『特別機動捜査隊』(とくべつきどうそうさたい)は、ANNにて、1961年10月11日から1977年3月30日まで15年半にわたって放送されたテレビ映画による刑事ドラマ。制作・NET、東映。日産自動車、日立製作所2社協賛。
全801話。60分刑事ドラマでは最多放送回数である。
この他に回数に含まれない特番が2回放送されているが、このうちの1回は第1話の前週(1961年10月4日)に放送されている。放送開始日は、TBSで『七人の刑事』が放送開始された日でもある。また、1963年には国内劇場で封切り公開される映画が製作された。
様々な事件の初動捜査を担当する機動捜査隊が警視庁及び警察本部に実際に設置されるきっかけとなった。作中では
国内では初の1時間連続ドラマとしてスタートした。基本プロットでは事件発生のいきさつから犯人逮捕までの過程における捜査活動を重点を置いており、レギュラーの立石主任をはじめ登場する刑事たちは、話を転がすための進行役という扱いだった。
当時でも年々凶悪化する犯罪の初動捜査を確実にするため、1959年4月に警視庁刑事部捜査第一課に「初動捜査班」が設置されたが、NETテレビの大株主でもあった東映の大川博がこのことを知り、テレビ映画化を決定した逸話がある。
また、1963年4月には警視庁の原文兵衛がファンであったことから、それまでの「初動捜査班」を「機動捜査隊」と改称し、捜査第一課から独立させ、これが現在全国警察に49隊(警視庁3隊・他の道府県1隊)ある「機動捜査隊」となっている。
本作の企画ではリアリティを与えるため、警視庁から実際にあった事件の素材の提供を受け、それをフィクション化するという手法が用いられた。これにより、それまでタブーとされていた事件の発生描写が細かく描かれ、そのインパクトが視聴者を引き付ける結果となり、第1話では38.7%を記録、それ以降で30%以上の視聴率をマークした。
毎回出てくる「警視三〇三、直チニ現場へ急行セヨ」の台詞や「通報を受けた特捜隊○○班は直ちに現場へ急行した。」のナレーションは本作の代名詞ともなった。ただし最初期はナレーションが無くタイトルバックのみであった 。また、アメリカ合衆国の『アンタッチャブル』の要素が色濃く取り入れられて居る事が特徴である。
初期は立石班のみだが、代打的存在として藤島班を設定したのを皮切りに、2〜3班によるローテーション(時には合同)方式に変更された。2班体勢定着後は、回によって両班の所属刑事の混成チームが登場していくようになる。
基本作風としては事件発生から解決までを時系列で描き、登場する刑事も前面に出るのではなく、あくまで事件や犯人に描写を置くストーリー構成だが、世相を反映したエピソードも多数作られた。また、正月放映の回では時代劇仕立てのエピソードが作られたり、刑事たちが揃って災難に遭うコメディタッチのエピソードが作られるなど、非常にバラエティ豊かであった。3班時代の末期から特定のレギュラー刑事をメインにした話もしばしば作られるようになり、そして後期になるとそれまで背広一辺倒だった中でラフな服装や、長髪の刑事が登場したりとその時代の刑事ドラマの時流を追いかけた変化もあった。
登場する各刑事の基本的な人物設定などは一切設けられておらず、回によってはレギュラー刑事の役者が代わったり、階級序列が逆転するなどの現象が見られた。
階級及び年齢序列は立石班オリジナルメンバーにおいては、立石>橘部長刑事>荒牧>桃井>岩井田>松山と完全固定されているが、それに絡む他の刑事は結構あやふやであり、例を挙げると途中加入の香取刑事はある回では初期から登場している先輩格の桃井刑事から「香取君」と呼ばれていたが、別の回では香取刑事が同じく先輩格である荒牧刑事と対等に会話をしたりしていた。
立石班、藤島班では基本的に部下・後輩を呼び捨てにすることはなかったが、三船班では主任に習い部下や後輩に対しては呼び捨てとなった。例外はベテランの部長刑事で、三船主任も「チョウさん」と呼んで敬意を表していた。藤島班の南川部長刑事は「ナンチョウさん」と呼ばれた。橘部長刑事と関根部長刑事が共演する時は橘が「チョウさん」で関根が「関チョウさん」、関根と松木部長刑事共演の時は関根が「チョウさん」で松木は「マッツァン」であった。また、三船は荒牧刑事を「マキさん」、岩井田刑事を「ガンさん」と呼んだ。他にも高倉主任と畑野刑事が警察学校の同期であることから、2人で会話をする時に上司の高倉を呼び捨てにしていたことがあったり、長らく標準語で喋っていた内藤刑事が突然関西弁を喋ったりというような現象もあった。
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番組がスタートした当時はまだ映画界の「五社協定」が采配を振るっており、協定社の一社であった東映では自社製作のテレビ映画にはB級スターや無名の専属俳優を多く起用していた。そんな中、本作では『七色仮面』や『捜査本部』などのテレビ映画で実績を挙げていた波島進を主演に迎え、彼と共に事件捜査にあたるメンバーには東映の映画『にっぽんGメン』シリーズや『警視庁物語』シリーズ等で刑事役を演じた役者やヒーロー番組の主役俳優などを起用する体制でスタート。毎回ゲストには東映の役者に加え、中井義プロデューサーの古巣・新東宝の役者など幅広いキャスティングがなされた。
レギュラーも含め、出演俳優の多くは他の作品では脇役中の脇役といった扱いの役者や、特撮番組の主演はしていたが一般ドラマにはあまり知られていないという役者も多かった。例を挙げれば、三船主任役の青木義朗は起用当時日活の任侠映画での悪役を中心に活動しており、高倉主任役の里見浩太朗も当時は時代劇でゲストやサブレギュラーとしての扱いが多かった。中にはゲスト出演を繰り返し、レギュラーメンバーに抜擢されるも、降板後再びゲスト中心に逆戻りした役者も多数いた。時として、実在の歌手(主にコロムビア(レコード)専属が多い)がクラブなどのシーンでの歌い手として顔見せ出演したり、実在のキャバレーのダンサーや文化人がそのままの役で出たりといった従来のドラマでは不可能と見られる試みがなされた。また地方ロケでは、その地方出身の役者を起用することも少なくなかった。
これらの事情に関してプロデューサーの中井義は1969年1月発売のTVガイド誌上にて、「高額なギャラをもらってる(いわゆるスタークラスの)俳優やタレントは、"刑事=庶民の味方"のイメージから逸脱しているのでキャスティングしない。」とのコメントを残している。
1970年代に入ってからは日活・大映の役者も積極的に起用しており、他の有名番組で人気を博した俳優も出演するようになったものの、当初からのキャスティング傾向は変わらなかった。こうした背景は後番組の「特捜最前線」でも引き継がれている。
役名の特徴としては住吉正博→住吉刑事、山口暁→山口刑事、水木㐮→水木刑事、村上不二夫→村上記者など、俳優の芸名をそのまま使用している例が多い。
日産自動車が番組提供及び車両協力していた関係で、劇中で特捜隊が使う覆面パトカーにセドリック が使われていた。当時の警視総監がこのドラマのファンだったために、後に実際のパトカーにもセドリックが採用されたという逸話がある。
その後、日産自動車はプリンス自動車と合併 した事により、1968年度の途中からは旧・プリンス自動車の車種であったグロリア やスカイライン が劇中の覆面パトカーとして登場するようになり、放送10年目を迎えた1971年10月6日放送の「わが道を行く」よりC10型スカイライン(通称・ハコスカ)の覆面パトカーが登場し、1972年12月13日放送の「刑事はつらいよ」よりC110型スカイライン(通称・ケンメリ)の覆面パトカーが登場した。 その他警らパトカーや逃走車両を含む劇中車両としてブルーバード、サニー、ローレルなどの日産車、また愛知機械工業製のコニー360ライトバンが登場した。
オープニングで覆面パトカーが疾走するシーンは、後継番組の『特捜最前線』のオープニングにおいてもほぼそのまま受け継がれていた。
本作の終了後も、同じ流れを汲む後継番組の『特捜最前線』をはじめ、現在も放送されている『テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ』の各番組への番組提供及び車両協力も日産自動車が継続して行っており、劇中の覆面パトカーも日産車各車が登場している。
なお、放送開始当初は、特定の自動車メーカーがスポンサーについておらず、観音開きのトヨペット・クラウンの白パトや1953年式シボレーも登場していた。
この節の出典:
国内では1963年3月31日に封切り公開された。
日暮里駅に近くの陸橋で若い女性の変死体を発見という連絡が。特別機動捜査隊の警視三〇三、秋山警部補・倉本部長刑事・井上刑事・土屋刑事・小松刑事に入り、5人は現場へ向かう。現場に居た警察官は遺書があるので、自殺だろうと報告。知らせを受けた父・細田武は、娘・細田絹子の姿をみて、むせび泣く。現時点では事件性が無いので、再び巡回に戻る警視三〇三。小松刑事は「あの人(細田武)は、僕の友達が務めている週刊雑誌社(週刊太陽)の編集長ですよ」と運転しながら、秋山警部補に説明する。男で一つで育て上げたのにたまらんだろうなと、5人は無念そうに語り合っていた。初七日を過ぎた細田は仕事に戻り、週刊太陽編集部では新進スターで「飛燕 若さま侍」の滝竜二を次号のグラビアモデルにする企画を進めていた。細田は名士・茨常五郎の麻薬密輸の疑惑を追っていた記者・中野通夫を呼び、滝の取材に行かせる。撮影が小休止したので、滝にインタビューしようとした中野は、そこに茨常の部下・藤井健吉が居たことに驚く。滝は自分の控室に戻ろうとエレベーターに乗ったが、その滝がエレベーター内で死体になっていた。本部から連絡を受けた警視三〇三は現場へ急行する。
※クレジットタイトル順。
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国内では1963年5月12日に封切り公開された。
ファッションデザイナーの合原京子は自分のファッションショーをセントラルホールで開催していた。ショーも終わり、合原は舞台に立って挨拶。しかしスピーチをしている途中にいきなり苦しみだし、倒れて間もなく即死した。本部から連絡を受け、特別機動捜査隊の警視三〇三、秋山警部補・倉本部長刑事・井上刑事・土屋刑事・小松刑事は現場へ到着。各員分担して関係者から事情を聴取し始める。監察医は解剖するまで正確なことは言えないが、青酸カリを服用したのだろうと推測する。秋山警部補は即効性があるので自殺の可能性も捨てきれないと考えていたが、小松刑事はショーに出ていたモデルたちから、合原は野心家で自殺するようなタイプではなく、あちこちに恨まれているという証言を複数引き出していた。
※クレジットタイトル順。
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系列は放送当時の系列。
最高視聴率:第84回「自首」の34.3%(1963年6月5日放送。「テレビ朝日開局60周年記念 年代別にすべて発表!! 番組視聴率ランキング」の1960年代視聴率ランキング 5位)
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