国鉄151系・161系・181系電車(こくてつ151けい・161けい・181けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流用特急形電車である。
国鉄初の特急形電車として1958年(昭和33年) - 1963年(昭和38年)に製造された151系電車(当初の制式名称は20系電車)を基本に、山岳線区対応と耐寒耐雪仕様への設計変更を行い1962年(昭和37年)に製造された161系電車、151系・161系の性能向上と仕様統一を行い1964年(昭和39年)11月以降1969年(昭和44年)までに改造もしくは新製で落成した181系電車に発展した。
151系・161系・181系の3系列は技術面・運用面での連続性が大きいことから、本稿ではこれら3系列を一括して解説を行う。
1956年(昭和31年)秋の東海道本線全線電化に伴い、東京 - 大阪間を6時間30分で運転する電車特急が計画され、翌1957年(昭和32)に完成した国鉄初の新性能電車となる90系電車(後の101系)を基本に設計された国鉄初の特急用電車が20系電車であり、1959年(昭和34年)6月の車両称号規程改正で151系電車に改称された。
最初に投入された列車の愛称名から「こだま形」とも称された。
161系電車は1962年(昭和37年)に運転開始された上野 - 新潟間特急「とき」用に製造された。151系電車をベースに車体構造は共通設計としたが、山岳線区かつ冬期は豪雪地帯である上越線での運用に対応させるべく耐寒耐雪構造とした上で機器類や走行装置の設計変更を行った派生系列である。
181系電車は1964年(昭和39年)以降に151・161系へ仕様・性能を統一した改造により落成した系列であり、1966年(昭和41年)・1969年(昭和44年)・1978年(昭和53年)には新製も行われた。
日本の鉄道の大動脈である東海道本線は、国防上の観点から沼津 - 京都間が第二次世界大戦後まで非電化であったが、1956年(昭和31年)11月19日に全線電化が完成した。特急列車「つばめ」「はと」が全区間EF58形電気機関車牽引となり、所要時間もそれまでの8時間から7時間30分へスピードアップが達成されたが、戦後の東海道本線は輸送量の増進がとどまらず、全線電化によるさらなるスピードアップを踏まえ、東京 - 大阪間を日帰り可能な6時間30分で結ぶ特急列車が計画された。
当初は機関車牽引列車(客車列車)により行う構想であり、EH10 15高速試験車と10系軽量客車による試験が実施され、最高で120 km/hを達成。さらに同年12月5日の下り、6日の上り「つばめ」を東京 - 米原間で試験的に牽引した。本試験結果は特に問題もなく、実績を反映してEH10形をより高速化・軽量化した優等旅客列車牽引用の8軸電気機関車EH50形製造計画も進められ、1956年(昭和31年)には最大運転速度120 km/h、機関車重量102.4 t以下、主電動機1基あたりの出力は325 kW以上といった計画の概要が決定した。しかし、軸重の大きい電気機関車牽引での連続高速運転には軌道強化などに膨大な投資が必要等のデメリットが大きいと判断され、動力集中方式の機関車牽引による高速列車計画は断念された。これを受けて、高速列車運転は日本の鉄道事情に合う動力分散方式の電車で行うとの方針に転換された。
当時は80系湘南電車による長距離電車運転も順次拡大していたが、国鉄内部では「電車は音が大きく乗り心地も悪く長距離に向かない」という認識も根強くあった。しかし、将来は電車特急が主流になるとの技術者の強い信念もあり、国鉄内部でも電車特急による運転方針が決定。1957年(昭和32年)9月には小田急電鉄よりロマンスカー3000形SE車を借り受けての高速度試験が東海道本線で行われ、狭軌では当時の世界最高速度である145 km/hを記録した。同年10月 - 11月には国鉄初の新性能電車90系による高速度試験が行われ、当時の国鉄最高速度となる135 km/hを記録するとともに浜松 - 米原間で長距離高速試験列車が運転された。この試験結果も合わせ、電車による長距離高速運転を行う準備が確立した。東京 - 大阪間を日帰り可能とする本構想は、出張などのビジネス形態に便利とのことからビジネス特急と呼ばれるようになった。
車両設計に大きく関わったのは島秀雄国鉄技師長と星晃主任技師である。車両デザインは高速運転を考慮した高運転台ならびに客室の騒音源となる機器類を遠ざけて収納するボンネットを持つスタイルが採用された。1958年(昭和33年)2月 - 3月には大阪大学の風洞で前面形状の5分の1スケール模型と実物大ユニットクーラーの空力試験が実施され、良好な結果が得られた。
1958年(昭和33年)5月には列車愛称と先頭部シンボルマークの一般公募が行われた。各駅にポスターが掲示されるとともに同月4日の新聞夕刊紙上に発表された。
愛称名は既に他の列車で使用中もしくは将来使用予定のある「富士」を避けるなどの条件が付けられた上で、電車特急の軽快さと東京 - 大阪間日帰りのイメージに合うとして374票の投票があった「こだま」に決定した。
シンボルマークは新設特急以外での将来の使用を配慮し、列車愛称を含まないとした上で円形内に図案を描いた既存のヘッドマークとは異なるスピードを象徴するデザインを求めたが、現実にはこれらの条件を無視したヘッドマークを描いた案が約半数だったほか、小中学生によると思われるクレヨン・オイルパステルなどを使用して安易に描かれた作品も多数存在した中、応募総数5,537点から約800点の候補を選出し、6月末の最終選考で三重県上野市(現・伊賀市)在住の男性による逆三角形の図案が採用された。
同時に先頭車の側面を飾る「国鉄」のロゴタイプも選ばれ、シンボルマーク公募佳作の中からスピード感を持たせたJNRマークが採用された。 20系電車は同年9月に落成し、同年11月1日より国鉄初の電車特急「こだま」として運転を開始した。
構体は10系客車を踏襲した軽量セミモノコック構造である。車体長さは中間車が20,000 mm(最大長20,500 mm)、先頭車が21,000 mm(最大長21,250 mm、1960年(昭和35年)以降は21,600 mm)である。
車体断面は最大車体幅が車両限界一杯の2,946 mm、腰板部は半径3,000 mmの裾絞りを設け、側窓から上(幕板)は内側に2°傾斜させた形状とした。特急形車両であり定員乗車を前提としたため、屋根高さは3,350 mmと極力低く抑えられた。この屋根高さは後の481系や183系以降の特急形電車よりも低い。客室床面高さは1,110 mm、天井高は2,100 mmである。
騒音防止と冷暖房効果向上を図り、構体内面にはアスベストの吹付けやグラスファイバーの貼付けを施工した。
本系列を最も特徴付けるエクステリアデザインは、高速運転に備えて運転士の視界を確保するため高く上げられた運転台、騒音発生源を客室からできるだけ遠ざけるため電動発電機 (MG : 150 kVA) や空気圧縮機 (CP : 3,000 L/min) を搭載する運転席前方のボンネットによって構成される。保守点検の容易さとスピード感を両立するため角に丸みを持たせてボンネットの上部が下部より若干突き出た構造を採用する。
前面形状の設計にあたっては、星晃が1954年(昭和29年)にヨーロッパの鉄道視察中に試乗したイタリア国鉄ETR300形展望特急電車を参考にした。運転台は高速運転に最適として高運転台構造が採用されたが、踏切事故での衝突の危険性から展望室の採用は見送られ、従来の電車では床下に吊り下げられていた電動発電機(MG)・空気圧縮機(CP)を格納する機械室を前面に設けたボンネット構造となった。
また前灯・尾灯はボンネットの両側面に設けられたケースに収められ、さらに前灯1灯を運転台屋根上に搭載した。当時の日本国有鉄道運転規則(省令)では前灯は1灯と決められていたが、110 km/hという未曾有の高速運転を実施するにあたり、運輸大臣(当時)の特認を得て遠方視認性向上を目的に増設された。下部前灯には非常時の後方防護用として左右交互点滅回路が装備されており、列車の最後部となる時には乗務員室内に格納された赤色フィルターを装着する。
屋根上前灯横左右には、通過標識灯やマーズライトとしての機能を持つ青紫色に点滅するマーカーライトが設置された。本ライトはアメリカ合衆国の長距離バスに倣ったものとされ、始発駅入線時や主要駅通過時の注意喚起に使用した。
旅客乗降用扉は新たに開発したTK100形小型軽量直動式ドアエンジンで駆動する幅700 mmの片引き戸を各車両の片側1ヶ所に設け、座席車では原則後位側に乗降デッキと併せて設置した。ただしモハシ21形はビュフェと客室の境界を、後に製造されたクロ151形は区分室と開放室の境界を兼ねるため車体中間部に設置するほか、クロ151-7事故廃車に伴い方向転換の上で緊急改造されたクロ150-3は例外的に乗務員室扉次位に旅客乗降用扉を設置する特異な構造となった。
客室内は防音を図るため床はキーストンプレートの谷を利用し防振ゴムをはめ込んだ「浮床構造」を採用。電動車は電動機点検口を廃止した。
空気抵抗低減を目的に、連結面間には車体断面全周を覆う形でゴム製外幌が採用された。
塗色はクリーム4号を地色とした上で窓回り・裾・雨樋に赤2号の帯が巻かれ、後の「国鉄特急色」の原点となった。これは当時国際的に注目されていた欧州のT.E.E.列車に倣ったものである。下部のライトケースは逆に赤2号を地色とし、クリーム4号による細線を3本通した翼をイメージさせるものとした。窓回りとライトケース回りの帯端部は、運転台前部窓に対して60度の傾斜角度を持つ。当初は側面の赤帯を前面へ回すことも検討されたが不採用となった。
前頭部に設置された特急の「T」を意匠化した逆三角形エンブレムのデザインは、一般からの公募で寄せられた原案(先述)を手直ししたもので、応募総数5,000通以上の中から選定された。これらは後に製造されたほとんどの国鉄特急用電車・気動車にも特急の一貫したイメージとして採用されたほか、EF66形電気機関車では正面ナンバープレート台座の意匠としても採用された。
側面にもステンレス製の新たな国鉄マークを取り付けることとなり、特急エンブレム公募の選外佳作デザインの中からスピード感のあるJNRマークが採用された。JNRマークは国鉄広報部の広報資料や公式パンフレットを始め、国鉄鉄道連絡船のファンネルマーク、国鉄コンテナ(黄緑6号への塗替え後)、国鉄バス(ピンク色の特急色以降)にも使われ、国鉄分割民営化までの新たなシンボルマークとなった。
本系列以前の機関車牽引特急列車では愛称と絵が入ったヘッドマークやテールマークが装着されていたが、本系列では五角形状のアクリル樹脂製電照透過式愛称板を前面中央部に掲出するスタイルに変更。白地に愛称名を黒、その下に赤のローマ字で記す方式となった。当初は「こだま」以外の定期運用がなかったため固定式であったが、1960年の「つばめ」電車化により交換可能な構造に変更された。
先頭部には連結器を常備せず、非常時に取り付けるためのスペースのみが設けられ、通常はその部分を赤く塗装した四角いカバーで覆う形を採用した。
座席は、3等車が2人掛け回転クロスシート、2等車が2人掛けリクライニングシートを採用。窓ガラスは2等車が座席1脚分で幅975 mm、3等車が座席2脚分で幅1,435 mmの大きさとなった。完全空調方式を採用したことから、側窓は乾燥空気を封入した二重ガラス複層固定窓が採用された。
冷房装置は分散式のAU11形で、各車の屋根上に中間車は6基、先頭車は5基搭載された。2基を1組(5基搭載車は1組が1基のみ)とした上で、「キノコ型」と呼ばれるカバーが設置されている。暖房装置は従来と同じく座席下に電熱ヒーターを搭載するが、架線から直流1,500 Vを直接通電する従来の方式をやめ先頭車搭載の電動発電機 (MG) から供給されるサービス用交流電源から給電へ変更した。
トイレ・洗面所を各車両に設置し、外国人客を考慮してサロ151形には洋式トイレを採用した。トイレ側窓は小さくして外部から人影が見えないように配慮し、臭気抜き窓は上部が内折式で7 cmだけ開く構造である。
走行機器類は90系電車を基本としており、CS12A電動カム軸多段抵抗制御器により2両分8基のMT46A形主電動機を制御するMM'ユニット方式を採用。高速運転に備えて歯車比3.50・弱め界磁率35 %とし、SELD発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキを搭載。当初の4M4T→6M6T編成で10パーミル勾配均衡速度103 km/h(速度種別A3)、起動加速度はMT比1:1で毎秒1.3 km/h、同2:1で毎秒1.6 km/hの性能とされた。
台車は、空気ばね台車が国鉄電車で初の本格採用となった。DT21系を基本に、枕ばねを空気ばねとしたDT23形・TR58形を装着する。台車枠は軽量化のために6 mm厚のプレス鋼板が用いられ、揺れ枕つりの支持方式はナイフエッジ式、補助空気室は上下分割式、空気ばねパンク検出装置はマイクロスイッチ式が採用されている。
パンタグラフは、PS16形の集電舟支え装置の改良等を加えたPS16A形を採用した。
「こだま」の運行開始当時は台車を含む床下機器がグレーに塗装されていたが、運行開始後に全般検査を担当した大井工場の要請で他の国鉄電車と同様の黒に変更された。
1950年に登場した80系湘南電車による長距離電車運転の実績ならびに90系新性能電車の技術を元に国鉄初の特急型電車として1958年に落成したのが20系電車である。当初は旧形式称号規定により落成したが、1959年6月の車両称号規程改正で151系に改称された。東海道新幹線開業前の東海道本線のみならず国鉄黄金時代を象徴する車両で、1959年には第2回鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞した。
1958年11月1日よりビジネス特急「こだま」として営業運転を開始、1959年7月31日には高速度試験が行われ、当時の狭軌鉄道世界最高速度となる163 km/hを記録した。
1960年には客車特急「つばめ」「はと」の電車化が行われ、展望客車に代わる特別座席車のクロ151形「パーラーカー」も組み込まれた。1964年の東海道新幹線開業後は山陽本線系統の特急に転用されたほか、一部車両が上越線特急「とき」へ転用される際に性能向上工事を施工し181系へ改称。また山陽本線転用車も1965年以降同様の工事を施工され181系化され、1968年以降に485系への置換えにより、上越線・信越本線・中央本線特急に転用された。
151系のまま余剰休車となったサロ151-6・サロ150-2も1969年までに「あさま」増発用として181系に改造され、151系は形式消滅した。
1959年6月1日付の車両称号規程改正により、20系の各形式は151系に改称改番された。
当初から151系として製造されたのは、1959年12月に実施された「こだま」暫定12両編成化で増備された以下の3形式からである。
1960年(昭和35年)6月1日ダイヤ改正で実施された客車特急「つばめ」「はと」の電車化に伴い、以降に製造されたのが以下の形式である。
以下の2形式は20系時代に新造された形式であるが、増備は1961年・1962年に行われており、以下の設計変更を実施した。
1958年製造車は20系電車、1960 - 1963年製造車は151系として落成した。
ビジネス特急「こだま」運転開始に伴い製造されたグループ。川崎車輌・近畿車輛・汽車製造の各社で8両編成が1本ずつ、計3編成24両が製造された。田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)に配置され、同年11月1日より営業運転を開始した。
編成はクハ+モハ+モハシ+サロによる4両ユニットを基本とし、これを背中合わせにした8両編成が組成された。背中合わせで中心となるサロの連結面に回送運転台を設置した。
開発当初は車両称号規程の一部改正が検討されており、電車形式整理案により50系が仮称されていたが、改正が間に合わない事から当時空形式となっていた20系が選択された。落成当初より規定改正が検討中であったため、車両番号表示は車体とは別の鋼板にステンレス製の切抜き文字を貼り付けネジで固定し、改番時には旧番号板を取り外して新番号板と交換する方法が採用された。
1959年の形式称号規程改正により151系へ改称された。
「こだま」は速達性のみならず当時の水準を超越した快適性を示したことから、1959年2月まで電気機関車が牽引する客車特急「つばめ」「はと」も1960年6月に本系列への置換えが決定したが、それに先立ち同年12月には年末年始における輸送力増強と置換え準備のため1960年5月末までの12両暫定編成を組成することになり先行落成されたモロ151・150形ユニットとサハ150形が該当する。
従来編成の神戸方4両ユニットにモロ2両、東京方4両ユニットにサハ2両が組み込まれた暫定12両編成化は第2次増備車が落成するまでの約半年間ではあるが、定員は2等車208名・3等車464名の計672名となり、1列車としては最も定員の多い編成である。増備車の車体構造は1次車と同様であるが、以下のような設計変更が行われた。
1960年6月1日のダイヤ改正で客車特急「つばめ」「はと」電車化に伴い増備された従来の展望客車に代わる特別座席車のクロ151形「パーラーカー」や国鉄電車では初の本格的全室食堂車となるサシ151形を含む36両が該当。本増備により12両編成6本が組成されたが、一部車両は方向転換も伴う大規模なものであったため事前に72両分の模型が作られ綿密な計画が練られた。 同年7月1日の3等級制から2等級制への移行により、従来の3等車が2等車に、従来の2等車が1等車となった。2等車として落成していたモロ・クロ・サロの車両は、等級改正後に等級表示「2」の上に「1」の表示板が被せられたほか、以下の変更を実施した。
1961年10月の白紙ダイヤ改正伴う増発用として製造されたグループ。クハ・モハシは3年ぶりの製造となり、サロを除く各形式が増備された。編成は従来の12両編成×6本から11両編成×11本と予備車7両の計128両となった。本増備車では以下の設計変更が行われた。
1962年6月の山陽本線広島電化に伴い「つばめ」1往復を延長運転することとなり川崎車輌で製造された11両編成×1本である。
本増備では、保守点検や編成変更の際に多大な手間が掛かった外幌を廃止したほか。クロ151-12は貴賓車予備を兼ねたことから、区分室側窓に防弾対応強化合わせガラスを装着した。
また電動車の台車は、台車枠を9 mmの一般構造用圧延鋼板に強化し、形式もDT23B形へ変更。
東海道新幹線の開業の目処が立ち151系の転用が検討され始めた時期であったが、東海道本線の増大する輸送量は限界を迎えており再び12両編成化されることになり、11両編成×12本に2等車を増結するため川崎車輌ならびに近畿車輌で製造されたサハ150-13 - 24の12両が該当する。 これをもって151系の増備は終了し、形式番号と同じ151両が製造されたことになる。
本系列の改造工事は性能向上や改良、編成変更による仕様変更を目的にしたものが主であり、車両番号変更を伴う形式改造は181系化を除くと脱線大破事故により廃車となったクロ151-7の代替となったサロ150-3→クロ150-3のみである。
新性能電車のフラッグシップ的存在であった本系列でもまだまだ改良の余地が多く、151系としても増備車が登場する度に微細なマイナーチェンジともいえる改良が加えられているため試作車の量産車化改造に近い部分もある。
改造工事は1959年の暫定12両化時、1960年の「つばめ」「はと」151系化時、1961年ダイヤ改正前の3回にわけて行われた。改造施工はいずれも大井工場。
1961年10月1日のダイヤ改正ではサロ1両が減車されることになったが、同時に増発され編成も5本増備されることになったため余剰となったサロ150形を新編成に組み込むと同時に回送運転台を取付ける改造工事を施工。3位側に回送運転台と妻部に窓・前灯・尾灯等の新設し、後位寄りの貫通引戸を4位側に引くように変更などが施工された。なお1962年増備のサロ150-11は当初より回送運転台を設置する。
空気抵抗低減と編成美のために採用された外幌は、当初の1枚式からファスナー式とするなどの変更が加えられた。しかし曲線通過時や保守点検・組成変更時の不具合が大きく、1962年以降の増備車では外幌が省略されるとともに、以前の車両からも撤去された。同時に内幌を一般的なタイプへ変更した。
サロ151形は洋式トイレ付で製造されたが、1961年10月の1等車1両減の11両編成化で和式トイレ付のサロ150形と共通運用されること、編成組成位置が洋式トイレ付のモロ150形次位であったことなどを理由に1962年6月から翌年3月にかけて大井工場で和式化改造が施工された。
当時鉄道車両で使用されていた空調機器は冷房のみであったが、ヒートポンプ式では電熱による暖房回路が省略できることから車両設計の面で合理的な利点があり、東海道新幹線での採用が決定した。このため1962年7月にサロ151-6へ試作機となるAU54形を搭載し実用試験を行った。
1963年9月8日、上り「第1こだま」の東京での折り返し運転に伴う点検時にモロ151-8の台車側はりに亀裂が発見された。原因は6 mm厚の特殊鋼板を使用していた台車枠が運転の酷使により亀裂を生じたもので、151系全車を点検したところ大井工場で中空車軸の亀裂が発見された。中実車軸への交換を兼ねて、同年中に27両(電動車21両・付随車6両)から9 mm厚の普通鋼板を用いた改良型のDT23Z・TR58Z形への交換が開始され、浜松工場および鷹取工場で台車枠を新製し、大井工場で台車枠の取替が行われた。181系改造時にDT23B形以外の全車の台車をDT23Z・TR58Z形に交換している。
増加する外国人客に対して英語の車内放送を行うことになり、サロ150・151・モロ151の各形式乗客専務車掌室に磁気録音されたシートの再生装置シンクロファックス(商品名 : リコー シンクロプレーヤー)を取り付け、1963年6月10日より使用開始した。
1964年10月1日のダイヤ改正で120両が向日町運転所に転属したが、その運用の中には新大阪 - 博多間運転の「つばめ」「はと」も含まれており、電気機関車牽引で交流電化の九州島内へ乗入、サヤ420形電源車からサービス用電源供給を受けられるように6編成が改造された。
交流電化区間である鹿児島本線へ乗り入れるため、九州乗り入れ改造が決定するまでに次の4案が考慮された。
当初は第1案の交直流車化改造で検討が進められ、交流機器・パンタグラフをM'車に搭載するなどの改造案が作成された。しかし交直流車化改造は改造費が予想以上に高く、工期も少なくとも8か月必要であることから断念された。151系は将来の信越本線や中央本線といった直流電化線区への転用を前提として、暫定的な九州乗り入れが実施されることになった。
第4案の専用機関車案も、特殊な新形式車両を少数製造することになるため選外となった。第2案のサシ151形改造案も、工期・費用が予想外に大きいことから選に漏れた。
第3案の電源車方式は機関車+電源車+電車の3車種による編成となるが、準備が出来次第1964年10月より直ちに運転可能という大きな利点があることから、151系の九州乗入は本方式に決定された。サービス電源発生装置は最も手戻りの少ないことや運転上支障の少ないこと等を考慮して、将来はモハ420形への転用を前提に車体基本構造ならびに塗色は従来の421系と同一とし、サービス電源用MGを床下搭載するほか専用引通線などを装備したサヤ420形電源車が予備車を含み3両新製。電気機関車は本系列への補助回路とサヤ420形の非常パンタグラフ下げ回路を内包したジャンパ連結器を装着する対応改造を施工したEF30 2 - 8が下関 - 門司間を、ED73 15 - 22が門司 - 博多間を牽引した。
以下は本系列の改造内容である。
田町区所属の特1・4・5・7・9・11編成には、1964年4月から8月にかけて浜松工場で改造が行われ、改造車は側面ナンバーを赤く塗装して他の編成と区別した。このため九州乗入対応車は「赤ナンバー車」と通称された。
翌1965年に交直流電車の481系が「つばめ」「はと」用に増備され九州乗入は終了した。サヤ420形は計画通りにモハ420形へ転用、乗入対策車は181系化改造時と同時に復元された。その際に一部のクロ・クハ181形は、スカート警笛部の穴が完全に埋め込まれるなどの変形車が出現した。
1964年4月24日の特急「第1富士」脱線事故で廃車となったクロ151-7の代替として、事故車編成のサロ150-3が先頭車化改造を受け、クロ150-3となった。詳細は、こちらを参照のこと。
20系として製造された24両、当初から151系として製造された127両で計151両中事故廃車となったのは後述するクロ151-7のみである。事故詳細については日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#「第一富士」脱線事故を参照し、以下で車両面・運用面での解説を行う。
東海道新幹線開業直前の1964年4月24日、東海道本線草薙 - 静岡間を運転中の下り「第1富士」が踏切を横断中のダンプカーと衝突し、以下の車両が被災した。
復旧に際し行われた検討でクロ151-7は以下の2点から、国鉄新性能電車の第1号廃車となった。
当時の田町区は12両編成12本と中間車7両が配置されていたが、使用11本であった上に事故直前から東海道新幹線開業後の九州乗入れ改造が既に開始されていたこともあり、予備車が確保できず予備編成なしの深刻な車両不足状態となった。
事故当日の下り「第1富士」の大阪 - 宇野の区間運転と折り返しとなる上り「うずしお」の代走には高槻電車区所属の80系電車7両編成が投入された。
直後にゴールデンウィークを控えていたこともあり、翌日から次のような運用で運転が確保された。
クロ151-7は廃車となったが、代車として営業上および体面上の理由から7月以降の夏期繁忙期に間に合う1等先頭車が必要とされた。このため本事故で被災し脱線小破したサロ150-3を種車に急遽選定し、修理復旧と以下に示す先頭車化改造を浜松工場で同時施工した。
落成は事故から約2ヶ月後の1964年6月27日付となり同年7月1日より運用に投入されたが、わずか3ヵ月後には東海道新幹線開業と181系化改造のために運用から離脱。再度浜松工場に入場し運転室部分を残し新製した2等客室部分と接合する再改造が施工されクハ181-53となった。
上述2回の改造によりサロ150-3時代の車両構体は全く残っておらず、新車時から変更されていない部分は台枠と一部機器のみとなった。クハ181-53は田町電車区→新潟運転所で「あずさ」「とき」に充当されたが、1975年に「とき」への183系1000番台置換えで余剰となり廃車解体された。
1962年に新設された上野 - 新潟間の特急「とき」用として、151系の車体に157系の機器類を組み合わせた特急型電車である。勾配区間に対応した抑速ブレーキを搭載するほか、寒冷地に対応した耐寒耐雪構造が採用された。
1962年6月の信越本線長岡 - 新潟間電化完成により、東京 - 新潟間を上越線経由で結ぶ特急電車を運転する計画が立案された。東海道本線と同じ151系であれば共通運用による運用効率向上を見込めるが、本来平坦線区用の151系が20 ‰の勾配が続く上越国境の山岳区間での運用に適するかが問題となった。
1961年に151系と157系による性能試験が上越線で行われたが、151系は勾配区間で主電動機が過熱し、試験運転は打ち切りとなった。一方で157系は試験結果が良好であったため性能は157系が適していると判断されたが、冷房装置搭載・耐寒耐雪対応・食堂車設定の課題から157系をそのまま上越線特急に使用することには問題があった。
加えて地元新潟でも「こだま形」スタイルへの要望が強かったこともあり、上越特急の電車は151系の車体に157系の走行機器を組み合わせ耐寒耐雪構造を採用した電車を投入することになり、形式は修学旅行用電車の159系に次ぐ161系が付与された。
1962年に1編成9両編成×1本と予備車6両の15両が製造された。配置は全車とも田町電車区である。
1964年の東海道新幹線開業に伴い全廃となった東海道本線昼行特急に充当されていた151系のうち余剰となった28両を上越線運用に転用することになり、性能を向上した181系に編入改造を施工。また同年に発注したクハ161形2両とサシ161形1両は製造途中で181系40番台に変更され1965年に落成。161系として製造された15両も車両運用の効率化の観点から1965年5月 - 6月に181系40番台に改造され、国鉄新性能電車初の系列消滅となった。
編成は上越線の勾配区間や輸送需要を考慮してMT比を151系の1:1から2:1とした6M3Tの9両編成となり、パーラーカーやビュッフェ車は製造されず全室食堂車が組込まれた。また歯車比も151系よりも低速寄りとした157系と同じ4.21の設定とした。実際に営業運転でも性能が同等の157系との併結運転が行われた。
東海道新幹線開業後の151系転用も考慮された結果、車体は151系の構造が踏襲された。塗装は151系と同様であるが、降雪時の遠方視認性向上および車両基地で151系と識別のためボンネット先端に赤帯が入れられた。耐寒耐雪構造によりスノープラウ(排雪器)を取付け、前面スカートをショートタイプにするなどの差異がある。ドアレールヒーターなど耐寒装備も強化しており、寒冷な山岳地帯での運転に対応した。
主抵抗器は耐雪面で有利な強制通風式のMR22A形とし、主制御器も勾配対策として抑速ブレーキを装備したCS12C形を搭載するが、ノッチ戻し機構はない。
台車は枠板を9 mm厚に強化し、空気ばね自動高さ調整弁に耐雪カバーを取り付けたDT23C形とTR58B形を搭載し、車軸は中実軸に変更された。
モロ161形・モロ160形ではシートラジオ・列車電話も使用線区の電波事情を考慮して廃止されたが、雪に閉じ込められた場合などを考慮し、ラジオ放送を車掌室で受信し必要に応じて放送装置を通じて全車に放送できる構造とした。
クハ161形は主幹制御器が異なるために抑速ブレーキの使用は不可能となるものの151系との混結使用が可能であり、1964年のクロ151-7脱線転覆大破事故により営業運転に投入された実績がある。
151系・161系の2系列を1964年以降に仕様統一した系列で、151系からの改造車150両、161系からの改造車15両、製造途中で161系から変更され181系として落成した3両、新製車59両、485系電車からの改造車3両の総計230両のグループである。
上越新幹線開業に伴う1982年11月15日ダイヤ改正で「とき」運用が廃止されたことにより定期運用を終了。経年劣化ならびに余剰による廃車を除いた一部車両は保留車とされたが、最後まで残存していたモハ181-113・114・モハ180-113 - 115・サロ181-1053の計6両が1986年3月31日付で廃車となり廃系列となった。このためJRグループへの継承車は他系列へ改造された車種以外存在しない。
1964年10月の東海道新幹線開業により、151系は山陽・九州方面と上越線方面の特急に転用されることとなったが、151系では山陽本線瀬野八区間での補助機関車連結、161系では上越特急のスピードアップが課題とされ、勾配区間でのスムーズな運転が困難な状況にあった。また将来には山岳路線への投入も予想されたため151系と161系の出力を増強し、両系列を統一させ1964年11月に落成した系列が181系である。
従来の国鉄新性能車標準主電動機であった出力100 kWのMT46形直巻整流子電動機は東海道本線最大勾配区間である10 ‰をMT比1:1で運転可能な性能が維持されていたが、1960年代以降に電化された山岳線区となる信越本線・中央本線に介在する最大25 ‰連続勾配区間でもMT比1:1で運転可能な大出力電動機が要望された。これに対応するため1963年3月には153系を山岳線区での運転も含み強化した165系で出力を120 kWに向上したMT54形主電動機を開発し初投入。引き続き交直流両用では453・473系・481系、近郊型では113系・115系・403系・423系などにも搭載し実績を積み、新たな標準主電動機になるとともに各地に運用範囲が拡大した。
1959年6月改正の国鉄新性能電車形式称号規定では、10の位は1 - 4が近距離形、5 - 8が長距離形、9が試作相当と区分されていたが、1964年7月に10の位は8が特急型と再改定されたことから、系列名は181系と決定した。当初は山陽向け改造車は近郊形電車の113系に、上越向け改造車は115系に相当する改造が計画されており、山陽向けは183系、上越向けは185系と仮称された。このうち山陽向け車は抑速ブレーキは装備せず151系から搭載する自然通風式主抵抗器を引き続き使用する計画であったが、将来の転用を考慮し抑速ブレーキ装備ならびに強制通風式主抵抗器を搭載する上越向け車と統合し、系列も181系とされた。
151系・161系と最大の相違点は出力向上した主電動機にあり、主電動機を100 kWのMT46系から120 kWのMT54系に換装し、歯車比3.50・弱め界磁率40 %に統一された。この出力増強によって10 ‰勾配における均衡速度は481系と同等の120 km/h(速度種別A20)となったため山陽特急運用では広島 - 八本松間のいわゆる瀬野八越えで補助機関車連結が不要となった。
制御装置は勾配対策でノッチ戻し制御が可能で抑速ブレーキを搭載したCS15B形に、主抵抗器は強制通風式のMR78形としたほか、制御車の主幹制御器も対応したタイプへ変更。
151・161系からの改造車の台車はDT23B・C形・TR58B形を除き強度を増した改良型のDT23Z形・TR58Z形に交換。
山陽向け車は、上越向け車に施工された耐寒耐雪装備を省略して落成しており、後の関東地区再転出時に施工されたが、対策は十分でなく長年の高速走行による各部の疲労も相まって後年の豪雪時に故障が多発した。
信越本線充当車は、1966年以降に碓氷峠通過のため横軽対策を追加施工した。
最初期に改造された車両は田町電車区所属で山陽特急転用から除外され上越線運用に充当となる特6・特8編成に組成されていた12両×2本と予備車6両のうち余剰となるサロ151-6・150-2を除いた28両で、大井工場ならびに浜松工場で施工された。
以後は1966年までに保留車2両を除き向日町運転所所属の151系ならびに田町電車区所属の161系も改造施工され181系として出場。1966年の中央本線特急「あずさ」と信越本線特急「あさま」の運転開始に合わせて新造車である100番台も投入。1969年にも増備されたほか、保留車2両も1968年と1969年に本系列化工事を終了した。
本項では、151系・161系からの編入車と新造車の番台区分による形式解説を行うものとする。
151系・161系から改造されたグループ。151系からの改造車は0番台(元番号)、161系からの改造車は40番台(元番号+40)に編入された。施工は向日町配置車が吹田工場、田町配置車が161系は全車大井工場、151系はこちらの表を参照のこと。
なお1964年に161系として発注された3両は、製造途中で181系に変更されて1965年1月20日付で落成しているが、40番台に区分された。
車体・車内設備は151・161系の設備を踏襲し、新製された3両についても同様な構造で新製車の台車は当初よりTR58Z形を装着する。モロ150形の乗務員室はモロ160形と同様の乗客専務車掌室に変更され、151系時代に装備していたシートラジオ・列車電話・食堂車の列車位置表示装置は改造時に撤去された。
当初から181系として新製されたグループ。新形式となったクハ180形は0番台とされたが、他形式は100番台に区分した上で製造された。1966年に「とき」増発と新たに設定された「あさま」「あずさ」用として田町電車区へ45両が、1969年に「あさま」増発用として長野運転所へ8両が配置された。
台車はDT32系の枕はりの高さを低くしたDT32C・TR69Cを装着。また中央東線の狭小トンネル対策である通称「山用対策」を全車に、また1966年製造車のうち「あさま」充当車ならびに1969年製造車には碓氷峠通過のため横軽対策を新造時から施工済。
1978年の「とき」の編成変更では、183系1000番台以降に確立された電車特急編成のMG搭載車を3両とする3MG化が推進され本系列でも同様な抜本的体質改善の観点から、日本車輌が6両製造したMG・CPを床下に搭載するグリーン車である。
本番台区分は、1976年から製造されたサロ481形1000番台の基本設計を踏襲しており、上越新幹線開業後にサロ481形への転用改造が考慮され、485系同様の高い床面や車体断面に差異があり、本系列新造車では唯一となる側面方向幕ならびにAU13EN形分散式冷房装置を搭載する。
181系としての運用が終了した1982年 - 1983年に、当初の予定通りサロ481形1500番台へ改造された。
151・161系→181系と同時もしくは後に車種間改造されたグループ。
モハシ150形・180形→モハ180形の改造車。車両番号はモハシ150形・180形+50に区分された。改造内容は種車の客室部を流用の上、ビュフェ設備および中央出入台・前位側トイレ・物置を撤去し、後位側出入台・トイレ・洗面所の新設などが行われているが、出入台寸法などが従来のモハ180形と異なるほか、屋根上クーラーはモハシ時代の配置をそのまま流用しており、長野配置となった51・52・55・57・62は横軽対策を施工した。また改造施工時期の違いで以下のグループに分類される。
1964年の東海道本線運用終了後に田町配置のまま上越線特急へ転用されたグループ。1965年3月10日付で181系化改造と同時にモハ化を浜松工場で施工。1969年に新潟へ転出。
1968年に特1・2編成の山陽特急→関東地区転用に際し浜松工場で改造されたグループ。転用後は田町→新潟→長野配置となった。
山陽特急でのビュフェ利用率低下を受け営業廃止後となった1970年10月から1971年3月にかけて吹田工場で改造されたグループ。1972年から1973年にかけて関東地区転用により向日町から53・54・60・63が新潟へ、55・57・62が長野へ転出。
長野配置車は1975年中に189系へ、新潟配置車は59・63を除き183系1000番台へ置換えで1976年までに廃車となった。また残存した59・63も1978年の「とき」3MG化による編成組成変更により運用離脱となり、63の1979年2月20日付廃車で廃区分番台となった。
山陽特急転用後のパーラーカーは利用客が少なく、1965年10月にパーラーカー特別座席料金が東海道時代の1,650円から500円に大幅値下げされてからも利用率が低い状態が続いた。このため、クロ181形の開放室を2等室(現・普通車)とする改造が行われることとなり、1等・2等合造車のクロハ181形となった。クロ181形10両のうち貴賓予備として残された11・12を除く8両が対象となり、吹田工場で施工された。
外観はサハ181形とは異なり窓の配置は変更されず、等級表記文字の取付位置を区分室寄りに変更した以外は種車と同一である。開放室割付の関係から2等客室のシートピッチは在来車よりも広い980 mmとなり、荷物棚は強度の関係で吊り下げ型のパイプ式に変更された。
1973年までに全車クハ181形60番台及びクハ180形50番台に再改造され形式消滅した。
クロ150-3→クハ181-53を除き、クロ151形・クロ181形・クロハ181形を種車としてクハ181形・クハ180形へ改造したグループの区分番台。
運転台部分はそのままに、客室部は新たに製造した構体を接合する改造方法を採用したことから、特徴あるパーラーカー車体は姿を消したほか、オリジナルのクハ181形・クハ180形との比較では車体長が500 mm短いにもかかわらず定員を同一の56名に合わせたため出入台部・トイレ・洗面所の寸法を短縮。このため当該部分側窓は種車の窓ガラスが流用されたため小窓であるほか、窓間柱も狭くシートピッチが5 mm短縮された。車両番号は1965年に151系から直接クハ181形へ改造されたクロ150-3・クロ151-6ならびに1968年にクロ181-11から改造された3両は、車両番号を種車+50としており、後の改正施工予定でも古い文献によっては50番台とする表記もあるが、1972年以降に改造されたグループは62 - 65の続番で落成した。
クハ180形は信越特急「あさま」「そよかぜ」増発用に信越本線横川 - 軽井沢間でEF63形電気機関車との連結に対応する改造を含めて施工された区分。0番台車は床下機器を種車ならびにクハ181形と逆転配置としたが、本区分番台は種車のままとした。車両番号はクハ181形改造車と異なり種車の車両番号とは関係なく改造落成順に51から付番されており、51のみ1969年に郡山工場(現・郡山総合車両センター)で、52 - 55は1972年 - 1973年の山陽特急から転用時に長野工場(現・長野総合車両センター)で改造施工された。長野運転所配置となったが1975年の189系置換え時に全車廃車となった。
またクハ181形前頭部は、1965年改造車がボンネット部に赤帯を入れた以外はロングスカートならびに屋根上前灯を装備したままとされ、1966年の「あずさ」充当に伴い山用改造を施工。61 - 64はクハ化時に山用改造を同時施工した上でショートスカートへ換装。65は帯無かつロングスカートで落成し、後に赤帯を追加したなど若干の差異がある。なおクハ180形改造車は全車赤帯追加ならびに専用スカートへ交換された。
山陽特急には、1965年以降481系・581系が投入され余剰となった181系は関東地区への転出を開始するが、両地区では編成が異なるため先頭車のクハ181形が関東地区で不足することは確実であった。そのため1968年に関東地区転出となった特1編成に組成されていたサハ180-1・13を浜松工場で改造した区分番台である。
改造内容は、種車前位寄りに100番台に準じた前頭部を追設。連結面間長さなどの諸元は台枠を延長し従来のクハ181形と同様としたが、1次車 (1 - 6) やクロ150-3→クハ181-53と同様に運転台直後ユニットクーラーに外気取入口や運転台屋根上の前照灯・空気笛・ウィンカーランプも100番台同様に当初から未装着なほか、車両番号表示が1次車と同じステンレス切抜き文字を貼り付けた鋼板で取付るなどの特徴がある。
落成後は田町電車区へ配置されたが、1969年7月の運用移管で新潟運転所へ転出。183系1000番台への置換えにより1975年中に廃車となり区分消滅。
種車のサロ151形から専務車掌室・ビジネスデスク・回送運転台・前灯・標識灯を撤去し普通車化した改造。1・5は181系化改造と同時に施工されているが、4は一旦サロ181形に改造後の再改造で落成。また車両番号は引続きそのままの状態である。
窓幅・窓配置も全面的に変更しており定員もサハ180形と同一の72名であるが、サロ時代の名残でトイレ・洗面所を前位側に設置し、出入台妻面に回送運転台窓が残存するほか、車端部屋根上排気送風機取付位置が後位側などの相違点がある。
改造後は、田町→新潟配置となり「とき」「あずさ」で運用されたが、1・4は1973年の「あずさ」運用移管に伴い長野運転所へ転出。横軽対策も施工され「あさま」「そよかぜ」にも充当された。183系1000番台ならびに189系への置換えにより、3両とも1975年中に廃車となった。
1978年の「とき」編成変更ではモロ181・180形ユニット・サハ180形・サシ181形が編成から除外されたが、グリーン車は新たにサロ2両組込に対応して10両が必要になった。これに対しMG・CPを搭載するサロ181-1101 - 1106の6両が新製されたが、残り4両は逼迫する国鉄財政を顧みて余剰車両を有効活用させる観点から改造で落成したグループである。
種車は「あさま」「あずさ」の運用終了後も長野運転所で休車のままとなっていたサロ180-101であり、1978年6月の新津車両管理所で整備改造と改番を行った上で新潟運転所へ転入した。
種車は鹿児島車両管理所(現・鹿児島車両センター)所属のサロ481-26 - 28。新製された1100番台車と同様に本系列より床面高さが高いため貫通路に桟板設置・車端ダンパ移設・サボ受け追設などの改造が施工された。
改造車2形式は上越新幹線開業後に廃車とする計画であったが、1982年11月の運用終了後にサロ180-1001・181-1051・1052はサロ110-301 - 303へ改造。1053のみが廃車となった。
またサロ181形は、オリジナル車が1976年に全車廃車され一旦廃形式となっているため、2回廃形式になっている。
1978年10月2日の白紙ダイヤ改正で「とき」は183系電車1000番台と編成を統一することになり、余剰となるモロ181・180形は車齢の若い100番台が新津車両管理所(現・総合車両製作所新津事業所)で普通車のモハ181・180形に格下げ改造され誕生した区分番台である。
上越新幹線開業時に廃車が予想されていたため改造は最小限に留められ、グリーン車特有の小窓のままでありシートピッチと窓配置が一致しない。改造時にモロ180形はトイレを洋式から和式に変更し、モハ181形は乗務員室を客室化したため定員は従来の同形式より4名多い72名となった。
151系・161系→181系への改造のほか、クロ・クロハ181形→クハ180・181形やモハシ180形→モハ180形以外にも数々の改造工事が施工された。ここでは、上述した車両番号変更を伴う改造工事を除いた車両性能の変更や車体構造に関係する工事について解説を行う。
1966年12月に中央東線新宿 - 松本間で「あずさ」の運転を開始したが、高尾以西の狭小トンネル対策として田町電車区所属の0・40番台車に施工された以下の改造である。
100番台車では製造時から施工されているが、向日町運転所所属車が関東地区へ転出の際にも施工された。また161系時代も含み田町配置の181系に施されたボンネット部赤帯は施工編成識別を示すことにもなり、向日町から転入したクハ181形も同様に赤帯追加とミニスカートへの交換を実施したが、1972年以降に転入した車両の一部はこれらを省略して施工された。
信越特急「あさま」「そよかぜ」充当車は、横川 - 軽井沢間でEF63形による推進・牽引運転となるためにジャンパ連結器などを装備するクハ180形が製造されたほか、以下の装備が100番台では新製時から、その他の車両は改造で装備された。
1970年代前半に向日町運転所所属のクロハ181-3・5・8・9/クハ181-3・5・7・9・11が、重量のあるヘッドマーク交換作業省力化ならびに盗難防止の見地から吹田工場でヘッドマークを独特の「ロールマーク」式に改造された。
動作は電動自動巻取式だが故障時にはヘッドマーク正面向かって右側に取り付けられた差込口へクランクハンドルを差し込むことで手動操作も可能なものであり、従来の透過式アクリルヘッドマークも装着可能である。
向日町から転出後にロールマークは使用されていないが、クランクハンドルの差込口が残されているので識別は可能。
181系ではサロ並びにサシ・クハ181形が両渡り構造を採用し、同車を境に引き通し線をクロスさせるが、クハ180形では転用問題から、サハ180形では編成組成の都合上両渡り構造に改造する必要が生じたために施工された。
信越特急「あさま」は、8両編成までの制限があったためにサシを組み込めず、また碓氷峠通過車両は安全上の見地から峠の下側に重量のある電動車を集中させる策が取られたためサロを長野方のクハ181形の次位に組み込む形になった。そのため引き通し線をクロスさせることが出来ずクハ180形は偶数向固定の片渡り構造となっていた。
1975年の「あさま」「あずさ」189系化でクハ180-4・5は、新潟運転所へ転出し「とき」に転用されることになったが、そのままでは編成に組み込めないため事前に長野工場で両渡り構造への改造工事が施工された。
1976年に「とき」の第一次12両化が行われたが、その際にモロユニットを方向転換すればサシ181形で引き通しがクロスされるのでそのまま組み込めることになるが、作業時間・保守・MG負荷均衡化の問題からサハ180形を両渡り構造へ改造して対応させた。
参考までに1975年(昭和50年)4月14日に上越線で土砂崩落事故が発生し、5月26日の復旧まで「とき」は運転本数を削減したことから、輸送力増強のため4月26日から5月26日まで暫定12両編成を組成した。その際はサハ180形の改造工事が完了していないためサシ181形を挟んで新潟方にMM'ユニットを組み込んだ。
本系列から113・191・485・489の各系列への改造車がある。このうちサロ481形への改造履歴は#サロ181形1100番台を、サロ110形への改造履歴は#サロ180形1000番台・サロ181形1050番台を参照のこと。
ユニットの相手方を失い休車となっていたモハシ180-11と車種間需給調整で余剰となったサハ180-5を種車に改造された架線と信号設備を同時に検査する事業用車が191系である。1973年5月の落成後は田町電車区に配置され主に首都圏の通勤路線で運用された。
1972年にサシ181形100番台2両にサシ489形への転用改造を施工した。台車を改造の上で床面高さを揃えているが、181系と485系では車体断面が微妙に違うために若干の違和感が見られ、車両の向きも従来のサシ489形と逆であるほか、調理室区画側妻面に回送運転台を増設した。
1978年の「とき」編成変更で投入されたグリーン車のうち新製のサロ181形1100番台は、製造当初から485系への編入を想定した設計であり、「とき」運用終了後にサロ481形1500番台へ改造された。外観上の変化は車端ダンパ交換程度である。6両中5両が先頭車化改造を経て、2001年時点では4両が車籍を有していたが、そのうちジョイフルトレインへの改造種車となったため新しい構体に載せ換えた2両が、2022年いっぱいまで残存していた。
本系列最後の車両構体維持車であったサロ181-1101→サロ481-1501は、1990年に先頭車化改造でクロ481-1104へ、続いて1993年に仙台運転所へ転出し、磐越西線特急「ビバあいづ」用半室グリーン車のクロハ481-1501へ改造。2003年には勝田電車区(現・勝田車両センター)へ転出し、2013年まで波動運用対応のK40編成に組成され廃車となった。
このほかジョイフルトレインへの改造は3両が施工されており、サロ181-1106→サロ481-1506へ改造後に常磐線特急「ひたち」などで運用されたが、1998年に「ニューなのはな」のクロ484-5に再改造されたものの2016年に廃車された。最後まで車籍を有していたのは「リゾートやまどり」に組成されるクハ485・484-703の2両で、これが2022年12月に運用を終了したことで、485系の全廃と同時に181系として新製された車両も全廃されたことになる。
サロ180-1001・サロ181-1051・1052は東海道本線東京口113系用グリーン車サロ110形300番台へ1983年に改造された。しかし老朽化や2階建てグリーン車サロ124・125形への置換えで1991年までに全車廃車となった。
1984年2月ダイヤ改正での九州地区の特急列車増発短編成化では、必要な先頭車が不足することが明らかになった。このため同年1月に上越新幹線開業で保留車になっていたクハ181-109・クハ180-5をクハ481形500番台へ編入する改造が施工された。
1986年11月改正で設定された「にちりん」下関発着列車に充当された際、交直切替スイッチがないため小倉で運転打切というトラブルが発生したことから、同年11月にスイッチ取付の追加改造が急遽施工された。
国鉄分割民営化後はJR九州に承継。502が1991年6月に、501が1993年(平成5年)に廃車となった。これをもって「こだま形」の流れを汲む181系はすべて姿を消した。
181系の総車両数は230両であるが、1両が以下の事故廃車により車籍を抹消された。
1979年1月17日、下り特急「とき21号」として運転中に上越線沼田 - 後閑間で踏切事故に遭遇。モハ181-202は炎上した乗用車を巻き込み火災を発生させた。同車はモロ181-102として製造されたが、前年秋に「とき」の基本編成変更のために普通車格下げ改造が行われ竣工数ヶ月での事故となった。
この事故でユニットの相手を失ったモハ180-202は、廃車前提の休車になっていたものの比較的状態の良かった1962年製造のモハ181-29と新たにユニットを組み運用に復帰した。モハ181-29は151系から改造された最後の1両として1982年の運用終了まで使用された。一方で同車とユニットを組んでいたモハ180-13と事故当該車のモハ181-202は1979年2月20日付で廃車となった。
本項では20→151・161・181各系列を統合した上で以下の路線別運用にわけて解説を行う。
なお、車両基地名や工場は当時の名称で記載するほか、1960年代後半から1970年代前半に運転された首都圏発着の季節特急や臨時列車などの営業運転に充当されたケースについても解説を行う。
昭和33年度本予算で製造された8両編成×3本計24両を田町電車区に配置。1958年11月1日から東京 - 大阪・神戸間の新設特急「こだま」2往復に使用2本・予備1本とし、以下の運用に充当した。
それまでの電気機関車牽引による客車特急「つばめ」「はと」が同区間を7時間30分運転としていたのに対し、「こだま」は当初6時間50分運転で東京 - 大阪間の日帰りを形式的に可能とした。
1959年4月10日の皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して同月10日と12日に東京 - 伊東に成婚奉祝記念全車座席指定臨時準急「ちよだ」が運転された。同列車は皇太子の成婚にあやかったカップルのみを対象とした新婚旅行列車であり、20系電車を使用した唯一の準急列車となった。充当されたB5・B6編成は特製のハート型ヘッドマークならびに花のイラストが施された乗降口脇愛称札を装着して、以下の時刻で運転された。
この後の同年6月に車両称号規定改正により151系に改称。さらに8月には滋賀県で開催された日本ジャンボリー臨席の皇太子用として、7日の101T下り「第1こだま」と10日の102T上り「第2こだま」がサロ151形1両増結の9両編成で運転された。
「こだま」の3等乗車率は運転開始から好評で平均95 %を上回っていたため1958年12月28日 - 31日・1959年1月4日 - 7日・5月3日 - 5日・26日を除く8月18日 - 29日に予備編成のMMb'ユニットを5 - 6号車間に増6・7号車として増結し、10両編成(増結ビュフェは営業休止)での運転を行った。1959年9月22日から、大阪発着列車が6時間40分に短縮。神戸発着列車も下りが7分、上りが5分短縮された。さらに同年12月6日から13日にかけては、昭和34年度本予算で製造されたモロ151・150-1・3・5とサハ150-1 - 6を組込んで順次編成変更が行われ暫定12両編成に増強された。
なお、一連の乗客増に対しては1959年11月21日から1960年1月31日まで日光線運用が冬期減便となった157系電車を充当した臨時特急「ひびき」1往復も設定された。
1960年5月31日に昭和34年度1次債務で製造された増備車を組込んで12両編成×6本にする編成変更が行われ、翌6月1日のダイヤ改正では「つばめ」「はと」を電車化して、愛称を「つばめ」に統一。5編成を充当し以下の運用が組まれたほか、東京 - 大阪間の運転時間を6時間30分に短縮した。
客車特急で連結されていた1等展望車を廃止した代替として大阪方に「パーラーカー」クロ151形の連結、全室食堂車サシ151形も組み込まれた12両編成となり、日本の電車特急としては空前絶後の豪華編成となった。なお、1960年6月中は3等級制であったためパーラーカーは同月のみ2等車で運用された。
また157系電車で運転された「ひびき」は、1960年12月10日からほぼ毎日運転の不定期列車化されたが、以下に示す本系列の使用実績がある。
このほか1960年10月15日 - 22日に東京で開催されたアジア鉄道首脳者会議 (ARC=Asian Railways Conference) 出席者のため東京 - 京都間で運転された専用臨時列車への充当実績がある。
1961年10月のダイヤ改正では、東海道本線でも昼行特急列車が大幅に増発されることにより、昭和35年度本予算で56両を増備。編成は1等車1両が減車された11両編成×11本と予備車7両なり、運用は10本充当で以下の列車に充当された。
このほか東京 - 大阪では151系5往復のほか、157系による不定期特急「ひびき」1往復も運転されていたが、同年夏までに早期落成した車両により先行的充当が行われた。
1962年6月には山陽本線広島電化が完成。キハ82系で運転されていた大阪 - 広島の特急「へいわ」を吸収する発展的解消で下り「第一つばめ」上り「第二つばめ」1往復が広島まで運転延長となり、列車番号ならびに運用の一部変更が実施された。
従来の下り「第一つばめ」→上り「第二つばめ」運用を分離させたことから、1編成分運用増となり、昭和36年度2次債務で11両編成×1本(特12編成)が増備された。
瀬野八と通称される山陽本線瀬野 - 八本松間には22.5 ‰の連続急勾配区間があり、MT比1:1の151系は出力不足と主電動機の熱容量が問題になった。電動車を増やせば自力登坂も可能だが、編成が変わり他列車と共通編成が組めなくなるデメリットや変電所容量などでも問題があるため上り列車の広島 - 八本松間はEF61形電気機関車を補機として連結し、八本松駅構内走行中に自動解放が実施された。
同年10月には、曲線通過速度の向上により生み出された余裕時分を活かして静岡にも全列車が停車することになり、安倍川橋梁上での乗務員途中交代が廃止された。これにより乗務員9名の仕業変更と交代要員2名用客室座席を浮かせることを可能にした。
1963年には4月20日から157系不定期特急「ひびき」を定期列車化。8月には昭和37年度2次債務で製造されたサハ150形が1両増結され再び12両編成となった。8月の組込時は夏期輸送用増号車扱いで正式な組込は10月1日のダイヤ改正からである。これに伴い1往復分増発に相当する輸送力増強が図られた。
これをもって151系の増備は終了。形式名と同じ151両全車が田町電車区に配置された。また編成変更直後の同年9月17日に昭和天皇と香淳皇后は岡山大学付属病院に入院中であった四女池田厚子見舞いの帰途、上り「第2富士」のクロ151-12区分室に岡山→大阪間で乗車した。これは前日往路のキハ82系特急「みどり」に後部へキロ80形を含む3両を増結し昭和天皇夫妻が営業運転列車に初めて乗車したものである。また1964年には、香淳皇后が東京 - 岡山間で2月15日の下り「第1富士」、翌16日の上り「第2富士」のクロ151形区分室に乗車した。
1964年5月に発生した事故によりクロ151-7が事故廃車。同年10月1日の東海道新幹線開業により、向日町運転所に転出し山陽特急に転用される120両と田町電車区に残る30両に分離。東海道特急での運用を終えた。
東海道特急での運用終了直後の10月3日 - 25日には東京オリンピック開催にあわせて田町残留となった特6・特8編成を充当し、東京 - 熱海間臨時急行「オリンピア」が運転された。なお、同列車は全車指定席とされたものの食堂車・ビュフェは営業休止扱いとした。
この後は予備車6両のうち保留となるサロ151-6・サロ150-2を除き181系化改造が施工された。
1964年の東海道新幹線開業で、特6・特8編成と編成に組み込まれない予備車を除いた田町区の151系120両が向日町運転所に転入した。新大阪発着となる東海道新幹線連絡特急ならびに田町から移管された「うずしお」に以下の運用で充当された。
1965年(昭和40年)10月1日のダイヤ改正では481系増備車落成により「つばめ」「はと」の九州乗入は中止となった。
失った九州乗入運用と引換に新設となる新大阪 - 広島間「しおかぜ」2往復・「しおじ」1往復の増発に転用されたほか、「うずしお」「ゆうなぎ」は宇野線の変電所容量問題から、営業運転では電動車ユニット1組をカットする特殊運転が行われていたが、容量増強に伴い解消となり、スピードアップを伴う運転時刻改正ならびに列車番号が変更となった。
また同年5月から181系化改造工事を開始。1966年(昭和41年)10月のダイヤ改正までに終了した。
山陽本線転用後は1等車の利用減少が大きく、1965年(昭和40年)12月にはサロ1両を減車。クロ181形も1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて貴賓車予備の11・12を除き、順次開放室を2等席に改めてクロハ181形に改造された。
1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正では、軌道強化工事完了に伴う最高速度120 km/hへの向上・運転時分の短縮・同一方面の列車愛称統一などが実施され、定期列車は新大阪 - 広島・下関「しおじ」と新大阪 - 宇野「うずしお」それぞれ3往復ずつ、予定臨時では大阪・新大阪 - 広島「しおじ」1往復充当の運用減となった。
本改正から1号車のパーラーカーをクロハ181形に統一することになり、貴賓車予備のクロ181-11・12は特1・特2編成のクロハ181-1・2と差し換えられ、それぞれクハ180-51・クハ181-61に改造施工。特1・特2編成が田町区へ再転出。関東地区の特急増発に転用された。
また編成組成では、MG負荷平均化のため7号車に連結されていたサハ180形は方向転換の上で4号車に組成変更された。
さらに1969年(昭和44年)10月1日のダイヤ改正では、以下の変更を実施。
この結果運用は以下に変更。
関東地区の車両増備と利用者減に伴うモハシ180形→モハ180形への改造の関係から配置車両の見直しが行われ、特4編成からモハ181-4+モハシ180-4のユニットを解きモハ181-4は長野に転出。そのため編成単位での配置が崩れ、10月のダイヤ改正時点で7編成と予備車9両の86両となった。
1970年(昭和45年)10月1日のダイヤ改正では、583系を「しおじ」1往復に充当し5往復化が行われ、充当列車ならびに列車番号や号数の一部変更を実施。
1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正では、山陽新幹線岡山開業に伴い「うずしお」を廃止し、新たに岡山 - 下関「はと」3往復と送り込みならびに帰所を兼ねた新大阪 - 下関間「しおじ」1往復に運用を変更。余剰車は新潟・長野に転出した結果配置は11両編成×5本・予備車4両・休車1両の計60両となった。
しかし同年10月1日のダイヤ改正で、特5編成が「とき」増発のため新潟へ転出。「はと」運用1往復減となった上に残存した運用ならびに送り込み・帰所対応の「しおじ」1往復も485系に置換えられ同年11月までにすべて終了したが、新たに大阪発着の「しおじ」1往復に充当された。
しかし、新規「しおじ」運用も1973年(昭和48年)5月25日に485系への置換えにより消滅。全車が関東地区での転用のため長野・新潟へ転出し、同年10月31日に向日町運転所の配置が終了した。
田町電車区に新製配置された161系9両編成x1本と予備車のMsMs'ユニット・MM'ユニットがそれぞれ1組ずつ4両とTc・Tdが1両ずつ計15両により1962年6月10日から運転開始された上越特急「とき」は以下の編成で運転された。
この運用スタイルは東海道新幹線開業後までも守られていたが、この間には昭和38年1月豪雪による長期運休、ならびに1964年6月1日 - 30日にはクロ151-7脱線大破事故による157系との混成編成による運転なども行われた。
1964年10月1日には東海道新幹線開業による東海道特急全廃が実施され、151系の田町残留車は特6編成と特8編成ならびに予備車の計30両。これらから余剰車となるサロ151-6・150-2を除いた28両が上越特急増発に転用されることになった。そのため大井工場(現・東京総合車両センター)と浜松工場で151系の出力増強・勾配抑速ブレーキの装備・耐寒耐雪装備などのいわゆる181系化改造工事が施工された。
1965年1月にクハ181-44・45とサシ181-43が汽車会社で落成。上述した大井工場施工17両に浜松での改造施工車11両と合せた計31両が181系化。出力増強により編成も7号車にサハ180形を組込んだ10両化の上で3本と予備車1両により、1965年3月に2編成を充当し「とき」は2往復に増発。
なお大井工場施工車は、改造後も181系へ改番せず暫定的に151系のまま出場したことから、「とき」は151・161・181の3系列すべてが定期運用として充当された特急列車となった。
1965年5月 - 7月にかけて161系15両も改造を施工。田町所属車の181系化は、保留から余剰休車となった2両を除き完了した。また1966年3月にMG負荷平均化のためサハの連結位置は方向転換をし4号車に変更された。
1966年10月のダイヤ改正用に181系新製車100番台が落成し、信越本線直江津電化に対応した上野 - 長野に「あさま」2往復が新設された。「あさま」は碓氷峠通過の制約で食堂車不連結の8両編成が組成された。また、上越特急「とき」も1往復増発の3往復となった。
さらに同年12月には中央本線大月 - 初鹿野(現・甲斐大和)間の複線化を含む改良工事が完成し、「とき」と共通運用で新宿 - 松本「あずさ」2往復の運転を開始した。
1967年9月28日に新清水トンネル開通に伴い同年10月1日にダイヤ改正を実施。「とき」は10 - 15分の運転時間短縮を達成すると同時に下り第三・上り第一の1往復が東京駅発着となった。
1968年10月1日ダイヤ改正では、向日町運転所からの転入車によって、「とき」が定期3往復・季節2往復、「あずさ」が定期2往復・季節1往復・臨時1往復に増発。「あさま」が直江津までの区間延長を含む1往復増発と季節列車の「そよかぜ」2往復へ充当された。
1969年7月1日付で田町電車区から運用移管が行われ、新潟運転所に「とき」「あずさ」用94両、長野運転所に「あさま」「そよかぜ」用32両が転出した。また同年増備の100番台車8両は当初から長野配置となったほか、向日町運転所からモハ181-4が転入した。
1970年10月1日のダイヤ改正で「とき」は定期6往復、「あずさ」は定期2往復・季節2往復に増発。1971年4月26日からは立山黒部アルペンルートの開通にともない、「あずさ」のうち1往復が大糸線に季節列車として信濃大町まで延長運転された。
1972年3月15日のダイヤ改正では「とき」7往復「あさま」5往復に増発されたほか、「あずさ」は以下の変更を実施。
また車両面では、改正前の同年2月 - 3月にかけてサシ181-102・103がサシ489形へ改造の上で向日町運転所へ転出したほか、今回の増発で「あさま」「そよかぜ」用のサロ180・181形は既に底をついていたため長野運転所に初めてモロ181・180-3が配置された。その結果、長野所属編成は以下の2種類となった。
予備車や検査の都合上中間車がすべて電動車という6M2T編成が組成されることもあった。
1972年10月1日ダイヤ改正では、向日町運転所配置余剰車が「とき」「あずさ」転用となり新潟運転所へ転入したが、一部の車両改造竣工がダイヤ改正後となることから、以下の増発となった。
「あずさ」は、季節運転2往復を定期格上げするとともに大糸線延長運転時の上り充当を5号に変更。
増発2往復のうち下り6号・上り1号の1往復は甲府発着で食堂車営業休止とした。また下り6号は12月15日まで、上り1号と運用が連続する松本発着の下り3号・上り4号1往復は同月16日まで幕張電車区(現・幕張車両センター)所属の183系0番台充当による運転で対応。
1973年3月31日をもって東京 - 上野間の回送線を使用した特急運転が東北・上越新幹線工事の影響で廃止されることになり、「とき」「あさま」「そよかぜ」の東京駅乗り入れが中止となった。
1973年10月のダイヤ改正では向日町運転所の山陽特急運用が終了。最後まで配置されていた29両のうち191系へ改造された2両を除く27両は新潟・長野へ転出し、以下の増発が実施された。
配置両数は新潟運転所が129両、長野運転所が88両となった。また「あずさ」編成は以下の2種類となった。
1973年10月改正後はクリスマス前後から新潟県中越地方に豪雪が襲い、12月28日までに上越線を中心に233本が運休し、本系列でも雪が原因となる絶縁不良が多数を占める故障が目立ち始め、翌1974年1月には「とき」最大5往復が運休する事態に発展した。
この事態を受け国鉄は車両運用上の観点から前面形状・冷房装置などを同時期の485系と同様に変更した本系列新製案を検討したが、故障が多発し老朽化も進んでいた初期車の経年問題と抜本的な改良のため、耐寒耐雪装備を大幅に強化した183系電車1000番台と189系を急遽開発し、置き換える方針を決定。1974年12月に「とき」充当用に12両編成x3本と予備のクハ183形2両の計38両を新潟運転所へ新製配置。同月28日から12両編成x2本を充当し「とき」13往復中3往復を置き換えた。この183系1000番台投入により、1975年3月11日付で余剰となったサシ181-1・8・10の3両が本系列初の老朽廃車となった。
1975年3月10日ダイヤ改正では「あさま」が2往復増発されたが、これらはすべて金沢運転所の489系による間合い運用によるものであり、長野運転所配置車は以下の運用に引き続き充当された。
「あずさ」は引き続き10両編成x4本で定期4往復、1本で季節1往復の運用充当となった。
同年7月1日には、碓氷峠での連結両数制限のため8両以上での運転ができなかった「あさま」定期5往復・臨時1往復と「そよかぜ」2往復に充当されていた運用全てを、輸送力増強のためEF63形との協調運転により最大12両編成が組成可能かつ耐寒耐雪装備を強化した189系電車へ置き換えた。余剰車55両のうち151系からの改造車31両は廃車となったが、以下の24両が同年6月 - 7月に「とき」用として新潟へ転出し、同数の新潟所属初期車が玉突き廃車された。
一方で「あずさ」は本系列での運用が続いたものの一方同年7月3日付で「あさま」「そよかぜ」用と共通予備となる189系10両編成x1本が追加落成したことから、代走充当が行われるケースも発生。さらにモロ181+180ユニットは9の同年11月5日付廃車で配置が終了し、同月19日に10両編成x1本も追加新製されたことから、同日付で正式に2運用が189系化され181系運用が1本のみとなった。
ただし、この充当もわずかの期間で同年12月4日と22日に189系10両編成x2本も新製配置となったことから、残存1運用も12月4日から189系化。10両編成x3本とクハ180形3両で計33両の長野配置車からモハ181・180-101・113・114のMM'ユニット3組6両が新潟へ転出。保留車となったサロ180-101を除き残りの26両全車が1976年1月までに廃車、クハ181-1を除き解体となった。
保留車のサロ180-101を除いて長野配置が終了した本系列は新潟集中配置とし「とき」運用専従となったが、1975年10月には183系1000番台による第2次置き換えを実施。運用が過半数の7往復を占めるまでになり、本系列も12両編成に増強されたが、長野からの転入車と183系1000番台新製配置による運用減のため1976年5月までに55両が老朽廃車となった。この時点で本系列は長野運転所保留車1両と新潟運転所所属車99両の計100両となった。このうち新潟所属車は12両編成x8本と予備車3両により、定期5・臨時1運用に充当された。
1978年10月1日ダイヤ改正で「とき」は1往復増の14往復となったが、本系列も3MG・CP化ならびに初期車の淘汰を主体とした抜本的な体質改善と183系との編成統一を実施することになり、同年7月18日からモロ181+180ユニット・サハ180形・サシ181形を編成から除外し、210 kVA MGならびに2,100 L/min CPを床下搭載し新製したサロ181-1101 - 1106を6号車に限定し、7号車には鹿児島運転所所属のサロ481-26 - 28を種車に改造したサロ181-1051 - 1053ならびに長野運転所所属の保留車サロ180-101に改造を施工し車番を1001へ改番した4両のいずれかを組込む組成変更が順次開始された。
「とき」運用は本系列の編成組成変更直前の6月15日と7月1日、改正当日である10月1日の3回にわけて行われた。
本系列は以下のスケジュールで老朽車が廃車された結果73両まで減少した。
当初の計画では151系として製造された車両を淘汰する予定であり、編成除外となったモロ181+180ユニットからは経年の浅い101 - 103にモハ181+180形200番台化する改造を施工することになり、同年11月8日付で102ユニットが、12月25日付で101ユニットが落成した。ところが1979年1月17日に#上越線踏切事故でモハ181-202が焼失。モハ180-202は急遽廃車予定だった1962年製造のモハ181-29とユニットを組成して復旧したために151系製造車が1両残る結果となった。
なお本系列の廃車は1979年にも以下のスケジュールで実施された。
またモロ181+180-103→モハ181+モハ180-203への改造は2月28日付で落成。これによりモロ両形式は廃形式となった。さらに1980年10月1日付でサシ181-43・101の2両が廃車廃形式となった結果、配置は以下の62両となった。
上越新幹線開業直前の1982年9月6日からは、サロ181形1100番台の485系化転用改造開始に伴い上述した「とき」3往復運用のうち1を183系1000番台への振替を実施。2往復での運用が最後となり、余剰廃車が同月16日から開始された。しかし、183系1000番台も「あずさ」転用車の長野転出が訓練のため同年10月から前倒しされたほか、「あさま」「そよかぜ」転用車は189系化改造が必須であることから予備車も不足気味となり、183系1000番台運用1仕業を幕張電車区所属の183系0番台9両編成x1本による代走充当を行った。さらに本系列も開業前に検査期限が切れる車両が多発したために一部でMM'ユニット1組減車の10両で運転を行ったが、それでも対応しきれず列車運休としたケースもあり末期には本系列が全く走らない日も発生した。
上越新幹線開業に伴う1982年11月15日ダイヤ改正で「とき」は同月14日の最終運行をもって廃止となった。これにより181系はすべての営業運転を終了した。
1960年代後半、好景気と所得倍増計画などにより以前にも増してレジャーの多様化が進んだ。また国際的避暑地である軽井沢のみならず、新たに開発された首都圏周辺のリゾート地やスキー場も脚光を浴びてきたこともあり、当時の国鉄は旅客輸送での増収を図ろうと臨時特急列車を多数設定し、本系列も投入された。
1965年5月27日には台風6号の影響で東海道新幹線が不通となり代替として在来線の東京 - 大阪間に臨時急行列車が運転された。東京発13時の列車に田町電車区の181系10両編成、大阪発13時の列車に向日町運転所の151系12両編成を投入。向日町所属車は折返し東京発22時30分の大阪行き臨時急行列車にも充当された。
本項では営業運転を除いた各種試験への充当について解説を行う。
1959年7月27日 - 31日にB3・B4編成(ただし中間のサロ車2両を外した4M2Tの6両編成)を使用して高速度試験を東海道本線金谷 - 藤枝間の上り線で行い、31日に202 km地点付近で163 km/hという当時の狭軌鉄道の世界最高速度を記録した。その功績を讃え本試験に充当されたクハ151-3・4の前頭部にチャンピオンマークが廃車直前まで付けられていた。同区間ではその後もクモヤ93000により引き続き高速度試験が行われ、速度記録は175 km/hに更新された。
1960年8月13日に日光線への入線試験を特1編成より2両減車して実施したが、同線への151系の投入は見送られた。なお試験結果は不明である。
1961年に151系電車と157系電車による上越線での勾配運転試験が実施された。157系の試運転に続いて、151系による試運転が6月21日・22日に新前橋 - 長岡間で行われた。
初日に行われた4M3T編成の試運転では連続勾配での電動機への過負荷による過大な温度上昇が見られ、土合で運転を打ち切った。2日目はサシ151-11を外した4M2Tで再度試運転を行ったが、長岡までの試運転区間は完走できたものの土合 - 湯檜曽間の20 ‰勾配区間では主電動機への過負荷による温度上昇は克服できず、設計陣は151系での上越線勾配区間の運転は不可能との判断を下した。
一方で1週間前に同時刻で試験を行った157系では走行結果が良好であったことから、上越特急には157系相当の性能が必要なことが確認された結果、1962年に151系の車体に157系の性能を持つ161系が投入され、上越線特急「とき」として運転を開始した。
151系は異常時を除き他形式との併結運転は実施していないが、153系電車との併結試験運転が2回にわたり実施された。
「あずさ」「あさま」運転開始を前にした1966年7月12日 - 14日には、11両編成で中央本線への、7月16日 - 18日には9両編成で信越本線への乗入れ試験を181系でそれぞれ行った。
東海道本線特急運用に充当されていた1958年11月1日 - 1964年9月30日の間は大阪地区に予備車がなかったことから、同地区で車両故障や異常が発生した際には宮原電車区(→宮原総合運転所→現・網干総合車両所宮原支所)所属の153系による代走運転が行われた。
このような突発的代走は、1960年の「つばめ」運転開始以降も大阪滞留編成の運用を変更して原則上り「第1こだま」→下り「第2こだま」に充当したことから、博多ラーメンの麺のみ追加注文を意味する替え玉をモジって「替えだま」と呼ぶようになった。
本代走は1959年から年に数回程度発生しており、いずれも単発事案であるが、例外として1964年に発生した#クロ151-7脱線大破事故での運用変更で同年4月25日 - 5月6日の上り「第1こだま」→下り「第2こだま」へ連続充当の記録がある。
また東京口かつ例外的な代走事案には、1964年1月24日の下り「おおとり」充当編成が田町電車区での出区前作業で車内に消毒薬を撒き過ぎ使用不可能となり、153系と157系の混結編成で運転されたケースがある。
山陽本線に転用されたグループは、1等車(現・グリーン車)の乗車率が芳しくなく1965年10月改正からサロ1両を減車し11両編成となった。捻出されたサロ10両は1966年10月ダイヤ改正で以下の転用計画が打ち出された。
電動車化は同改正までに完了できず、サロ481形化も同改正では需要がないことからいずれも中止となった。
しかし、同改正で関東地区では信越特急「あさま」中央特急「あずさ」の運転開始が計画されたことから別のサロ転用案が浮上。7両が「あさま」転用名義で、3両が「あずさ」ならびに共通運用となる「とき」用として需給調整を兼ねたサハ181形への2等車(現・普通車)格下げ改造を施工し、わずか2年で田町電車区へ再転出となった。
なお向日町からの転入車のほか、田町にはサロ150-2・151-6の2両が151系のまま保留車扱いとされており、この2両は1968年 - 1969年に181系化改造が施工された。
本系列のアクリル樹脂製ヘッドマークは、先頭車ボンネット前面中央部に白色の地に愛称名を黒で、ローマ字は赤で記す方式である。1970年代に向日町運転所配置車の一部に施工されたロールマーク式改造でも本デザインは踏襲されたが、アクリル樹脂製では以下の例外が存在する。
1960年6月から充当された「つばめ」では、「こだま」と一目で判別可能が求められた観点から愛称名上下にグレーの帯を入れるデザインとした。
この「つばめ」用ヘッドマークは1965年の481系化後も引き続き使用されたが、列車本数増加により追加製造された物と向日町運転所のロールマーク幕にはグレーの帯を省略した。
1960年8月14日に特1編成を充当した際にはペンキ書き鋼板製を、1961年7月5日 - 9月24日に長期充当された際には前年使用されたペンキ書き鋼板製のほかに、「つばめ」同様グレーを上下に配するアクリル製新品も製造された。
列車名は新潟県の佐渡島に生息する国際保護鳥のトキに由来するもので、ヘッドマークのローマ字表記上側に小さめの明朝体赤文字により漢字で「朱鷺」が併記された。
また国鉄では1978年以降順次、特急列車のヘッドマーク・テールサインをイラスト入りに変更しており、この時点で本系列が充当されていた「とき」もイラスト入りマークに変更された。
1966年の運転開始時に製造されたものは、他列車用と同等の特太ゴシック体をベースに角を微妙にR取りした通称国鉄書体と呼ばれるタイプであるが、運用を長野運転所へ移管した1969年以降に増発対応で製造されたものは、丸ゴシック体をベースに等幅フォントに近づけた独自の書体を採用する。
本系列から189系に置換え後も運用を共管する金沢運転所所属の489系でボンネット車(クハ489形0・500番台)が充当される際には、2種類とも併用されており、1978年以降は「とき」同様にイラスト入りマークが製造された。
漢字表記上側に六角形をした雪の結晶を入れ込んだデザインが採用された。
本系列が所属した車両基地は、田町電車区・向日町運転所・新潟運転所・長野運転所の4箇所であるが、以下の12両は全基地に所属した経歴がある。
その一方で以下の番台区分や形式ならびに改造グループによっては以下の所属経歴がない。
181系では計5回のユニット組換が実施されたが、そのうち3回は1969年に単独製造されたモハ180-115が関与する。
以下の2両が保存されている。
保存車2両は、クハ151形のトップナンバーならびに元々はクハ161形として発注され落成直前にクハ181形となった車両であるが、当初から181系として発注製造された車両の保存はない。これらとは別に実物大モックアップが京都鉄道博物館で展示される。
このほか、クロ151形開放室用R2A形座席1脚が京都鉄道博物館で展示保存されているほか、交通博物館では1962年に大井工場(現・東京総合車両センター)で製造されたサシ151形の車体および内装を模した「こだま食堂」 が設置され、2006年(平成18年)の閉館まで営業を実施した。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou