倉吉市(くらよしし)は、鳥取県中部にある市である。当市は県中部の玄関口としての役割もある。
市内には、打吹玉川地区をはじめ土蔵が多く、交番や公衆トイレにも土蔵のデザインが採用されており、白壁土蔵の街として知られている。当市を含めた中部の市や町は「とっとり梨の花温泉郷」を形成している。生活文化や慣習、方言については鳥取市など、県東部の影響を強く受けているところが多い。
倉吉市の中心市街は打吹山の麓で、天神川と支流の小鴨川が合流するあたりに形成されている。両川の流域を倉吉盆地という。市域の一部は盆地の外側にあり、北条平野の一部になっている。南部や西部は伯耆大山から続く丘陵地帯になっている。東部には東伯山地がある。
日本海側気候で、豪雪地帯に指定されている。
古代には、伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれていた。
在庁官人出身の小鴨氏は、岩倉城を本拠地として国人領主として成長し、鎌倉時代以後は守護代として勢力を広げた。
南北朝時代から室町時代にかけて田内城や打吹山城が築かれ、山名氏の守護所が置かれた。打吹山城の城下に広がったのが現在の倉吉の町の起こりである。山名氏の衰退後は羽衣石城(湯梨浜町)を拠点とする国人南条氏の支配下に入った。南条元続は豊臣秀吉に従って伯耆東部を治める大名の地位を安堵され、打吹城と城下町倉吉の整備が行われた。
関ヶ原の戦いで西軍についた南条元忠が改易されると、倉吉は米子藩主となった中村一忠の所領となったが、慶長14年(1609年)の中村氏改易により以後は天領とされた。慶長19年(1614年)には安房国館山藩から里見忠義が倉吉に移されているが(倉吉藩の設置)、実際には配流に等しく「支配」とは言い難い。元和3年(1617年)に池田光政が鳥取藩主として入封すると、重臣である伊木忠貞が倉吉に入った。寛永9年(1632年)、池田光政と入れ替わりで池田光仲が鳥取藩主になると、家老倉吉荒尾氏の封地となった。自分手政治を許された荒尾氏は、打吹山麓に陣屋を設けて倉吉を治めた。江戸時代の倉吉は商工業の中心として繁栄した。江戸時代中期以降に倉吉で特産品となったものとしては、「稲扱千歯」や「倉吉絣」が挙げられる。打吹玉川地区(重要伝統的建造物群保存地区)には江戸時代後期から近代にかけての伝統的建築物が残されている。
里見家の最後の当主であった館山藩主里見忠義は、江戸幕府によって伯耆国に事実上配流され、1622年にその地で没した。このとき忠義に殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称される。彼らの墓は倉吉市の大岳院にあり、また倉吉から分骨した墓が館山城の麓に建てられている。この「八賢士」を『南総里見八犬伝』での八犬士のモデルに求める説もある。もっとも、この言説が広まったのは『八犬伝』が一世を風靡してからとも指摘される。
郵便番号は以下の通りとなっている。2006年10月16日、2019年10月15日の再編に伴い、変更された。
閉校の小学校は鳥取県小学校の廃校一覧を参照。
倉吉駅は代表駅かつ同市唯一の鉄道駅ではあるが市の中心部からは離れている。
山守駅から岡山県勝山町(現真庭市)の中国勝山駅まで南勝線を延伸させる計画だったが、実現することなく1985年に廃止されている。打吹駅は市の中心部にあり、開業時の名称は倉吉駅で、後に打吹駅に改称した。この間、倉吉駅は上井駅を名乗っていた。
市の中心部へは、倉吉駅から路線バス(日本交通・日ノ丸自動車)を利用する。
グッドスマイルカンパニーの工場進出以降、「フィギュアの街」としてのPRを行なっている。「ひなビタ♪」の聖地になったこともあり、ポップカルチャーを通じた地域振興に力を入れている。
2005年3月22日の合併により、住所表記が以下の通り変更された。また、大字は表示しない。
市外局番は、0858(20〜69)となっている。但し、天気予報は0859-177である。(市外局番0858の地域が鳥取県東部と中西部に複数存在するため。)
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