宇部共同義会(うべきょうどうぎかい)は、明治維新以後の福原氏給領地(旧宇部五ヶ村)において石炭鉱区の統一管理ならびに地元公共事業を推進するために設立された組織である。
1870年、明治新政府は日本坑法を公布し地下の鉱物を政府の所有物として掌握することとした。これに伴い山口県も旧藩以来の販売統制権を中止し石炭局の経営を民間に移した。ここに、厚狭郡須恵村の福井忠次郎は、石炭局最後の主任者としての地位や法律的知識を活用して、品川弥二郎、井上馨、宍戸璣等とともに合資組織の石炭会社を設立、旧藩の石炭諸鉱区に借区権を設定し、その大半を手中に収めたという。1876年にこれらの借区権が旧宇部領主の福原芳山により買い戻されると、福原家臣団等により炭鉱会社(宇部炭鉱会社)が設立され、この会社の下に借区権が一元管理されることとなる。ところが、炭鉱業が注目され始めるとともに平民の資本により独自に新借区出願の動きが活発化。これが許可されるようになり当初の宇部炭鉱会社により借区権一元管理体制は崩壊することとなる。こうした新知識(平民階層)と権威(士族階層)の対立を排し、封建的な身分制度の枠を超えた新たな権威を創設しその下に石炭鉱区を管理運営する仕組みとして、宇部共同義会が設立された。
以下の項目の補助を目的に設立された。
炭鉱の鉱区権の管理を目的に設立された。
石炭事業部である第二部が炭鉱業者に対し採炭量に応じた斤先料(採掘料)の納入を義務付け、社会事業にその資金を還元していた。
義会設立の発起会に集まった14名のうち10名が士族、4名が平民であり、中でも藤本晋一と厚見剛之助が発案者だとされる。その後の設立総会への参加者として人選した36名(村毎、一定数の会員を代表)に株主総代としての株券が与えられた。
共同義会とともに宇部地区の自治の根源となる組織に達聡会があった。メンバーの多くは共同義会と重複していたものの、経済・社会事業の運営主体としてされた共同義会に対して、達聡会は村民の世論統一を図り自治の円滑を期する政治結社として設置された。以後、達聡会はフォーマルな村議会の上部機関としての役割を担うことになる。その政治力を紀藤織文は「達聡会は議決機関だった。達聡会の決めたことは大抵村会にかけられてそのまま通った。金は共同義会から出た。(略)村会議員や県会議員、衆議院議員の立候補も達聡会で決めていた」と説明している。
第一部の利益還元により発生した組織
第二部より発生した組織
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