アルバム同時リリースでデビューする事自体が破格の扱いだったのもさる事ながら、ワニのお面を被った少女のジャケットが印象的であり、アーティスト自身が登場していないジャケットデザインは業界でも異例の事だった。因みに、その少女は後に1993年に宇都宮隆のソロツアーにコーラスとして参加したYURIAの妹である。ジャケット撮影を浜松の砂丘で行う際に、駅で5時間も待たされ寒い思いをしたため、「モデルの仕事を辞める」と言って辞めてしまった。
本作リリース後の6月18日に渋谷Live Inn、7月17日に梅田バナナホール、7月31日に渋谷Live Innにて「DEBUT CONCERT」と銘打ったライブが開催された。また同年12月5日に渋谷PARCO part3、12月27日に札幌教育文化会館にて公式では初となるライブ「ELECTRIC PROPHET」が開催された。
オリコンチャートではリリース当初はランキング外であった。1987年の再リリース版において最高位71位、登場回数6回、売り上げ枚数0.8万枚となった。
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