粛宗(しゅくそう)は、唐朝の第10代皇帝。当初の諱は嗣昇(ししょう)であったが、後に浚(しゅん)、璵(よ)と次々と改名を繰り返し、即位時は亨(きょう)であった。生母の楊氏は楊達の玄孫娘。
玄宗の三男として生まれる。長兄の李琮が早世し、皇太子である次兄の李瑛が開元25年(737年)に武恵妃らにより廃位されると、その翌年皇太子に立てられた。天宝3載(744年)には「亨」と諱を改めている。
天宝14載(755年)11月に安史の乱が勃発すると、翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け、玄宗と共に長安を脱出した。馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で兵士らによる反乱が発生、楊国忠一族の粛清が行われると、玄宗は蜀へ避難し、李亨らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(現在の陝西省咸陽市乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武に到着、7月に側近である宦官の李輔国の建言を容れ、自ら皇帝に即位、至徳と改元した。これは父の玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗はこの即位を事後承諾せざるを得ず、自らは上皇となった。
即位後は郭子儀の軍を中心に、回鶻の援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区)に親征し反撃に転じた。至徳2載(757年)に、面倒を見た異母弟の永王李璘が揚子で勝手に軍勢を動かす行為をしたので、激怒した粛宗は父の玄宗のもとに参朝することを命じたが、永王は兄の命に従わなかった。粛宗は江西採訪使の皇甫侁と高適に命じて、討伐させた。粛宗は皇甫侁に、永王を捕虜とした際に自分のもとに護送することを命じたが、皇甫侁は独断で永王を斬殺した。
同年に安禄山が自らの息子の安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長男の広平王李俶(後に豫と改名、代宗)と次男の越王李係らの活躍により、長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。
乾元元年(758年)、粛宗は第五琦を塩鉄使として塩の専売制を導入、財政の健全化と国家体制の強化を計画したが、朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官たちに掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。その後、李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な三男の建寧王李倓を謀反計画を名目に自殺に追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。
宝応元年(762年)4月、玄宗が崩御した13日後に、安史の乱の終結を見ることもできないまま、粛宗も52歳で崩御した。粛宗が宦官に擁立された上に宦官を監軍に用いた事実は、以後の唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだと言われている。粛宗の玄孫憲宗以後、唐朝が滅亡するまで敬宗(祖父の憲宗と同じく宦官が弑逆)が太子であったほかはすべて宦官が即位を決定した。
『高麗史節要』によると、高麗太祖王建の祖父の王帝建は、粛宗の庶子とする。
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