大江 千里(おおえ せんり、英語: Senri Oe、1960年〈昭和35年〉9月6日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン、ジャズピアニスト、俳優である。
1983年にシンガーソングライターとしてデビュー、2007年末までに45枚のシングルと18枚のオリジナル・アルバムを発表、「十人十色」「あいたい」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などのシングル曲がヒット。作詞・作曲・編曲家としても、松田聖子・光GENJI・渡辺美里・優木まおみ・渡辺満里奈などのアーティストに数多くの楽曲を提供、プロデュースも手がけている。
音楽活動のほかにも、俳優として多くの映画やテレビドラマに出演、またテレビ番組の司会、ラジオ番組のパーソナリティー、エッセイ執筆など幅広い分野で活動。2008年以降は日本国内での自身の音楽活動を休業し、ニューヨークに在住。その後も楽曲提供など、アーティストとしての活動は継続している。2012年にはジャズピアニストとしてのデビューも果たした。
3歳のときにピアノを始め、そのころに初聖体を受けている。 カトリック系幼稚園に通っていたころに洗礼を受けており、洗礼名は「エミル」。
1960年9月6日、東京生まれ。生後まもなく大阪に転居。大阪府南河内郡美陵町(現:藤井寺市)で誕生。その後、南河内郡狭山町(現:大阪狭山市)に引越し。
1963年、3歳からクラシックピアノを習いはじめる。
1970年、小学4年生のときに聞いたギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」をきっかけにポップ・ミュージックに開眼し、1974年に日本テレビ「スター誕生!」に応募したが、予選落ちとなった。中学生から作曲を始める。1975年にヤマハポピュラーソングコンテストの関西四国沖縄決勝大会に出場するも、結果は世良公則とツイストが全国大会に進出する。
1980年に関西学院大学経済学部へ入学し、そのまま軽音楽部に入部。「トニオ・クレイガー」というアマチュアバンドを率いて、自作曲の演奏のほか、神戸や芦屋等のライブハウスにも出演した。
1981年秋、大学2回生在学中にCBS・ソニー(後のソニー・ミュージックエンタテインメント)からスカウトされ、その後、SDオーディションで最優秀アーティスト賞を獲得し、三度目の正直となった。しかし、大学生活や一層の音楽の勉強に励むためすぐにはデビューしなかったが、宝塚市にある紙ふうせん主催のボーカルスクールでレッスンを受講。
1983年2月27日、STV『サンデージャンボスペシャル』に出演(千里のポパイズ・カレンダーのコーナー)。札幌・STVホールで「JANUARY」の弾き語りを披露し、プロとしての初ステージを踏む。その後、番組レギュラーに隔週で起用されて口コミで広まり、「最初にレコードが売れたのが札幌だった」と述べている。
1983年5月21日、EPIC・ソニーからシングル『ワラビーぬぎすてて』、アルバム『WAKU WAKU』でデビュー。 プロデューサーは大村憲司。キャッチフレーズは「私の玉子様、スーパースターがコトン」で、作者は当時コピーライターだった林真理子。
デビューライブは5月21日に神戸チキンジョージで行われた。東京における初めてのライブは、新宿ルイード(現在は閉鎖)での白井貴子とのジョイント。11月6日、在籍中だった関西学院大学の学園祭(後夜祭)に出演する。
1984年1月、初のホールコンサート『Boys&Girls Together』を東京・日本青年館と大阪厚生年金会館で行う。当時は関西学院大学の現役学生だったため、東京 - 大阪間の移動を繰り返しており、「日本一忙しい大学生」と呼ばれていた。オリコンで、荻野目洋子と「ぼくたち、リバーシブル?」という対談を敢行。荻野目は当時、「日本一忙しい高校生」だった。3月26日に大学を卒業し上京。11月、CM初出演となった、味覚糖(のちのUHA味覚糖)「DATE KISS」のCM曲「十人十色」がスマッシュヒットし「出世作」となる。
1987年、『AVECツアー』で初めての日本武道館ライブを実現。渡辺美里がゲストとして出演し「本降りになったら」をデュエットした。
1988年7月、夏の恒例となるライブイベント『納涼千里天国』開始(群馬県・浅間高原)。フジテレビ系連続ドラマ『君が嘘をついた』にも出演、以降は俳優・司会者としてのメディア露出も増える。
1989年3月25日、初のベスト・アルバム『Sloppy Joe』発売、オリコン週間アルバムチャートで最高2位を獲得。
1990年9月21日、通算10枚目のアルバム『APOLLO』リリース、自身初となるオリコン週間アルバムランキング首位を獲得。
1991年9月、TBS系ドラマ『結婚したい男たち』主題歌としてリリースした23作目のシングル『格好悪いふられ方』がオリコンチャート2位を獲得、大ヒット。
1992年3月、日本テレビのスペシャルドラマ『夢見るくらい、いいじゃない』で音楽監督を務める。同年10月に出演したTBS系ドラマ『十年愛』の作中で、荒唐無稽な原因で死亡する役柄で話題となった(本業となる音楽活動のスケジュールの都合上、最終回までの出演が難しくなったため)。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を受け、2月に西宮市でボランティア活動を行い、炊き出し作業や弾き語りライブを行う。同じく被災者救済を訴えていた泉谷しげると組み、東京駅地下街で3月20日にゲリラライブを開催。泉谷とともに嘉門達夫の震災チャリティ・シングル「怒りのグルーヴ〜震災篇〜」にコーラスで参加。泉谷が中心になって8月12日に開催した『日本をすくえ』ライブ(神戸メリケンパーク)にノーギャラで出演(1996年も実施)。千葉マリンスタジアムで行われた『納涼千里天国』にも泉谷がゲスト出演(乱入)、「春夏秋冬」を披露。
1996年、『納涼千里天国』をハワイ・シーライフパークで行い、初の海外ライブを実現。
1997年、『納涼千里天国』が初の全国ツアー形式で行われたが、7月27日の広島ドルフィンビーチでの公演が台風のため中止。以後、『納涼千里天国』は2003年まで開催されない。
1998年、デビュー15周年記念ライブを東京と横浜で行い、スペシャルゲストとして渡辺美里、国本武春、引田天功が駆けつけた。同年にアニメ映画『ドラえもん のび太の南海大冒険』の劇中音楽を担当。
1999年、初の試みであるアコースティックライブ『4ward』を行う。
2000年、デビュー以来所属していたEPIC・ソニーから離れ、個人レーベル「Station Kids Records」を設立。大晦日には、21世紀カウントダウンライブを東京グローブ座で行い、ファンとともに21世紀を祝った。
2002年、初のディナーショーを名古屋ウェスティンホテル(後のホテルナゴヤキャッスル)で開催。
2003年2月、エピックレコードジャパン25周年記念イベント『LIVE EPIC 25』に参加。デビュー20周年を記念して、6年ぶりに『納涼千里天国』が復活する。
2004年、日本テレビ『インディーウォーズ』で一緒に司会をしていた山川恵里佳とのユニット (elllie with senri) を番組のために結成させる。池上本門寺で行われた『納涼千里天国』で、elllie with senriの「ひまわり」を披露する。
2005年、渡辺美里の西武ドームラストライブに山口智充とともにゲスト出演。
2007年8月末、11年ぶりのハワイライブ『まるごと千里ナイト!! Vol.21〜ハワイ編』を行う。12月13日から12月16日まで六本木・俳優座劇場で引田天功の『プリンセス天功まつり』の音楽を担当する。
2007年12月22日、ニューヨークでジャズを学ぶため、日本国内での音楽活動を長期休業すると自身のブログ「千里の森」で発表した。その後も楽曲制作、「千里の森」の更新などは引き続き行っている。なお、「千里の森」はその後封鎖。「Peaceneverdie.com」"note"にて、「Senri garden」をスタート。
本格的にジャズ転向を考えるようになった背景には創作活動への苦悩があり、ジャズピアニストとしての再デビュー後に「デビュー以来、ラブソングが年々書けなくなっていった」という旨の発言をしている。本人曰く「ジャズ転向は10代からの憧れ。苦悩は生まれたときから。今も続いている」という。
ちなみに、当時のマネージャーにジャズ大学合格を伝えたところ「いいじゃないですか、その方向で進めましょう」と乗り気を見せ、大江が年末くらいまで予定の入っていたコンサート等のスケジュールを気にして躊躇したところ「そっちはキャンセルの方向で話しますから心配いりません」と背中を押されたことから意を決したという。
なおシンガーソングライター時代にも音楽雑誌のインタビュー等で「本当はジャズピアニストになりたかった」という旨の発言を再三しており、デビューから24年の歳月を経てようやく自身の夢に突き進むことになった。
2008年、ニューヨークに渡り、長期移住を始める。秋公開の映画『能登の花ヨメ』の音楽監督を務める。がん撲滅のための集団「スター混声合唱団」に参加する。
2010年5月21日にデビュー27周年を迎えたが、この日、2007年末の日本国内での音楽活動休止以来初めて、日本へ一時帰国する。これを機にツイッターを開始。9月12日、ニューヨークの本願寺で飯島晶子の詩の朗読に載せて「原爆ピアノ」(被爆ピアノ)を演奏した。また、ニューヨークで発行されている日本語のフリーペーパー『週刊NY生活』での連載「Senri Oeの月刊NY音楽生活」が5月から始まった。12月22日には、河上修とのデュオでジャズアルバム『duo』を発売した。
2011年2月13日、ニューヨークのジャズビッグバンドの「モーニング息子」(日本人とアメリカ人総勢15人による)に参加。ライブではモーニング娘。の「LOVEマシーン」や、大江の曲も演奏された。2月に日本へ帰国、代官山の「レザール」と、高円寺の「醍醐」(いずれもライブハウス)で河上修との「duo gig」を行う。4月5日、ニューヨークのライブハウス・The Bitter Endで、渡辺美里と東日本大震災チャリティライブを行う(この模様は渡辺美里のライブビデオ『Voice IV』に一部収録されている)。
2012年5月18日、4年間通ったニューヨークのジャズの学校「The New School for Jazz and Contemporary Music」を卒業。7月31日にはジャズピアニストとしてのデビュー・アルバム『Boys Mature Slow』を世界で発売、日本盤も9月6日に発売することを発表。 これを機に新たな個人レーベル「PND Records」を立ち上げる。
2013年9月6日にジャズピアニストとしてのセカンドアルバム『Spooky Hotel』を発売。このとき、ビッグバンドで東京ジャズに出演。そしてアルバム「Collective Scribble」、「Answer July」をリリース。「Answer July」はグラミー賞コンシダレーションに入る。
2017年、アトランタジャズフェスティバル、インターナショナルデイ ソロ出演。
2018年、デトロイトジャズフェスティバル、ソロ出演。
2018年、アルバム『Boys & Girls』で、かつてのヒット曲をピアノ・ソロでセルフカバーした。同アルバムは2018年9月17日付けのオリコンのアルバムウィークリーランキング・ジャズ・クラシック他ジャンルで1位を獲得した。
2019年9月4日、ドラマー、アリ・ホーニグとベーシストのマット・クロージーを迎えてのピアノ・トリオアルバム『Hmmm』を発売した。
2020年5月4日、AP通信選定による「コロナ禍で作られた40曲」に同年4月にSNSで発表したInstrumental「Togetherness」が選ばれた。
いずれも 「阪神・淡路大震災」関連チャリティー曲で、印税は寄付されている。
いずれも小林章役
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