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徳川宗堯


徳川宗堯


徳川 宗堯(とくがわ むねたか、旧字体德川 宗堯)は、江戸時代中期の大名。常陸水戸藩4代藩主。官位は従三位・左近衛権中将、参議。

生涯

宝永2年(1705年)7月11日、高松藩主・松平頼豊の嫡男として誕生。母は湯浅方淑の娘・喜智(西御部屋)。幼名は軽麻呂。正徳元年(1711年)11月、大伯父である水戸藩主・徳川綱條の養嗣子となり、鶴千代と改める。

享保元年(1716年)、将軍・徳川吉宗から偏諱を賜り宗堯と名乗る。少年時代から英邁で知られており、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継いだ。自ら朝夕の食事を一汁三菜とし、倹約に努めて行き詰まっていた藩政を立て直そうとしたが、享保15年(1730年)4月7日に死去した。享年26(満24歳没)。

綱條の嫡子徳川吉孚の一人娘美代姫を御簾中とし、美代姫との間にもうけた次男宗翰が家督を継いだ。

有能で文化人としても優れていたため、徳川光圀の再来と讃えられた。著書に「成公文集」がある。

逸話

「水戸紀年」には、宗堯が死去する際、附家老の中山信昌が来て、鶴千代(宗翰)を御簾中・美代姫に抱き取らせ、「自分が再び来るまでは、何も食べさせてはならず、誰の手にも渡してはならない」と話したという逸話が載っている。

風聞によれば、高松藩より養子入りした宗堯は、生母喜智を讃岐国から呼び寄せ、小石川邸内に新御殿を建てて住まわせた。この新御殿に仕える元・高松藩士岡島弥兵衛の娘礼武が宗堯の目に留まり、側室となって長男・軽麻呂(頼順)を産んだ。嫡子かと浮き立っていたところ、翌年に美代姫が鶴千代(宗翰)を産んだので、こちらが嫡子となった。新御殿から鶴千代宛てに饅頭が贈られ、それを美代姫の部屋に来ていた宗堯が口に入れたところ、宗堯は腹痛を訴えて程なく急死したという。

官歴

※日付=旧暦

  • 宝永2年(1705年)7月11日 - 誕生。軽丸(軽麻呂)を称す。
  • 正徳元年(1711年)11月 - 徳川綱條の養嗣子となり、鶴千代と改める。
  • 正徳4年(1714年)5月 - 従四位上に叙し、左衛門督に任官。
  • 享保元年(1716年)12月18日 - 元服し、将軍徳川吉宗の偏諱を授かり、宗堯と名乗る。同日、正四位下に昇叙し、左近衛権少将を兼任。
  • 享保3年(1718年)
    • 10月15日 - 家督を相続し、水戸藩主となる。
    • 12月1日 - 従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任。
  • 享保5年(1720年)12月1日 - 参議に補任。

系譜

  • 御簾中:美代姫(1708-1746) - 徳川吉孚娘
    • 次男:徳川宗翰(1728-1766)
  • 側室:礼武 - 岡島弥兵衛娘
    • 長男:松平頼順(1727-1774) - 駒込松平家
  • 養子
    • 女子:定姫 - 松平頼豊娘、近衛内前婚約者

脚注

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演じた俳優

  • 西村和彦(「八代将軍吉宗」、NHK、1995年)
  • 伊庭剛(「暴れん坊将軍VIII」、テレビ朝日、1997年)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 徳川宗堯 by Wikipedia (Historical)



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