セントラル映画社(セントラルえいがしゃ、英語: Central Motion Picture Exchange)は、かつて存在した連合国軍占領下の日本の映画配給会社である。1946年(昭和21年)2月1日、連合国軍最高司令官総司令部の外郭団体として設立され、同月28日から日本国内でのアメリカ映画のリリースを開始する。1951年(昭和26年)12月27日、解体された。日本では「セントラル映画社」のほか、セントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジ(あるいは・エキスチェンジ)、セントラル・フィルム・エキスチェンジと表記されることもあり、略称は英語: CMPE、あるいはセントラル。
1941年(昭和16年)12月8日、第二次世界大戦において日米開戦、太平洋戦争の開始をもって、アメリカ映画各社の日本支社が一斉閉鎖・解散、アメリカ映画の日本での商業上映は終了した。1945年(昭和20年)8月15日、同戦争が終了し、同年9月2日から日本は連合国の占領下に入った。同年10月2日には連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが設置され、その幕僚部に民間情報教育局(CIE)が置かれ、映画は同局の管轄下に置かれた。同年11月には、アメリカ合衆国国務省が派遣したマイケル・ベルゲルがアメリカから招かれ、ベルゲルはGHQ、国務省および同陸軍省と協議して1946年(昭和21年)1月にセントラル映画社の東京事務所を東京都港区芝田村町2丁目15番地の兼坂ビル(現在の同都同区新橋2丁目5番5号、新橋2丁目MITビル)に設置した。ベルゲルを初代社長として同年2月1日に正式に設立された。
同社による第1回配給作品は、『キューリー夫人』(監督マーヴィン・ルロイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、1943年)と『春の序曲』(監督フランク・ボーゼイギ、製作ユニヴァーサル映画、1943年製作)で、いずれも同年2月28日に日本劇場(現在のTOHOシネマズ日劇)、日比谷映画劇場(現在跡地にTOHOシネマズシャンテ)等で公開された。ただしこれは戦後公開された最初のアメリカ映画ではなく、前年末の12月6日、戦前に輸入していた『ユーコンの叫び』(監督B・リーヴズ・イースン、製作リパブリック映画、1938年)を日本映画貿易(代表・岸浩)が公開したのが最初であった。
同年、アメリカ映画九社がアメリカ映画輸出協会(MPEA)を設立、同国からの映画の輸出は同協会が一元管理することになり、これを機にベルゲルは数か月で退任し、二代目社長に映画輸出協会から派遣されたチャールズ・メイヤーが就任している。ベルゲルはユニヴァーサル映画極東地域代表に就任した。同社の目的は「アメリカ映画九社作品の日本配給」ということになったが、9社とは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、ワーナー・ブラザース、パラマウント映画、ユニヴァーサル映画、RKOラジオ映画、コロンビア ピクチャーズ、廿世紀フォックス、ユナイテッド・アーティスツ映画、リパブリック映画を指す。同年9月、同社は、日本の既成映画資本である東宝および松竹に対し、両者の直営館のすべてにおいて同社の配給するアメリカ映画を公開すべく交渉を開始する。この交渉は決裂したが、旧映画法による大映の設立以来、製作部門を失っていた日活との交渉は成立、翌1947年(昭和22年)5月からは、日活の29館の直営館のすべてにおいて、同社の配給するアメリカ映画を上映を開始した。当時の統計によれば、同年10月には、戦後復興した日本全土の映画館は1,903館が存在したが、そのうち529館の興行系統が「セントラル系」となっていた。
「セントラル系」の興行系統にある多くの独立系の映画館が、地名を冠して「セントラル劇場」と名乗った。東京セントラル劇場(のちの五反田日活劇場)、千日前セントラル会館(のちの千日前セントラル)、あるいは地方においても松本セントラル劇場(のちの松本東宝セントラル)、高田セントラルシネマ(現在の高田世界館)、岸和田セントラル劇場等、数多くあった。当時、「セントラル」の語は、イコール「アメリカ映画」「ハリウッド映画」を連想させる語として受け入れられた。地方の独立系映画館が「セントラル系」になった背景には、東宝がヨーロッパ映画の上映チェーンを組織化したこと、松竹も同様にアメリカ映画から撤退したことが挙げられる。
メイヤー体制において、同社本社には、経理部長に妻鳥循雄、宣伝部長に伊勢壽雄、製作部長に高瀬鎮夫、文化部長に高梨義顕が採用されている。妻鳥循雄はのちにパラマウント映画日本支社長(日本法人パラマウント映画副社長)になった人物、伊勢壽雄は戦前のパラマウント映画日本支社で宣伝部長を務め、セントラル設立時には宣伝課長、のちに妻鳥支社長のもとで再設立されたパラマウント映画でふたたび宣伝部長を務め、「映画宣伝マンクラブ」を結成して会長になった人物、高瀬鎮夫は同社でも字幕製作を行っていたがのちに清水俊二、秘田余四郎らとならぶ字幕翻訳家の第一人者となった人物、高梨義顕はのちに映配取締役を務めた人物である。1947年までの時期には、同社レクチャー部にのちの映画評論家、淀川長治が在籍した。
1951年(昭和26年)12月27日には解体された(同月31日とも)。最後に公開されたのは、同年同月18日公開の『十三号桟橋』(監督ロバート・スティーヴンソン、製作RKOラジオ映画、1949年)であった。以降のアメリカ映画は、各社が配給することになった。同年12月27日に公開されたアメリカ映画、『ダラス』(監督スチュアート・ヘイスラー、1950年)、『リオ・グランデの砦』(監督ジョン・フォード、1950年)、『二世部隊』(監督ロバート・ピロッシュ、1951年)、『腰抜け千両役者』(監督ジョージ・マーシャル、1950年)、『アリババと四十人の盗賊』(監督アーサー・ルービン、1944年)は、それぞれ、ワーナー・ブラザース映画、リパブリック映画(共同配給NCC)、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、パラマウント映画、ユニヴァーサル映画の各社の日本法人が直接配給した。
セントラル映画社東京本社の去ったのちの兼坂ビルには、コロンビア映画日本支社、リパブリック映画日本支社、ユナイテッド・アーティスツ映画日本支社、日本RKOラジオ映画が入居した。同社の大阪支社長を務めたフランシスコ・ロドリゲスはコロンビア映画日本支社長に、経理部長を務めた妻鳥循雄はパラマウント映画日本支社長、宣伝部長を務めた伊勢壽雄はパラマウント映画日本支社宣伝部長に、それぞれ就任した。
1941年12月以降、終戦まで公開されなかったアメリカ映画を時代を遡って新作とともにランダムに公開した、という功績とともに、1937年(昭和12年)以降1940年代前半にかけて製作されたものと、その10年後に製作されたものが日本の市場を同時に出回るという事態を招いた。1946年度の第20回から再開した「キネマ旬報ベストテン」の外国映画部門には、第1位から第5位までを独占するに至ったが、第5位の『南部の人』は前年製作の新作であったが、第4位の『エイブ・リンカン』は1940年の作品であった。
その後「キネマ旬報ベストテン」の外国映画部門には、1947年度の第21回には9本を送り込んだが、1948年度の第22回にはわずか2本、1949年度の第23回には4本、1950年度の第24回には2本であった。このため同社は、映画評論家はヨーロッパ映画に評価が偏重しアメリカ映画をたたいている、として試写を見せないという対抗策をとったりもした。とくに第24回ベストテンの結果が発表された1951年の初めには、雑誌掲載用のスチル写真提供を停止する強硬措置をとっている。同社は、一貫して、記者に対しても興行主に対しても強硬な姿勢であったため、同社の解体が決定したときには、日本の映画記者たちは快哉を叫んだという。
同社が配給した映画作品のうちのおもなものの一覧である。日本での公開日順。製作社名の末尾の年号は製作年。
同社は映画館の経営を行わなかったが、同社の興行系統「セントラル系」にある、日本全国の独立系映画館が地名を冠して「セントラル劇場」と名乗ることを許した。下記は、1951年に発行された『映画年鑑 1951』の「映画館総覧」の章に掲載された映画館のうち、興行系統が「セントラル系」であるかアメリカ映画を上映した「セントラル劇場」の一覧である(1950年10月時点全39館、所在地は当時のもの)。
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