MiG-15(ミグ15;ロシア語:МиГ-15 ミーク・ピトナーッツァチ)は、ソビエト連邦のミグ設計局が開発したジェット戦闘機。最終的に約15,000機以上が製造され、ソ連からチェコスロバキアやパキスタン、朝鮮民主主義人民共和国等、旧東側諸国や第三世界諸国等多くの国々で採用された。
DoDが割り当てたコードネームはMiG-15がType 14、SP-1がType 19、MiG-15UTIがType 29。北大西洋条約機構(NATO)の使用するNATOコードネームはMiG-15がファゴット (Fagot)、MiG-15UTIはミジェット (Midget)。
現在でも運用自体はされているが、現在では北朝鮮等一部の国が練習機として使用されるのみとなっている。
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国やソビエト連邦は占領したドイツ国内から大量の先進的航空技術やデータ、そして開発技術者を入手し、それらの技術やデータを活用した航空機の開発を進めた。中でもソ連は、戦時中にドイツが研究していた後退翼のデータを入手したことにより、それまで独自に開発していたジェット戦闘機よりも高性能な機体を開発できるようになった。
設計者のミコヤンは遠心圧縮式ターボジェットエンジンであるロールス・ロイス ニーン2のサンプルをイギリスのロールスロイスから入手した。(この時、ミコヤンがイギリスのロールスロイス社に招かれた時、ビリヤードの勝負に勝った褒美として購入許可を得た上、タービンブレードに使用されている合金は製作時に発生する切削くずを靴底に吸着させるやり方で入手し、合金の組成を分析して解明した後に製造した。)このエンジンを無許可でコピーして独自改良型RD-45Fとし、機体はアメリカやイギリスの戦闘機に対抗するため徹底的に軽量化された。大量生産を容易にするため、翼端失速の対策として、主翼に前縁スラットなどの複雑な機構を用いず境界層分離板(ダイバータ)で代用するなど、艤装品なども必要最小限に止められ、全体的に質実剛健な設計となっている。MiG-15は量産性が良く、軽量な機体による軽快な運動性を持ち、機首に非常に強力な37 mm機関砲(N-37)と23 mm機関砲(初期生産型はNS-23、NR-23)を搭載する優れた機体となった。またソ連機の特徴で、降着装置は荒れた滑走路でも問題なく離着陸出来る非常に頑丈な作りになっている。
開発は急ピッチで進められ、1947年には初飛行に成功し優れた性能を示したため、すぐに大量生産が開始された。一方で、開発を急ぎすぎたために様々な欠陥を抱え込むことにもなった。その一つに、高高度飛行や高速飛行中に突然、スピンに陥るという重大なものがあったが、これに対しては速度計とエアブレーキが連動してマッハ0.92を超えないようにして対処した。しかし、当時のソ連にはアメリカなどに比べて優れたジェット戦闘機が無かった上、欠点を補って余りある性能を保持していたため、15,000機以上が生産され、ソ連の衛星国や友好国(東側諸国)にも大量に供与された。欠陥は多数開発された改良型で徐々に解決されていき、改良型のVK-1エンジンを搭載し最も多く生産されたMiG-15bis (МиГ-15бис) は、当時の大抵の西側戦闘機を凌駕する性能を発揮した。
実戦投入は国共内戦からであり、1950年4月に八路軍を支援するソ連のMiG-15が中国国民党軍のP-38を撃墜したのが最初の空中戦だった。MiG-15は朝鮮戦争でアメリカ軍を主とする国連軍に衝撃を与えた。国連軍の参戦当初は朝鮮人民軍にはジェット機を保有する本格的な航空兵力は無かったため、制空権は完全に国連軍のものとなっていた。だが1950年10月、中国義勇軍が参戦し、ソ連が中国に供与したMiG-15が鴨緑江を越えて来るようになると国連軍側にあった制空権は揺らぎ始めた。パイロットには王海らのような中国兵だけでなく、ソ連の熟練兵も少なからず存在した。ソ連から瀋陽に派遣された第64戦闘航空団は中国軍に編入され、標識や制服ごと中国軍に偽装した。米ソ間の核戦争を恐れた米ソ両国は決してそれを認めなかったので、ソ連兵が参戦していることは公然の秘密だった。第二次世界大戦中に日本本土を焦土と化したB-29はMiG-15の強力な37 mm機関砲によって多数が撃墜され、中国軍参戦数ヵ月後の1951年に入ると昼間爆撃任務から除外された。アメリカ空軍は急遽、最新鋭のF-86Aセイバーを投入し、制空権の回復に努めた。その後もアメリカ軍は改良型のF-86EやF-86F等を投入していったが、中国・北朝鮮側も改良型のMiG-15bisを投入するなどして、双方の制空権は南北に激しい移動を繰り返した。MiG-15と会敵する可能性が高い中朝国境はミグ回廊と呼ばれ、中国領の安東飛行場などから出撃しているために追撃できなかったアメリカ軍は苦戦を強いられた。
アメリカ軍のF-86とソ連製MiG-15について、アメリカ軍は当時10:1の撃墜率を主張したが、1990年代半ばに4:1であったと修正した。一方ロシア側の資料では2:1とされている。実際のところ、この数字にはF-86以外のジェット機やB-29などレシプロ爆撃機の損害が計上されていないので、アメリカ軍の損害はより大であり、そうした損害も含めるとアメリカの算定でも2:1程度になる。ソ連の航空部隊は38度線以南の空域での飛行を禁じられていたが、しばしば同部隊の熟達したパイロットは空戦に参加しており、戦果の半分ほどはソ連空軍のものと考えられる。いずれにせよMiG-15に対するF-86の撃墜率の優勢は疑いはないが、その要因としては、レーダー照準器によって空戦中に12.7 mm機銃6門による濃密な弾幕をMiG-15の周囲にまき散らすF-86の優れた武装システム以外にも、敵戦闘機の上空に味方戦闘機を誘導するアメリカ軍の優秀なレーダー管制や戦術も挙げられる。また、MiG-15が上昇力と高高度での運動性に優れていたのに対し、F-86は急降下能力と低高度での運動性に優れていたため、両者が交戦に入るとMiG-15は上昇しF-86は急降下して戦闘が成り立たないことも珍しくなかった。
当時F-86のパイロットとして実戦を経験したジョン・ボイドは、F-86は涙滴型のキャノピーにより360度の視界が確保されており、MiG-15に比べると操縦も容易であったため、敵機をより早く発見・対応できたことが撃墜率の差となったという考えにいたり、決定的な勝因は操縦士の意思決定速度の差にあったと結論づけた。ボイドは後にこの考えをOODAループ理論へと発展させた。
MiG-15は、その後直系の改良型であるMiG-17が大量に生産・配備されたこともあり、朝鮮戦争以外の実戦においては華々しい活動は見られない。第二次中東戦争(スエズ戦争)ではエジプト軍等のMiG-15bisがMiG-17Fとともに実戦活動を行ったが、撃墜された情報はあっても戦果を挙げたという情報は伝わっていない。また、中国人民解放軍空軍の機体は中華民国空軍の戦闘機としばしば空中戦を行っているが、台湾側が空対空ミサイルを使用したこともあって、こちらも芳しい結果は残しておらず、中華人民共和国も暗にそれを認めている。こういった不首尾な結果というのはMiG-15自体の欠陥によるものというよりは、パイロットの練度の問題、あるいは(使用国側の)整備が問題であると考えられる。MiG-15自体の欠陥が関わる著名人の死亡例としては、ユーリイ・ガガーリンの事故死が挙げられるが、このときの彼の搭乗機はMiG-15UTIであった。
MiG-15が西側に与えた衝撃は大きく、MiG-15の小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載する、というコンセプトに影響を受け、アメリカ空軍はF-104スターファイターを、イギリスはフォーランド ナットを開発している。しかしながらその影響は一時期なもので終わり、F-104もナットも開発した本国ではあまり使われなかった。
結果として、戦闘機の対地攻撃任務を重視したアメリカの戦闘機は次第に大きく重い機体となってゆき、ベトナム戦争でMiG-15の後継機であり軽快な運動性能を持つMiG-17やMiG-19、MiG-21に苦しめられた(しかし、そのMiG系列の機体もやはり改良によって大きく重くなっていった)。
2019年、北朝鮮の葛麻飛行場を撮影した衛星写真を分析した結果、数多くの軍用機が並ぶ中にMig-15が含まれていたことが確認された。金正恩朝鮮労働党委員長の視察に向けた準備と見られており、初飛行から70年経過した段階でもなお、現役かつ稼働状態にある可能性がある。 2022年10月8日に北朝鮮が行った大規模航空総合訓練は、稼働可能な機体の多くが投入されたとされたことから、Mig-15が参加したと見られている。
派生型は量産されたものだけでも数知れず存在するが、初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15;МиГ-15УТИ или УТИ МиГ-15)の三種が代表的である。これらの中で最も重要なのは複座型のMiG-15UTIで、後に登場したMIG-17やMiG-19の複座型が製造されなかったこともあり、極めて多くの国で高等練習機として長期間使用された。2004年の時点でも、まだ数ヶ国が使用しているとされる。これらは様々な訓練や試験に用いられた。数種開発された偵察機型の内、MiG-15Rは300機以上が生産されたが、偵察能力は極めて限定的であった。なお、MiG-15ではレーダー搭載型も複数開発されたが、結局レーダーはMiG-17に装備することとなり、MiG-15のレーダー搭載型はいずれも生産されなかった。また、戦闘機型の機体はのちに後継機の配備により余剰化したため、非力ながら戦闘爆撃機として使用された。その他、最後は標的機として使用されたものも多くあった。
MiG-15はソ連以外の国でも生産され、主なものとしてはチェコスロバキア製のS-102(MiG-15相当)、S-103(MiG-15bis相当)、CS-102(MiG-15UTI相当)、ポーランド製のLim-1(MiG-15相当)、Lim-2(MiG-15bis相当)、SB Lim-1(MiG-15UTI相当)、SB Lim-2A(Lim-2をSB Lim-1同様の複座型に改修)などがある。また、それぞれに偵察型(Lim-2Rなど)や多くの改修型が製作された。ハンガリーでもライセンス生産が許可される予定であったが、ハンガリー動乱の発生により中止された。
中華人民共和国ではソ連から数百機のMiG-15が供与されてJ-2(殲撃二型)と命名したが、国内での新規生産は行われなかった。供与と同時にソ連から技師が派遣されて瀋陽飛機公司でサポートにあたったものの、生産されたのは複座練習機型のJJ-2(殲教二型)だけだった。
なお、中華人民共和国のMiG-15についてはJ-4(殲撃四型)の名称が散見されることがあるが、これは西側の情報筋が誤って中華人民共和国のMiG-15bisにJ-4の名前を付けたものであり、実際には中国人民解放軍空軍でJ-4の名称は用いられていない。
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