棋聖(きせい)
「棋聖」と尊称されるのは、歴代名手の中でも卓越した実績を残した江戸時代の本因坊道策(前聖)と本因坊丈和(後聖)である。近年では本因坊秀策も棋聖の一人と数えられることもある。また中国出身で日本で活躍し、全棋士を先相先以下に打ち込むなど輝かしい実績を残した呉清源は、「昭和の棋聖」と呼ばれている。
中国では清代初期の黄龍士に対して使っていたが、1988年に中国囲棋協会から聶衛平に棋聖の称号が与えられた。
「棋聖」を冠する棋戦は世界にいくつかある。
1976年に棋聖戦が創設される。読売新聞及び日本棋院・関西棋院主催、サントリー特別協賛。国内棋戦の2大タイトル(2022年度までは3大タイトル)のひとつ、賞金が最高額で、タイトル序列1位である。挑戦手合の優勝者には純銀製の棋聖大賞メダルが授与される。
また、女流棋戦にもNTTドコモが協賛する女流棋聖戦がある。創設は1997年。
以下の項目では、日本国内で開催される棋聖戦について説明する。
棋聖戦が始まる前、読売新聞社は1957年から日本最強決定戦を開催し、1961年からは日本最強決定戦からの移行となる名人戦を主催していた。しかし、当時「狂乱物価」とも呼ばれた物価高騰のなか、1974年まで日本棋院からの契約金増額要請に主催者の読売新聞がほとんど応じなかったことから、日本棋院では名人戦の朝日新聞への移管を進め、1974年末に契約打切りを読売新聞に通告した。
読売新聞はこれに反発し傘下メディアを通じて日本棋院の対応を批判し続け、1975年8月には日本棋院を相手にした訴訟を起こした。同時に水面下の交渉を行い、日本棋院顧問岡田儀一による「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)とする斡旋案で、同年12月10日に和解した。この経緯は「名人戦騒動」として知られ、将棋の名人戦契約にも大きな影響を与えた。
棋聖戦は、この「名人戦騒動」の渦中から生まれ、1976年にスタートした。当時全盛の林海峰や木谷實一門の実力者たちを退け、第1期棋聖戦の最高棋士決定戦トーナメントを勝ち上がったのは、藤沢秀行・橋本宇太郎の両ベテランであった。決勝七番勝負では藤沢が70歳の橋本を4-1で降し、初代棋聖の座に就いた。
翌1977年の第2期は、四冠を保持する挑戦者・加藤正夫を迎え、藤沢はたちまち1勝3敗に追い込まれる。このカド番・第5局で藤沢は、2時間57分という大長考を払って加藤の大石を全滅させ、気迫の勝利を挙げた。最終局でも藤沢は半目差で逃げ切り、大逆転での防衛を果たした。
以降藤沢は超一流の挑戦者を迎えるも毎年ことごとく撃退、50代で棋聖戦6連覇を果たした。しかし1983年の第7期、挑戦者の趙治勲は3連敗から残り4番を連勝して棋聖を奪取、世代交代を果たした(藤沢はこの時期胃ガンが進行していた)。
1986年、3連覇を果たした趙は兄弟弟子 の小林光一を挑戦者に迎えるが、直前に交通事故で両足と左手を骨折する重傷を負う。不戦敗やむなしとの声もあった中、趙は車椅子で対局に臨み、逆境の中2勝を挙げるが力尽き、小林に棋聖を明け渡した。以降小林は8連覇を果たし、碁界の第一人者として君臨する。この間、加藤正夫は3度棋聖に挑み、奪取すれば趙に続くグランドスラム達成となったが、全て小林の壁に阻まれた。
1994年、小林の連覇を止めたのは、宿命のライバル・趙であった。その翌年、小林覚が挑戦者として登場。初挑戦にして趙を降して棋聖の座に就く。しかし翌年には趙がすかさず奪回。するとその翌年、再び小林覚が挑戦者となり、3年連続同一カードとなった。趙はこの対決を制し、再び大三冠に君臨した。
2000年、趙の5連覇による名誉棋聖資格獲得を阻んだのは王立誠であった。王の3連覇目、挑戦者に柳時熏を迎えた第5局で、柳はダメ詰めの最中にアタリを放置、王がこれを打ち抜いて逆転勝ちするという事態が生じた。立会人裁定で王の勝利が認められたが、ルール・マナー・美学など様々なレベルで物議を醸すことになった。
2001年、推薦棋士枠の存在や、出場人数が年ごとに一定しないことなど、批判の声があった最高棋士決定戦方式を取りやめ、挑戦者選定はAリーグ・Bリーグに6人ずつ属する2リーグ制に変更となった。
2003年、山下敬吾が挑戦者として登場。第4局の封じ手でハナヅケの妙手を放つなど王を圧倒し、4-1で棋聖を奪取する。しかし翌年は羽根直樹の粘りに屈し、1年で棋聖を明け渡した。2005年には結城聡が挑戦権を獲得、関西棋院の棋士として28年ぶりの七番勝負に挑んだが、3勝2敗から後を連敗し、関西の悲願は成らなかった。
翌2006年は山下敬吾が4-0のストレートで棋聖を奪回、翌年の小林覚の挑戦も4-0で降し、実力を見せつけた。2008年には「七番勝負の鬼」趙治勲を挑戦者に迎えたが、乱戦に次ぐ乱戦を制してフルセットで山下が防衛、翌2009年には、実力者依田紀基をも4-2で撃破し、4連覇を達成した。2003年から2010年まで、1期を除いて山下は毎年挑戦手合に登場しており、現代の「棋聖戦男」と呼ばれた。
2010年、山下が5連覇による名誉棋聖資格の獲得、挑戦者の張栩がグランドスラムの達成、という対局者双方に大きな記録が懸かった勝負となった。結果は張栩が4-1で山下を降し、山下の名誉棋聖資格獲得を阻むと同時に、史上二人目のグランドスラムを達成した。
2011年、前期にグランドスラムを達成した張栩と挑戦者・井山裕太によって争われた。張栩が、3勝2敗で防衛に王手を掛けた第6局2日目の3月11日には、対局場となった山梨県甲府市の常磐ホテルも地震に見舞われ、8分の一時中断後打ち切り、張栩が1目半勝で防衛に成功した。翌2012年も高尾紳路の挑戦をフルセットの末に降して3連覇を果たすが、2013年には井山裕太の再挑戦の前に4-2で棋聖を明け渡す。井山は23歳で史上最年少棋聖となると共に、史上初の六冠王、3人目のグランドスラム達成を果たした。
2014年からは、現行の4段階リーグにシステムが変更となった。「棋聖戦男」山下敬吾は2014~2016年、2019年と4度挑戦権を獲得したが、井山がこれをすべて撃退。また河野臨の3度の挑戦も跳ね返すなど、棋聖戦最長となる9連覇を果たした。2022年の第46期挑戦手合では、一力遼が井山を3-1と追い込む。ここから井山は2勝を返して最終局にもつれ込むが、一力が最終局を制して初の棋聖奪取を果たした。
第46期まで、棋聖を冠したのはわずか10人。そのうち名誉棋聖の藤沢、小林光一、井山と、名誉棋聖にあと一歩まで届いた趙と山下の5人で通算36期を制している。
コミは1-27期は5目半。28期からは6目半。Sリーグ・挑戦者決定トーナメントは持ち時間5時間の一日打ち切り、挑戦手合は8時間、封じ手による二日制で行われる。
予選は第40期より棋聖戦4段階リーグ方式。過去には最高棋士決定戦方式、棋聖戦2リーグ方式で行われていた。
第40期(2014年12月11日-)より、囲碁界初の4段階リーグを創設。S(定員6名、成績によりうち2名が降格)、A(定員8名、昇格2名・降格4名)、B(B1・B2定員各8名、昇格各2名・降格各3名)、C(定員32名、6名昇格・陥落16名)の4段階のリーグとファーストトーナメント予選(FT、約400名から16名が昇格)に再編された。
S・A・Bは総当たりリーグ戦。Cはスイス式トーナメントで原則5回戦を行い、5連勝した棋士が首位、3敗した棋士はFTへの陥落が決まり対局打ち切りとなる。
挑戦者決定トーナメントは、Sリーグの首位と2位、Aリーグ首位、B1リーグ・B2リーグ首位同士でのプレーオフの勝者、Cリーグ首位によるパラマストーナメントで行われる。下位のリーグの棋士から順に勝ち抜き戦を行い、勝ち上がった棋士がSリーグ1位と対戦。挑戦者決定戦は、Sリーグ1位の棋士に1勝のアドバンテージがある変則三番勝負で行われる。
Bリーグから挑戦者が出た場合はSリーグの陥落者が一人、Cリーグから挑戦者が出た場合はS・Aリーグの陥落者が一人ずつ増える。
なお、本方式が初めて施行された第40期では、Sリーグ及びAリーグ1-6位には39期棋聖戦A・Bリーグの出場棋士が成績順に並び、Aリーグの残る2人とBリーグの棋士は、過去3年間の棋聖戦の成績順に選ばれた。
この方式により以前はリーグ入りしている棋士以外は1敗すればその期は終了だったのが、負けても残りの対局でチャンスが残る形式となった。
一方で上のリーグに昇格するのには時間が必要になる(ファーストトーナメント予選からSリーグ到達まで、順番に行けば3期かかる)が、各リーグで1位になれば挑戦者決定トーナメントに出場でき、挑戦手合出場も狙える。ただし本制度が採用された第40期以降、全てSリーグ1位通過者が挑戦権を獲得しており、下剋上が起きたことはない。
また、第40期より、アマチュアもネット棋聖戦で最上位のSAクラス4強入りをすることでFTに出場できるようになった。第45期棋聖戦では、第6回ネット棋聖戦で優勝した栗田佳樹がFTを突破し、アマチュアとして初めてCリーグに進出している。
第1期から9期までは、各段戦、全段争覇戦、最高棋士決定戦の三段階によるトーナメント制であった。まず初段から九段までの各段ごとのトーナメント各段優勝戦を日本棋院と関西棋院の混合で行う。続いて初段から六段までの優勝者による勝ち抜き戦と、七、八段戦の準優勝者以上、九段戦ベスト4以上によるトーナメントを組み合わせた全段争覇戦を行う。そして全段争覇戦のベスト8以上とタイトル保持者を加えての最高棋士決定戦を行い、この優勝者が棋聖位保持者との挑戦手合七番勝負を行なう。第1期は最高棋士決定戦の決勝七番勝負で棋聖位を決定、2期以降は決勝戦は三番勝負。
また、最高棋士決定戦の出場者には、棋聖審議会の推薦棋士という枠もあり、選考に恣意的な側面も残っていた。
第10期からは、全段争覇戦と最高棋士決定戦が一本化され、24期まで続いた。
第25期から39期までは、棋聖戦リーグによる挑戦者決定方式が採用された。まず日本棋院と関西棋院でそれぞれに院内予選を行い、それぞれの勝ち抜き者による最終予選での4名の勝ち抜き者と、前年の挑戦者(または前棋聖)、前年のリーグ戦の残留者の8人を加えた計12人をAリーグ・Bリーグ各6名に分けて、総当りリーグ戦を行う(AリーグとBリーグに優劣の関係はない)。両リーグの1位同士が挑戦者決定戦一番勝負を行い、勝者が前年の棋聖位保持者と挑戦手合七番勝負を行う。リーグ戦は各リーグの4位までが残留、下位2名が陥落となる。リーグ成績が同率の場合は、前年順位で順位を決める。
予選は第28期までは日本棋院の院内予選は各段を4グループに分けて最終予選出場者を決定、関西棋院の院内予選は全棋士によるトーナメントで行われていたが、第29期以降は日本棋院東京本院と日本棋院中部総本部・関西総本部・関西棋院の2つに分けて最終予選出場者を決める。
六段以下の棋士が棋聖リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する規定であった。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まった時点で八段に、さらに棋聖位を奪取した場合九段へ昇段することとされていた。
棋聖を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉棋聖」となる資格を得る。
○●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。第1期はトーナメント決勝七番勝負。
◎は挑戦者。
◎は1位通過。○は2位通過。▼は降格。
◎は挑戦者。◯は挑戦者決定戦進出者。
1998年までは毎年、1999年からは原則2年に一回、第1局は海外で行われている。以下1997年(第21期)以降、海外対局の行われた国名(都市名)を挙げる。
挑戦手合七番勝負の模様は、囲碁名人戦七番勝負と同様、「囲碁棋聖戦」という番組名でNHKでテレビ放送されていた。過去には囲碁・将棋チャンネルで七番勝負を生中継されていたこともあった。現在は挑戦手合終了後囲碁フォーカスでダイジェスト放送
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