聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん、英語: St. Luke's International Hospital)は、東京都中央区にある病院である。事業主体は、日本聖公会系列の学校法人聖路加国際大学。なお、「せいろかこくさいびょういん」は正式な読みではない(後述)。
東京・築地にある大規模総合病院であり、東京都心部では最もよく知られる病院のひとつである。
1901年(明治34年)に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーにより設立され、戦前の旧病棟の建設にあたっては多額の資金を下賜されるなど、皇室との関係もあった。1914年(大正3年)に大隈重信が国際病院設立評議会の会長、後藤新平、渋沢栄一、阪谷芳郎が副会長をつとめ、ウィルソン大統領夫人(英語版)などからも多額の寄付があるなど、日米の政財界から多くの支援を受けた。渋沢は、その後も聖路加国際病院評議会会長を務め、病院の発展のため熱心に支援した。
1992年(平成4年)から1996年(平成8年)には、メディア出演や本の出版などで知られる日野原重明が院長を務めていたほか、「医療社会事業科」が設置されており、医療ソーシャルワーカーが常駐している。
2005年(平成17年)に就任した福井次矢院長の下では、QI活動(医療の質を表す指標測定・公開と改善活動)に力を入れた。また、この活動を国レベルで推進することを提唱した結果、現在では国内の多くの医療機関が同様の活動を行うようになった。OECD(経済協力開発機構)の日本の医療の質レビュー(2015年)においても、「聖路加国際病院で実施している質指標プロジェクトは特に印象的であり、国全体で展開するロールモデルとなりうる」との評価を受けている。これら活動が評価され、2015年には国際病院連盟賞の最高位賞である会長賞を受賞した。同賞は、国際病院連盟が主催し、世界中の病院の活動、取り組みで、顕著な功績が認められた病院を表彰するものである。
いわゆる「病院ランキング」などでは、しばしば上位に評価されるほか、研修医の初期臨床研修施設としても知られ、虎の門病院などと並んで日本で最も医学生の人気の高い研修先のひとつとなっている。
2012年(平成24年)7月23日、国際的な医療施設認証機関であるJCI(Joint Commission International)の認証を取得した。認証された施設は聖路加国際病院、聖路加国際病院附属クリニック予防医療センター、聖路加産科クリニック、聖路加訪問看護ステーションの4つの事業体であり、複合医療施設の同時認証は国内初、病院としての認証取得は亀田総合病院、NTT東日本関東病院に続いて国内3番目となった。
2014年(平成26年)4月、聖路加看護大学が聖路加国際大学に改組するのに伴い、元の設置者一般財団法人聖路加国際メディカルセンターから学校法人聖路加国際大学が事業譲受し学校法人聖路加国際大学の病院となった。
2019年(令和元年)に発表されたNewsweekの世界病院ランキング(World's Best Hospitals)では、国内で2位、世界100位以内にランクインしている。
2019年(令和元年)11月、アメリカ看護師認証センター(The American Nurses Credentialing Center:ANCC)により、優れた看護実践を行う医療施設に与えられる、マグネット認証(Magnet Recognition®️)を国内で初取得した。
2020年(令和2年)12月1日、民間の総合病院として初の特定機能病院に承認された。
2022年のNewsweek誌におけるThe world's best hospitalsで国内2番目、世界ランキング23位となった。
この区域は「第2街区」と呼ばれ、公道を挟んで建つ「第3街区」聖路加タワーとは、地上2階レベルで屋根付きの連絡橋によって結ばれている。新病院は1992年(平成4年)の竣工で、アメリカ合衆国のユタ州ソルトレイクシティにあるセントマークス病院(1973年)をモデルに日建設計によって設計された。病室は患者のプライバシーへの配慮と感染防御の観点から、小児病棟、緩和ケア病棟、集中治療室を除いた病床のすべてが個室となっている。
新病院に移転すると共に、薬品・物品の搬送は、それまでの看護師・薬剤師に代わって、専門の係員によって行われることになった(SPDシステム)。電子カルテの導入も積極的に行われ、2003年(平成15年)導入の第三次システムではほぼペーパーレス化が実現された。
また、新病院は大規模災害など大量の被災者発生の際には、機能を臨時拡張して医療処置を遂行できるよう設計されている。具体的には、施設内のあらゆる壁面に酸素供給口が設けられており、チャペル(礼拝堂)・ロビー・ホール・廊下などを広くスペースを取り救急救命医療処置が可能になっているが、これは当時の常務理事である日野原重明が、スウェーデンの病院に同様の設計があることから提言して実現したものである。日野原がこの設計を取り入れたのは、東京大空襲の経験による(後述)。建設当時は無駄との批判もあったこの機能は、新病院完成から3年後の1995年に発生した地下鉄サリン事件の被害者診療時で大いに活用され、他の大病院でも採用されるようになった。
新病院では、テレビ局などのドキュメンタリー取材の受け入れも多いが、病院の施設がテレビドラマや映画の撮影などのロケに提供されることはない。
このツインタワー部分は「第3街区」と呼ばれ、病院の敷地を構成する3街区のうちの最も隅田川寄りの街区に建設された超高層ビルディング形態の棟。47階建てと38階建ての高低差がある特徴的なデザインのツインタワー構造で東京湾岸のスカイラインを造形する代表的な建築物として知られている。
47階建ての棟の3・4階には予防医療センター(人間ドック)があり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されている。かつて、大手広告代理店電通の大半の部署が汐留に新本社ビルを完成させる前にこの部分に入居していた。最上部には展望レストラン「Luke」(聖ルカの意)があり、また、日本テレビとフジテレビの定点観測カメラが東京湾岸の状況を中継するために設置されている。また、フジテレビと日本テレビのFPU基地が設置されている。
38階建ての棟は、下から約4分の3は医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」で、約4分の1の最上部には銀座クレストンが入居している。
この区域は、「第1街区」と呼ばれる。保存部分はアントニン・レーモンド、ヤン・ヨセフ・スワガー、ベドジフ・フォイエルシュタインの3名のチェコ人建築家によって設計が進められたネオ・ゴシック様式の建物で、途中で設計者がJ.V.W.バーガミニーに変更されている。 創立者トイスラーの出身地であるボストンのマサチューセッツ総合病院をイメージしてデザインされた。
礼拝堂のステンドグラスは、予算の関係から複雑な聖人画などは作れなかった。逆に抽象的な図像でキリスト教の殉教の歴史を象徴する画が配されている。漁船や魚の図像は築地市場のある土地を反映したものだが、それは同時に魚がローマのキリスト教弾圧の時代にキリスト教徒同士の合い言葉であり、漁船が聖ペトロ(人をすなどる漁師)を表している。
礼拝堂の前には床のタイルにハエやネズミなど、伝染病を媒介する動物、及びアラジンの魔法のランプ(迷信を象徴するもの)がレリーフとして彫られており、これらを足で踏みつける事が出来るようになっている。
新館に移転後はオルガンなどが設置され、現在は聖公会による礼拝や聖書朗読会、オルガンコンサートなどが行われている。また、日に3度(8時30分、12時、18時)鐘楼から賛美歌が流れ明石町一帯で聴く事が出来る。
かつて病棟があったときには、各階病棟から礼拝堂(旧館チャペル)に出ることができた。旧館には現在、入院病棟は無い。
現在は中央部分(外部はエントランス部分から十字架が立つ尖塔にかけて、内部は礼拝堂・ロビー・事務室・トイスラークリニック・国際外来・その他)が保存されている。十字架の尖塔と礼拝堂の保存部分を中央にして左右に保存部分とデザインを整合させて設計されたウイング状の棟があるがこの部分は新築である。左側のウイングの大部分は聖路加看護大学の施設となっており、右側のウイングには「小児総合医療センター」などの施設がある。かつては右側ウイング内に「予防医療センター(人間ドック)」があったが現在は超高層ビル棟(聖路加タワー)の3・4階に移転している。
中央区明石町の3街区にわたる病院敷地全体の再開発事業(聖ルカ・ライフサイエンスセンター構想)の開始にあたり、当初計画では旧病院棟の全体が取り壊される予定であった。しかし、日本建築学会がアントニン・レーモンドの設計による礼拝堂(旧館チャペル)の文化的重要性を理由に保存の要請をした結果、設計変更が行われて旧病院棟のチャペルを含む中央部分は内外観ともにレーモンドの設計による姿が忠実に保存修復されて全体の象徴になっている。なお、チャペル及び付属する旧病棟は、居留地時代の名残を残す明石町のシンボルとして、東京都選定歴史的建造物の選定を受けている。
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来する。聖ルカは、『コロサイ人への手紙』で「親愛なる医者のルカ」(4章14節)と呼ばれていることから、キリスト教圏ではしばしば病院の名前に使われる。1896年(明治29年)に聖路加国際病院の前身である「築地病院」の名称を英語で「St Luke's Hospital」としたのはウィリアムズ主教と思われる。
聖路加国際病院の名称における「聖路加」の正式な読みは「せいるか」である 一方、「せいろか」の読みも定着している。職員も以前はそのように発音していることがあったが、近年では積極的に正式名を用いており、テレビ報道でも正式名称で紹介されている。同様に、関連施設である聖路加国際大学、聖路加ガーデンや聖路加レジデンス等も同様に「せいるか」の発音が正式である。なお、病院に近接する都営バスの「聖路加病院前」バス停は長らく「せいろかびょういんまえ」が正しい読み方であったが、2020年頃に案内更新により「せいるかびょういんまえ」に変更されている。
報道番組などにおいてはしばしば「せいろか」と呼称され、そのようにルビが振られることが多い。
聖路加国際病院は、1933年にルドルフ. B. トイスラーが語った、「キリスト教の愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて その人は生まれ変わったようになる この偉大な愛の力を だれもがすぐわかるように 計画されてできた生きた有機体が この病院である」の言をその理念としている。
日野原の著書、小学館「戦争と命と聖路加国際病院ものがたり」にて、1945年3月10日の東京大空襲の後を「からだの一部が焼け焦げて炭のように真っ黒になってしまった人、傷口から激しく出血している人、髪も顔も全身が焼けただれている人。大けがやケガを負った人が、まるで荷物のようにトラックで運ばれてきました。チャペル前のロビー、地下室、女子専門学校の体育室、ついには廊下まで、ベニア板を並べ、その上に布団を敷いて、負傷者を収容しました。激痛に気を失う人、気がふれたように歩き回る人、中には頭部がぱっかりと割れ、体を動かすことができずにじっと座って痛みに耐えている人もいました。」と回想している。
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