早乙女 貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日 - 2008年12月23日)は、日本の歴史小説・時代小説作家。満州・ハルビン生まれ。本名は鐘ヶ江秀吉、ペンネームは「若い娘に金品を貢ぐ」の意味。慶應義塾大学文学部中退。代表作に吉川英治文学賞を受賞した『會津士魂』など。
曾祖父の為親が会津藩士で、戊辰戦争にも参加。祖父の代にアメリカに渡り、いったん横浜に帰国するがすぐに上海に渡り、一家は中国に住む。1926年1月1日、ハルビン市ポツレヤ街10号3番地4で生まれ、父茂一届出、同月12日ハルビン駐在総領事天羽英二受付、同月28日送付入籍。本名の「秀吉」は、元日生まれであることから、1月1日生まれの伝承を持つ豊臣秀吉に因んで名づけられた。祖母からは「近代合理主義の非情な人間になること」を憂い、「繰り返し士道をを教え、人の心、その美しき魂を養うべく、日常の起居から」鍛えられ、また「人を騙すくらいなら、騙されろ」「己を律するをもって、他を律するべからず」と教えを受けた。少年時代は体が弱いせいもあって、15、5歳頃から小説家になることを志し、徴兵検査では肺浸潤のため不合格となった。 1946年に九州に引き揚げる。博多に住んでいる頃に『九州文学』関係者が発行していた『叡智』誌の懸賞小説に応募し、入選者なしの佳作1位となったが、雑誌が廃刊となり原稿も遺失された。
1948年に上京し、懸賞小説の入選などを経て『講談倶楽部』などの倶楽部雑誌や新聞に作品を発表するようになる。1952年頃、横浜の山本周五郎の仕事場に編集者と訪ねたのを契機に師事する。1955年頃、倶楽部雑誌新人賞受賞者の集まり「泉の会」に所属、メンバーは池上信一、中川童二、村上仁、童門冬二、井口朝生、生田直親、伊藤桂一ら。そのメンバー伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人誌「小説会議」を1956年に創刊、その中で雑誌連載に加えて長編書き下ろしをこなす文筆専業になっており、またこの頃から着流しで長髪姿だったこの掲載作の歴史小説「鬼の骨」「叛臣伝」で直木賞候補。1965年頃に有馬頼義主催の「石の会」に参加。
1968年、「小説会議」に掲載した「野鶏路」に手を加えた、マリア・ルス号事件を扱った『僑人の檻』で直木賞受賞。『オール読物』『小説新潮』などの中間小説誌や、『週刊新潮』などの週刊誌、『歴史読本』などに作品を発表する。
呂宋から送り込まれた妖術者との戦い『死神は黒衣をまとう』、幕末の横浜居留地を舞台に柊城之介の活躍する『城之介非情剣』などの伝奇小説、『おれが天一坊』『悪霊』などのピカレスクロマン、テレビドラマ化もされた『忍法かげろう斬り』シリーズ、『忍法秘巻」シリーズなどの忍者小説、『秘剣鱗返し』『武蔵を斬る』などの剣豪小説、その他戦国時代、明治維新を舞台にした作品も多い。また当時の保守的モラルを基調とする時代小説の中では、エロティシズム描写に独自性があった。1976年『北条早雲』で吉川英治賞候補。また『霧の海』『QE2世号殺人事件』などの現代ミステリもある。「東京スポーツ」紙では『おれが百万石 前田慶次郎風流譚』などを長年連載をしていた。
ライフワークともされる『會津士魂』は、『歴史読本』誌で1970年から連載213回、原稿用紙7000枚に及ぶ全13巻の大作で、完結後の1988年に東京会館で完結祝いが開かれ、発起人遠藤周作、丸谷才一、森繁久彌はじめ600人近くの出席があった。明治維新後の会津藩士を描いた続編の『続會津士魂』全8巻も2001年に完結した。会津出身で渡米した桶屋の娘を描いた『おけい』(吉川英治賞候補)などの会津ものもある。
会津松平家の現当主松平保久とも親交があると同時に会津藩への思慕の強い作家として有名であり、1968年直木賞受賞時には東京新聞に「私の血の命じるまま」と題して寄稿し、「会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配しているのは、曽祖父の悲憤が、三代にわたって外国生活を強いる結果となったことと無関係ではない」と、明治維新が作家としての出発点であることを述べている。『會津士魂』に代表される幕末作品・考察における視点は一貫して会津・新撰組など幕府側に立っており、明治新政府側の薩摩藩・土佐藩などの西国諸藩や、最後には会津藩を見捨てた徳川幕府に対して批判的であり、とりわけ会津藩と終始敵対した長州藩とその関係者に対しては、徹底的に辛辣かつ一切容赦のない全面的に否定的な記述に終始している。そうした記述姿勢に対する批判も少なく無い。『會津士魂』完結祝いの席上挨拶では「非業に仆れた会津、三千人の犠牲者の霊がこれまでの私を励ましてくれたのです」とも語っている。ただし薩長、尊攘側についても、長州人の山田顕義について好意的な『志士の肖像』や、『奇兵隊の叛乱』、月形半平太を題材にした「ある志士の像」、中山忠光を題材にした「最後の天誅組」などを著している。またこれらの作品に対しては「(『会津士魂』のような)本格的な歴史小説を書く場合でも、本書(『忍法かげろう斬り』)の様な忍者ものを書く場合でも、作者の視点は、歴史の中に存在した名も無き者たち、もしくは不当に歴史の裏面に追いやられていった者たちを描くという点において、常に一貫している」「紛れもない大衆作家の一人である」(縄田一男)とも評されている。
歴史エッセイとして、『歴史に学ぶ「叛逆者」の人生哲学』(「北条早雲」「松永久秀」「石田三成」「由井正雪」「近藤勇」収録)の他、人物評伝や時代論など多い。 師の山本周五郎には晩年まで親しく接し、1967年の葬儀では棺を先頭で担ぎ、没後35年・生誕百年の2003年に回想記『わが師山本周五郎』を執筆した。
日本ペンクラブ常任理事を務め、1984年国際ペンクラブ東京大会では企画司会等を担当、1985年サンマリノ、86年ハンブルク、87年ルガーノ、88年ソウル、1990年マディラ、92年リオデジャネイロでの国際ペン大会に出席。1993年に専務理事就任、サンティアゴ・デ・コンポステーラでの国際ペン大会、1995年ブレッドでの国際作家会議、エルサレムでの日本文学フェスティバル、1996年グアダラハラ、1997年ブレッドでの国際ペン大会に代表として出席。
会津若松市の会津まつりの藩公行列では、例年西郷頼母役で参加していた。 趣味の絵画では、1984年に新宿高野ギャラリーで『江戸を歩く』原画等による個展、1985年に会津中合デパートで『會津士魂』出版記念個展「早乙女貢が描く会津の詩」、1995年に京王プラザギャラリーで「城下町を描く絵画展」などを開催。1999年「政経文化画人展」に出品し、文部大臣賞を受賞。北辰一刀流は二段の腕前。1987年に映画化された『竜馬を斬った男』では浪士役で特別出演した。
2008年10月28日に鎌倉の自宅で吐血して入院、12月23日に胃癌のため死去。
早乙女は、尾崎秀樹が創設した大衆文学研究会の二代目会長となった。早乙女の死去後、大衆文学研究会により主催されていた「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞」が「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞(早乙女貢基金)」となっている。
作品集
画文集
テレビドラマ
映画
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