「江夏の21球」(えなつのにじゅういっきゅう)は、山際淳司による短編ノンフィクション作品である。1979年11月4日の日本シリーズ第7戦(広島東洋カープ対近鉄バファローズ)において、江夏豊(広島東洋カープ)が9回裏に投じた全21球に焦点を当てている。
作品は『Sports Graphic Number』創刊号に掲載後、山際のエッセイ集『スローカーブを、もう一球』(角川書店、1981年)に収録された。
「江夏の21球」は作品名のみならず、この9回裏の攻防自体の通称にもなっている。本項では、この9回裏の一連の流れと、野村克也が解説を務めたテレビ番組「NHK特集・スポーツドキュメント『江夏の21球』」についても記述する。
1979年の日本シリーズ第7戦において、9回裏に登板していた江夏が、自らピンチを招くも後続の打者を打ち取って日本一を決めた様子を収めた、短編ノンフィクション作品である。1980年に文藝春秋から発行された「Sports Graphic Number」創刊号に掲載されたが、読者の反響が大きく、山際をスポーツノンフィクション作家として世に認めさせた作品である。また、ドキュメンタリーとして映像化され、「NHK特集・スポーツドキュメント『江夏の21球』」(1983年1月24日放送)、日本テレビ系「知ってるつもり?!」(「山際淳司・江夏の21球物語」、1999年9月19日放送)として放送された。
1979年11月4日に大阪球場で行われた近鉄バファローズ対広島東洋カープの9回裏の攻防である。広島、近鉄ともに3勝3敗で最終戦を迎えたこの日は雨が降る中で試合が進み、7回表終了時点で3対4と広島がリードしていた。勝てば球団史上初の日本一となる広島の古葉竹識監督は万全を期すため、絶対的なリリーフエースの江夏豊を7回裏から登板させていた。
9回裏の近鉄の攻撃を迎えるが、広島と同じく球団史上初の日本一を目指す近鉄もただでは終わらず、先頭の6番打者・羽田耕一が初球を打って出塁し、にわかに場面は緊迫する。以下は、この9回裏に江夏が投じた全21球とそれに伴う試合の様子である。
表面的な事実としては上記の通りだが、山際は江夏本人へ長時間にわたってインタビューするなど、単なる投打以外に発生していた駆け引きなどを取材し、それらを総合して一つの作品にまとめたのが「ノンフィクション『江夏の21球』」である。山際自身は野球にあまり詳しくなかったというが、「傑作を作るためには妥協しない」という思いを正面からぶつけ、結果的には江夏本人に「スポーツノンフィクションのジャンルを確立した印象的な作品」と言わせるほどの作品に仕上がった。具体的には、以下のような場面が描かれる。
1球目、江夏は先頭の羽田耕一が「慎重に攻めてくる」と考え、初球から外角へ速球を投じてストライクを取りに行ったが、羽田はそれをセンター前へ打って出塁した。羽田は初球からストレートを狙っており、「直球が来たら何でも振ってやろう」と思っていたという。江夏は第3戦での対戦(結果は飛球)を基に羽田の力量を軽視していた部分があり、この安打を「痛かった」と述べている。江夏自身も手を抜いたわけでは無いが、相手打者に初球を狙われる傾向があり、実際にそのシーズンに浴びた10被本塁打のうち7本が初球を打たれたもので、しかも長距離打者ではないタイプに打たれたと述べている。
藤瀬史朗の盗塁は傍目には単独スチールと映ったため、ネット裏で観戦していた野村はこの場面でのスチールを「えらい冒険」と表現し、「石橋を叩いても渡らない」ほどの慎重な西本の性格からすると作戦的に邪道に見えると述べている。しかし、この盗塁はヒットエンドランだったのをクリス・アーノルドが見落としていたため、結果的に「藤瀬の盗塁」になったものである。俊足の藤瀬だが、ヒットエンドランの場合は作戦の露見を防ぐために通常の盗塁よりスタートを遅らせるため、藤瀬は走り出してからアーノルドがサインを見落としたことに気付き、その瞬間に二塁でアウトになることを覚悟したという。水沼の二塁送球は完全にアウトのタイミングだったが、送球がワンバウンドとなってセンターへ抜けてしまったために藤瀬は三塁まで到達し、ヒットエンドランの作戦は失敗したものの無死三塁という一打同点の可能性が広まったことで、西本はベンチで苦笑いを浮かべていた。当の西本自身も試合後、「あの場面でスチールが無いのは当然。ヒットエンドランのサインだった」と認めている。
一方、江夏側はこのアーノルドとの対戦に際し、近鉄側が何かを仕掛けてくると察知していた。だが、江夏は藤瀬の走塁は構わないと考え、それよりアーノルドとの対戦に集中しようと考えていた。それは、第2戦でも同様に藤瀬をランナーに背負った場面があり、その際に両者とも抑えようと気負った結果、チャーリー・マニエルに打たれた経験があったからである。ただ、アーノルドは空振りが多いことからヒットエンドランは無いと考えていた。
江夏が6球目にアーノルドへ四球を与えた後、広島の古葉竹識監督は内野陣に前進守備を指示した。通例であれば代走・吹石徳一の二盗を防ぐために守備を下げるところだが、緩い内野ゴロを打った際に三走・藤瀬が本塁に突入する危険があったため、「同点にされたら負ける」と考えた古葉は、1点たりとも与えない狙いの元、吹石の盗塁覚悟で前進守備を選択した。ネット裏の野村の目には、この前進守備はサヨナラの可能性を増大させる危険な選択として映った。これと同時に、古葉は北別府にブルペンへ向かわせ、既に池谷公二郎が投球練習を開始していた。ブルペンが動くとは思わなかった江夏は「オレはまだ完全に信頼されていないのか」と内心で憤り、「ここで変えられるくらいならユニフォームを脱いでもいい」とまで思ったという。古葉はこの采配を、同点延長になって江夏に代打を送った後の守備(当時の日本シリーズには指名打者制を採用していなかった)を考慮したためと後に語っており、江夏の心情までは考えなかったとしている。
7球目で江夏は、スクイズを警戒して高めに外した。次の8球目では膝元へ落ちるカーブを投げ、外れてボールになったが平野光泰がハーフスイングを取られてストライクとなり、江夏は「このボール(カーブ)はいける」と思ったという。このカーブはフォークと呼ばれることもあるが、江夏はプロ野球投手としては指が短く、しっかりとしたフォークは投げられないとしていた。一方の平野はこの7球目、8球目を見て江夏が動揺し、制球が乱れていると考えた。江夏は確かに動揺していたがそれは前述にある自軍のベンチに対するもので、平野や走者に対する動揺では無かった。次の9球目で吹石が盗塁し、平野との勝負は中断するが、広島は前進守備を敷いていたため、「予定通り」の盗塁だった。
11球目に敬遠となって無死満塁となり、江夏は失点と敗戦を覚悟した。そこで江夏は開き直り、次打者の佐々木恭介に対しては押し出しや犠牲フライなどのような中途半端な結果になることを嫌い、「打てるものなら打ってみろ」という強気の投球を展開した。これが江夏を始め広島側にとって完璧な組み立てとなり、一方の西本は無死満塁という絶好の機会に勝ちを確信してしまい、逆に落ち着きを失っていた。佐々木への初球(12球目)はバットを出しかけたが止め、江夏は打ちに来ている、つまりスクイズは無いことがわかった。さらに江夏は、佐々木が狙い球をカーブに変えたことを読み、13球目に外角へ直球を投げた。これを佐々木は見逃してストライクとなった。
14球目に佐々木が三塁線へ際どいファウルを打った。見る角度によってはヒットに見えたため、近鉄は勝利と思い一塁ベンチに紙吹雪が舞った。しかし江夏は、「あのコース(内角ベルト付近)を引っ張っても絶対ヒットにならない。ファウルか内野ゴロか」と確信しており、全く慌てなかったという。観戦していた野村も「カウント稼ぎに振らされた」と分析し、全く驚かなかったという。この直後、一塁・衣笠祥雄が江夏の元へ向かい、「オレもお前も同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」と声を掛けたという。江夏はこれについて、自分が打たれて衣笠が辞めるのは「考えてみればバカバカしい」としつつも、自分と同じ考えを持つチームメイトがいたことに「嬉しかった」「心強かった」とし、平静さと集中力を取り戻すことが出来たという。その直後、佐々木への勝負球として平野に投じた8球目(ハーフスイングを取られた膝元へ落ちるカーブ)を思い出し、実際に17球目に投じて佐々木を三振に打ち取っている。
野村によれば、15球目と16球目はウィニングショットとなった17球目のための布石であるという。15球目を胸元に「捨て球」として投じ、16球目は同じく「捨て球」として内角低めの直球、17球目に16球目と同じ軌道で打者近くでスッと落ちるカーブを投じたことで、佐々木の「目の錯覚」を利用して空振りを奪ったものである。
18球目、石渡茂は外角からのカーブに全く反応しなかったため、江夏はスクイズが来ることを確信した。第7戦に入って近鉄側のブロックサインはほぼ解読できたが、この場面ではスクイズのサインが出ていたかは分からなかったという。三走の藤瀬によれば、スクイズの可能性があることは無死三塁の時点で言われており、実際に18球目にスクイズのサインが出たと言っている。
この試合最大のターニングポイントとなった19球目は、江夏・石渡双方の証言の食い違いが白眉である。
江夏はカーブの握りのまま投球してスクイズを外しており、これを「意図的に外した」と主張している。江夏の投球フォームには一旦、一塁側(近鉄側)を見てから投げる直前に打者を見る癖があるが、これは阪神時代に金田正一から教わったもので、こうすることで打者の呼吸を読み、その瞬間にボールを外すことが出来るという技術である。この19球目がまさに真骨頂で、ボールが手を離れる直前に石渡がバントの構えをするのが見えたため、握りを変える間もない咄嗟の判断でカーブの握りのまま外した。これは、石渡がこの打席でいつか必ずスクイズをしてくる確信があったからわかったのかもしれないとしているほか、捕手の水沼が三走・藤瀬の動きを見て立ったのが見えたという(江夏は左投げのため、三走は投球時に死角となる)。江夏のカーブは2種類あり、この時に投げようとしたのは真上から投げ下ろすタイプのカーブだったため、直球に変えることの出来ない握りだった。
一方の石渡は、江夏の投球が「偶然すっぽ抜けた」と考えており、この球をフォークボールと認識している。石渡は「バットに当てられない球では無かった」としながらも、スクイズは速球のタイミングに合わせてやるもので、本当に意図して外したのなら大変なことだとしている。その石渡を三振に打ち取った21球目は、ウィニングショットとなった17球目と同じ、膝元へ落ちるカーブだった。
山際の作品を読んだ近鉄ファンの佐藤寿美報道ディレクターが企画を提出した。佐藤本人にスポーツの経験は無く、既に出版されているドキュメンタリーと同じ題材をNHK特集で取り上げることには反対論も根強かった。番組制作の条件として、部長からは「山際の作品を超えるものを作れ」と言われたという。
制作にあたり、スポーツ番組の経験もなかった佐藤は、山際の「江夏の21球」を掲載した『Sports Graphic Number』編集長・岡崎満義へ相談に行き、岡崎と山際本人の協力も得て、事実上のNHKと『Sports Graphic Number』のコラボレーションで製作されたという。そのため、番組のスタッフロールには「協力」として山際の名もクレジットされている。江夏へのインタビューは山際、岡崎、佐藤の3人が交代で担当して江夏に質問し、それに対して江夏が1球1球説明したために収録には8時間を要したという。ちなみに、江夏・山際・佐藤は同じ1948年生まれ、江夏と佐藤は同じショートホープを好んで吸っていたという偶然もあって馬が合ったことも、番組制作の上で大きなプラスとなった。
当時の試合映像は、当日中継を行った毎日放送にも残っていなかった。NHK広島放送局の職員がたまたま録画していたビデオテープをロッカーにおいてあったものが見つかったが、これはニュースでダイジェスト用に使うために用意されたもので、実況は入っていなかった。そこで、ラジオで実況したNHKの島村俊治アナウンサーが自身で録音していたテープがあり、ようやく素材が揃った。
山際の文章では要所のみ加えられていた野村の解説を、独自性を出すために1球ごとに解説を加えるようにし、画面上にボールの軌跡を描くことを手作業で行った。また、スコアボードに代打・佐々木が表示される場面など、残された映像にないシーンは実際に大阪球場で新規にロケ収録を行って補った。野村は冒頭の解説で「プロ野球は半世紀が流れていますけど、これ程の場面に出くわしたことはない。おそらくこれからも出るか出ないか分からないと思う。それぐらいの名場面が1979年の広島VS近鉄の日本シリーズじゃなかったかと思います」と話した。
2010年10月には、NHKエンタープライズからDVDが発売されている。奇しくも佐藤はこのDVDの発売当時、NHKエンタープライズの常務取締役を務めており、発売後の2011年2月から2013年6月までは同社の社長を務めた。DVD化にあたり、番組内の音楽はOA版のヴァンゲリス(アルバム「天国と地獄」より)から全部差し替えられた。また、この作品がきっかけで山際とNHKの縁ができ、山際は1988年にはメジャーリーグ紹介番組「大リーグアワー」、晩年の1994年4月3日から1995年5月14日までNHKのスポーツ情報番組「サンデースポーツ」のキャスターを務めた。
NHKクロニクル(NHKアーカイブス)に残る過去番組表データによると、『時の記録~NHK特集選』(総合・1998年10月7日)、『思い出のスポーツドキュメンタリー』(BS1・2003年2月11日)、『プレミアムアーカイブス』(BSプレミアム・初回2013年6月11日)、『あの日 あの時 あの番組』(総合・2018年10月28日)などのアーカイブ番組や、それ以外の単発編成(BS1・2020年12月5日、同・12月27日、Eテレ・2023年10月30日未明など)で折に触れて再放送されているほか、2021年10月19日にはBSプレミアム・BS4Kにて4Kレストア版も放送されている。
山際の「江夏の21球」では触れられていないが、後日になって登場人物が別の媒体に語ったエピソードに下記のものがある。
江夏は、石渡に投じた19球目のカーブについて自著の中で、「あの球は水沼じゃなきゃ捕れなかった」と語っている。
豊田泰光は、左投手の江夏からは三塁走者は見えないはずなので、とっさに外したというより偶然外れたのではないかと考えていたようで、石渡の引退後、豊田が「あれはすっぽ抜けではなかったのかなあ」というと、石渡が「そう思いますか?トヨさんも」と涙を流さんばかりにしていたと新聞のコラムに寄稿している。結果的にスクイズは失敗して近鉄は敗れたが、しかしスクイズを「外された」のか、偶然「外れたのか」のかは敗者にとって違いは大きいとしている。豊田は続けて、1959年の天覧試合で長嶋茂雄に打たれたサヨナラ本塁打をあくまでも「ファウル」と主張する村山実と石渡とを重ね合わせて述懐している。
逆に伊東勤は、西武時代に同じようなスクイズを仕掛けられた場面(1984年4月14日対阪急戦)で、江夏が同じく瞬時に高めに投球コースを変えた経験から、この場面も江夏の意思で外したという確信を持っている。
捕手を務めた水沼は、江夏とスクイズの打ち合わせはしておらず(水沼は「もしタイムを取ったら、近鉄ベンチがスクイズのサインを出さないかも知れない」と考え、敢えて動かなかったと語っている)、三塁走者の藤瀬の姿が視界を動いたために咄嗟に身体が反応して立ち上がったものだったという。水沼は、カーブの握りでウエストボールは江夏にしか投げられないだろうと語り、並の投手であれば捕手が急に立ち上がったら驚いて暴投やワンバウンドになっていただろうとしている。また、江夏同様に水沼もスクイズを確信していたこと、藤瀬のスタートがあまりにも良かったために水沼が反応できたという要素もあった(藤瀬にしてみれば満塁のフォースプレイであるために早くスタートせざるを得ない状況でもあった)。
この19球目については、スポーツライターの工藤健策の著書において「広島ベンチが近鉄のサインを盗んでいたため、水沼は最初からスクイズだとわかっていた」という説が提唱されている。
しかし、山際の著書で藤瀬、NHK特集で石渡がいずれも「18球目の後にベンチからスクイズのサインが出た」と証言し、当の水沼自身も1球ごとに近鉄ベンチや石渡の様子を見てはいたが、スクイズのサインが出ていることには全く気付いておらず、また水沼は石渡がスクイズをやること自体は同じ大学の先輩・後輩で寮でも同室という関係で互いを熟知しているために見抜いてはいたが、「どのタイミングでスクイズをやるか」までは見抜けず、藤瀬がスタートを切った時に「『やばい、来た!!』と思った」と著書で語っている。また山際の著書において「変化球でウエストするなどありえない」とする工藤の主張とは矛盾する石渡の証言が紹介されている上、伊東以外にも江夏は咄嗟の判断で投げるコースを変えることができるとする証言がある。阪神時代の江夏とチームメートだった安藤統男は、対巨人戦で江夏が長嶋茂雄の打席で瞬時にコースを変更した投球を目の当たりにした経験から、このスクイズ外しは意図的にやったものだと語っている。
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