松型駆逐艦(まつがたくちくかん)は、日本海軍の一等駆逐艦。 丁型駆逐艦とも呼ばれる。 日本海軍の公的な名称ではないが、竹級駆逐艦(丁型駆逐艦)とする文献(戦史叢書等)もある。昭和天皇への説明でも用いられた。
松型は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)から建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。
なお、橘以降の艦は橘型/改松型/松型改/改丁型/丁型改などとして区別されるが、 艦艇類別等級表では松型と橘型を区別しておらず、艦型名は全隻松型駆逐艦としている。ここでは艦艇類別等級表に基づく松型駆逐艦全般を取り扱う。
大正時代の日本海軍は、二等駆逐艦として樺型駆逐艦(計画番号F23)、樅型駆逐艦(計画番号F37)、若竹型駆逐艦(F37c)などを開発。限られた予算の中で充分な量の駆逐艦を揃えるために、大型で高価な一等駆逐艦と小型で比較的安価な二等駆逐艦の二本立てのハイ・ロー・ミックスで整備していた。その後、戦略上のニーズにより、大型で航洋性に優れる一等駆逐艦(F41型〈峯風型、神風型、睦月型〉、F43型〈吹雪型駆逐艦〉)のみが整備され、二等駆逐艦は建造されなくなる。 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議で駆逐艦の建造に制限が加えられると、小型化重武装の初春型駆逐艦と白露型駆逐艦(計画番号F45a~d)、二等駆逐艦の代替として千鳥型水雷艇(計画番号F46、Fは駆逐艦を意味する)を建造した。だが友鶴事件や第四艦隊事件が発生して設計方針を見直し、千鳥型は4隻で建造中止。二等駆逐艦に該当する鴻型水雷艇(計画番号F47)を8隻建造した。
これに対し、一等駆逐艦は高性能化を目指して大型化を続けた。秋月型駆逐艦に至っては小型巡洋艦に匹敵する艦型となった。 太平洋戦争勃発後、1942年(昭和17年)8月上旬以降のガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、日本海軍は輸送作戦(東京急行)への投入や夜戦で多数の艦隊決戦における水雷戦用の艦隊型駆逐艦を失った。しかし、当時最新鋭の夕雲型駆逐艦や秋月型駆逐艦、建造中の丙型(島風型駆逐艦島風)は建造に手間がかかり、この損失を埋めるだけの隻数を建造することが不可能だった。個々の艦の性能を向上させても、アメリカ軍の数的優位と航空優勢の前では戦局を変えることができなかったのである。 また、これらの駆逐艦は缶室(ボイラー室)と機械室のどちらかに浸水すると航行不能となるなどの防御上の欠点が実戦で明らかになった。そこで従来の大型駆逐艦指向を見直し、小型化によって数を揃えつつ、国内の資源や工作能力に見合った小型駆逐艦への方向転換がはかられた。 補給・揚陸船団の護送のために兵装の重心を対空対潜に移し、防御上の改良を行ないつつ構造を簡易化して生産を容易とした新たな駆逐艦を建造することとなった。これが松型(丁型)であり、構想自体は1942年(昭和17年)末頃に生じた。
松型(丁型)はその全てが本来二等駆逐艦(基準排水量1,000トン以下)に付けられる樹木の名前が与えられ、その艦名と建造経緯から「雑木林」などと呼ばれた。竹に勤務していた大尉(航海長)によれば、航海機器や兵装は艦隊型駆逐艦の雪風よりも新しく、充実していたという。
それまでの艦隊型駆逐艦に比較して、対艦兵装、速力とも抑えられているため、しばしば護衛駆逐艦又は護送駆逐艦と呼ばれるものの、松型駆逐艦は所謂護衛駆逐艦として計画・建造されたものではない。
ケ号作戦が発動された1943年(昭和18年)2月頃、軍令部は改⑤計画にて建造を計画していた夕雲型8隻・秋月型23隻の建造計画を取り止めることを決定した。同時に、火力や雷装を減らして対空能力を強化し戦訓を採り入れ、輸送任務も行え、加えて急速建造が出来る中型駆逐艦の建造計画を立案。昭和18年度から建造を行い、昭和20年(1945年)末までに42隻建造を目標とする、改⑤計画第二次追加計画を決定した。
これに先立つ2ヶ月前、海軍艦政本部は「基本計画番号『F55』仮称第5481号型艦」の基本設計計画を始めた。これが後の松型駆逐艦である。海軍艦政本部各課の協議により下記9案の設計案が作成され、検討が行われた。
まずはAからC案が検討されたが船体が大きく量産に向かないとして却下され、次に航続距離と速力を忍んだDからF案が検討された。この際には長8cm連装高角砲が機構面の複雑さによる製造の難しさと補給面から却下され、主機械についても新型タービンの開発製造がないこと、秋月型タービンでは1軸となり主機械室が破壊された際に航行不能となることから、鴻型タービンを流用することとなった。最後にGからI案が検討され、H案が採用された。この後、抵抗軽減のために艦尾が1m延長されて水線長が98mとなり、雷装案の検討が複数回行われ、艦型が決定した。
松型では急速建造を実現するために日本海軍艦艇の特徴である船体の曲線構造を止め、平面構成を多用した設計になった。駆逐艦としては低速のため、操艦性を重視して艦幅や喫水は全長に対して大きめに設計している。用兵側は、松型の運動性能について「操艦性能に富む」と評価した。
艦首は従来のいわゆるダブル・カーブド・バウではなく直線艦首とし、艦首のシアーも短くなる。艦首舷側のフレアーを少なくし、外板や構造材の曲げ加工を極力少なくした。艦尾の艦底は従来の艦では推進器や舵のある関係でオーバーハングが生じ、工作も複雑になる。松型での艦尾形状は地上で組み立てるスケグを取り付ける方式にして、工作を簡易化した。ビルジキールは三角形の箱型(従来)から平板型(松型)に変更し簡易化を進めた。
船体材料の鋼材も従来駆逐艦が採用していた特殊鋼(DS鋼/D鋼)ではなく、高張力鋼(HT鋼)を上甲板に普通鋼板を艦底に使用した。これらの材料は重量が増すが調達が容易であり、大きな技術的問題を引き起こすこともなかった。
船体建造は最初にキール(龍骨)を据え付けてフレーム(肋骨)を立てていき、外板や甲板を取り付けていく従来と同じ方式でブロック建造は採用されなかった。また主要構造の接合には鋲接が用いられており、まだ溶接の全面採用はされていない。
従来の駆逐艦が採用していた主砲は三年式 12.7cm(50口径)砲であったが、松型は対空火器として使える八九式 12.7cm(40口径)高角砲を採用した。特筆すべきは従来は連装砲架のみであったが、松型駆逐艦専用に防盾付きの単装砲架が新設計されて艦首側に1基が配置されたことである。艦尾甲板上には連装砲架で1基の計3門搭載した。対空戦闘・対水上艦戦闘の双方に対応できるため、用兵側は好評価を与えている。 砲側照準による対空射撃も可能だが、高射砲射撃指揮装置なしでの命中は期待できなかった。
また近接対空火力強化のために九六式 25mm機銃を12挺以上備えることが要求され、松型には3連装4基12挺の搭載を計画、松の竣工時には同単装機銃8挺も搭載されている。その後後部煙突と探照燈の間に機銃台を設けるなど、単装機銃は12挺(または13挺)に強化され、就役済みの艦にも単装機銃を中心に逐次増備されていった。
松型は艦隊決戦における敵主力艦隊への水雷戦参加を想定されておらず、雷装は従来の駆逐艦に比して軽微なものとなっている。魚雷の搭載有無についても議論があった。設計案では61cm魚雷発射管を6連装1基又は4連装2基、もしくは53cm3連装又は6連装などが検討された。
当初は「61cm4連装発射管1基では射線が不足する」と艦攻本部の主務者会議で意見が挙げられ、ほぼ同重量である53cm6連装発射管1基と決定された。これは、後に軍令部の主要目要求にも採用されたが、1番艦である松が完成直前になって前線司令部から、ソロモン海域での戦訓として「魚雷戦を行うには53cmは威力不足である」という異議申し立てが行われた。これにより、最終的には九二式61cm4連装発射管1基が搭載されることとなった。
九四式爆雷投射機(通称Y型砲)2基、投下軌道2条、爆雷36個を搭載した。爆雷の量は十分でなく、その後60個に増載された。また「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると竹、梅、桃、桑、杉、槇には三式爆雷投射機4基装備の訓令が出され、前者3隻は実際に装備した。装備位置は4番3連装機銃から後部高角砲前までの上甲板両舷とされている。
松型は従来の艦と同じ九三式水中聴音機と九三式探信儀であった。
竣工時より22号電探が艦橋上の電探檣に装備された。後期に竣工した艦は後部マストに13号電探、前部マストのトップに逆探(E-27電波探知機)を装備した。 13号電探の装備は9番艦の樅からという。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると、桃は前部マストのトップに13号電探を装備した。
松型の機関については、上記にあるように機関の製造能力、抗堪性を重視、さらに量産性(生産能力)を考慮して鴻型水雷艇の機関を流用した2基2軸とした。また、速力と航続力を抑えたH案で決定した。 なお主機のタービンは鴻型と主減速装置(減速ギア)が異なっており、回転数は400rpm(鴻型は520rpm)と低くなっている。
その機関配置についても、在来の日本艦艇とは異なったものとなっている。通常、日本海軍の艦船の機関配置は、艦首側からボイラー(第1から第3缶室)・タービン(前部機械室)・発電機(後部機械室)と言うのが標準的な配置である。しかし本艦は国産化された艦では初めて「シフト配置方式」を採用している。これは、機関を前後2つに分け、前部に左舷用のボイラー(第一罐室)と「タービン+発電機」(前部機械室)、後部に右舷用のボイラー(第二罐室)と「タービン+発電機」(後部機械室)と交互に配置する形式となり、このために細身の2本煙突は前後に離れているのが外観上の特徴である。従来の機関配置ならば機関区画の長さを抑えられて船体の長さを抑える事ができる代わりに、どこか一か所にトラブルや被害を受けると全てがやられて航行不能になる可能性が高いのに対し、本形式ならば建造の手間はかかるが、右舷側もしくは左舷側の機関が破壊されても残りの機関で航行が可能だった。艦の生存性が高められる例として多号作戦に従事していた松型2隻(竹、桐)において、それぞれ機械室被弾も片舷の軸系が生き残り、航行不能とならずに済んだ戦訓があった。
この機関配置の方式はすでにフランスやアメリカなどで駆逐艦から戦艦に至るまで広く採用されており、フランス・アメリカ海軍艦艇の強靭さの一因であった。なお前部機械室(左舷用)からスクリュー(艦尾)までプロペラシャフトが延びているため、第2缶室にある2号缶(ボイラー)は艦中央線から右にずれており、したがって後部煙突も中心線から右にずれている。 巡航タービンは前部機械室(左舷用タービン)にのみ置かれていた。
駆逐艦として速力27-28ノットは不足気味であり、最前線では本型の速力増大を求めている。
日本の駆逐艦は普通内火艇とカッターを搭載する。だがガダルカナル島戦頃より朝潮型駆逐艦や陽炎型駆逐艦の一部は改造工事を受け、十三米特型運貨物船(中型発動艇)を搭載可能となった。本型艦は陸上部隊への物資輸送のため、設計段階から「小発」と呼ばれる一種の上陸用舟艇を2隻搭載可能となった。「航空母艦」を除いて戦闘艦が設計段階からそのような艇を搭載することはなく、輸送任務も考慮した本艦の特徴的な装備である。
艦橋は船首楼甲板から2段(陽炎型等は3段)、上甲板から数えると3段(陽炎型等は4段)の構造になる。従来の形状とは全く違い、曲線部の無い箱型構造になる。艦橋は地上で組み立て、船体に搭載した。工事簡易化のために操舵室は廃止され、羅針艦橋内に操舵機がある。羅針艦橋の上は露天の上部艦橋で防空指揮所兼測距所であり、前面と側面に防弾板を兼ねた側板がある。この側板は戦訓から後方に伸ばされ、艦によって違いがある。 なお、羅針艦橋前の25mm3連装機銃の下には弾薬供給所が置かれたが、日本海軍の駆逐艦では松型(と橘型)のみに設置された。
マストや支柱は鋼管材でなく山形鋼を組み合わせたものに変更した。艤装品でも副錨を廃止、索具や天幕なども極力減らし、艦尾旗竿も廃止された。軍艦旗は後部マストのガフに掲げられ、停泊燈、艦尾燈は後部天幕支柱に設置された。弾薬庫への緊急注水管も廃止された。通風筒なども工作の簡単なキセル型になり、機械室の天窓も簡易化された。
居住区では第1士官用の士官寝室が6人1部屋(従来は2人1部屋で4部屋)で床面積が狭くなり、室内のソファやテーブルなどが廃止された。兵員室でも腰掛け兼衣服箱や小物格納棚などが廃止された。主計科事務室が廃止され、兵員室の隅に机を置いて事務を行った。
仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、八重桜は後に工事中止となり橘が1番に竣工、このためF55Bの艦は橘型と呼ばれている。その他に改松型松型改改丁型などとも呼称される。 基本設計は横須賀海軍工廠設計部で行われた。
船体に関しては下記のような簡易化を進めた。
この経験は後に、現在の日本の造船技術を支える近代工法の確立につながった。
なお、松型は簡易廉価な平面や直線を組み合わせた船体形状を採用したが、速力への影響はあまり無かった。
22号電探は前部マスト中段に搭載するように変更された。13号電探は後部マストに竣工時から搭載された。
ソナーは新型の四式水中聴音機(パッシブソナー)と三式探信儀(アクティブソナー)を搭載し、四式水中聴音機装備のために艦首の艦底に直径3mの平らな面が設けられた。 しかし、大戦末期の日本の電子機器の性能にはムラがあり、聴音機はともかく探信儀の方は評価が低かったと言われる。
機関関係では中圧タービンと巡航タービンが省略された。公試排水量は松型の1,530トンから橘で1,640トンに増加し、速力は27.8ノットから27.3ノットに低下した。
松型と基本構造は同じであるが、電波探知室の増大のために船首楼甲板部分が後方に延長され、羅針艦橋部分も後方に拡大された。 羅針艦橋のウイングには二式哨信儀が装備されている(松型も途中から装備)。
リノリウム(甲板敷物の一種)を全面廃止、手すり柱などのメッキ加工を廃止して塗装に変更するなどの簡易化が更に行われた。
1945年(昭和20年)4月になり、海軍の作戦は特攻作戦へと切り替わっていった。これを受け第31戦隊に所属していた松型駆逐艦は同じく第31戦隊所属の秋月型駆逐艦の他、軽巡洋艦北上、駆逐艦波風などと共に5月20日付けで海上挺進部隊を編成した。7月15日の第十一水雷戦隊解隊後は、第52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩、樺)も三十一戦隊に編入されて海上挺進部隊に所属した。 松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器の人間魚雷回天を1基搭載(秋月型の花月は回天8基登載)。 連合国軍の本土上陸作戦に際しては接近した上陸部隊に対し回天で攻撃を行い、次いで魚雷による夜戦で敵輸送船団を攻撃する計画だった。
改造実施状況は以下のとおり。第41駆逐隊所属の竹、槇、桐、榧、蔦、椎と第52駆逐隊所属の杉、樫、楓、楡、梨、萩の各艦は6月以降に呉海軍工廠で工事が行われたようである。この頃の正確な工事記録が残っておらず、どの艦にいつ工事が行われたか判っていない。戦後撮影された写真を見ると10隻前後に工事が行われている。 これらのうち、梨は1954年(昭和29年)に浮揚作業が行われたが、その写真に回天用の架台が写っている。また『艦艇引渡し調書』には椎、榧、樺に回天搭載設備の記録が残っている。重油燃料が逼迫していたので訓練回数は多くなかった。また7月以降は戦力温存のために竹、榧、槇、桐、蔦の各艦は山口県の屋代島に擬装、隠蔽して繋留された。それから1ヶ月余りで終戦となったため、他の艦も含め実戦での使用はなかった。
回天搭載艦に改造された樺の場合、全長104m。重油燃料タンクは340トン、航続距離は18ノットで2500浬となっている。
建造計画は1943年(昭和18年)2月に改⑤計画の追加として42隻、昭和18年度(1943年)から昭和20年度(1945年)末までに完成する計画が商議に提出され、その予算は第84帝国議会で32隻分(1隻単価9,326,000円、1944年2月15日公布)、第85帝国議会で10隻分(1隻単価9,614,000円、1945年2月1日公布)が成立した。仮称艦名は「第5481号艦」から「第5522号艦」まで。建造は舞鶴海軍工廠5隻、横須賀海軍工廠24隻、藤永田造船所13隻に割り振られた。
また軍令部の要求に含まれていないが、第86帝国議会で32隻(1隻9,614,000円)の予算が承認された。仮称艦名は「第4801号艦」から「第4832号艦」までの32隻になる。(『海軍造船技術概要』にある表「太平洋戦争中の建艦計画」では仮称艦名「第4801号艦」から「第4820号艦」の20隻となっている。)松型を更に簡易急造化した艦型(いわゆる橘型)で、「楡」など6隻が竣工した。
昭和20年度になり、起工した艦のうち同年度前期に竣工の見込みのない艦は建造中止、起工していない艦は建造取り止めとなり、最終的に松型18隻、橘型14隻の32隻が竣工、9隻が建造中止となった。
1944年(昭和19年)4月28日に松型1番艦の松が竣工、以降松型駆逐艦は順次竣工していった。各艦は竣工とともに第十一水雷戦隊に編入されて訓練を実施している。同年7月15日附で松型4隻(松、竹、梅、桃)による第43駆逐隊が編制され、数日後に第三十一戦隊に編入された。各艦はそれぞれ輸送作戦に参加。松型は護衛船団旗艦としても適当とみられていた。だが8月4日、小笠原方面への輸送作戦に従事していた松(船団旗艦)が失われた(スカベンジャー作戦)。
8月20日に第三十一戦隊(旗艦五十鈴)が新編されると、旧式駆逐艦(睦月型、神風型、峯風型)や海防艦と共に第43駆逐隊も第三十一戦隊に組み込まれた。後日、11月15日附で第52駆逐隊(檜、樅、杉、樫、桑)が編成されると、25日附で52駆も第三十一戦隊に編入された。
10月下旬のレイテ沖海戦では松型駆逐艦は4隻(桑、槇、桐、杉)が、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が率いる空母部隊〔第三航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、第四航空戦隊(日向、伊勢)、軽巡洋艦3隻(大淀、五十鈴、多摩)、秋月型駆逐艦(初月、秋月、若月、霜月)〕と共に参加した。10月25日の空襲で槇が被弾して小破、桑も至近弾で損傷した。なお、松型2隻(桐、杉)の2隻は前日に本隊からはぐれ、燃料不足となり台湾に後退している。その際、空襲により桐が至近弾で損傷している(小破認定)。
レイテ沖海戦で敗北した日本軍であったが、その後も日本陸軍と共にレイテ島に対して増援部隊を送り続けた。レイテ島地上戦にともなう増援輸送作戦を多号作戦と呼ぶ。松型駆逐艦も第3次作戦(指揮官は早川幹夫第二水雷戦隊司令官)から竹が投入されたが、この時は中途で先行していた第4次船団(指揮官は木村昌福第一水雷戦隊司令官)の護衛艦と交代(竹と初春がマニラへ帰投、長波・朝霜・若月が第三次船団に合流してレイテ島へ)という形でマニラに引き返している。第三次輸送船団はレイテ島オルモック湾で大規模空襲をうけ、駆逐艦朝霜を残して全滅した。
11月13日のマニラ大規模空襲で、多号作戦参加艦艇は大損害を受けた。水雷戦隊の駆逐艦はマニラから撤退したので、松型駆逐艦と駆潜艇が多号作戦の主力護衛艦艇となった。 11月20日、艦隊の再編により松型多数が所属する第三十一戦隊は第五艦隊(司令長官志摩清英中将、旗艦足柄に)編入された。 本格的に参加を始めた第5次作戦でも竹が続けて投入された。11月24日、第二梯団として輸送艦3隻を護衛してマニラを出撃するが、途中空襲により輸送艦2隻(6号、10号)が撃沈され、残り1隻(9号輸送艦)と竹も損傷したため作戦中止、マニラに引き返している。
第7次作戦では松型2隻(桑、竹)が参加した。桑駆逐艦長指揮下の2隻(桑、竹)は第三・第四梯団となり輸送艦3隻を護衛して11月30日マニラを出撃、12月2日夜にレイテ島オルモック湾に無事到着して揚陸作業中、米駆逐艦3隻と戦闘になった。この戦闘で桑は撃沈されたが、竹は雷撃でアメリカ駆逐艦クーパーを撃沈した。この時も丁型の機関配置が竹を行動不能から救った。
第8次作戦には松型3隻(梅、桃、杉)が参加した。3隻は駆潜艇2隻と共に船団(輸送船4、輸送艦1)を護衛して12月5日にマニラを出撃した。この頃、アメリカ軍がオルモック南方に上陸を開始しレイテ島西岸も危険になった。7日、レイテ東北西部のサンイシドロで揚陸中を敢行。空襲を受け軍需品の揚陸はほとんどできず、輸送船団も大損害を受けた。2隻(梅、杉)も損傷した。なお、桃は12月14日マニラ湾で空襲を受けて損傷、台湾へ後退中の15日、アメリカ潜水艦に雷撃され撃沈されている。
第9次作戦では桐が睦月型駆逐艦2隻(夕月、卯月)、輸送船3隻、輸送艦2隻(第140号、第159号)、駆潜艇2隻(17号、37号)と共に参加した。12月9日、船団を護衛してマニラを出撃。途中空襲により輸送船2隻が被弾航行不能となった。部隊を率いていた沢村成二大佐(第30駆逐隊司令、司令駆逐艦夕月)は部隊を2つにわけ、駆逐艦2隻(夕月、桐)と輸送艦2隻はオルモック湾へ向かった。揚陸作業で輸送艦159号が地上からの砲撃で失われた。2隻(夕月、桐)は攻撃してきたアメリカ駆逐艦と交戦した。帰投中、桐は空襲で至近弾を受け損傷したが、この時も丁型の機関配置が桐を救った。またこの空襲で夕月が航行不能となり、桐の砲撃により処分された。日本軍は第10次多号作戦(陸軍部呼称「決号作戦」)も計画していたが、アメリカ軍のミンドロ島侵攻により中止となった。
12月9日、駆逐艦3隻〔松型(槇)、秋月型駆逐艦(冬月、涼月)〕は日本本土へ帰投中の軍艦2隻(戦艦榛名、空母隼鷹)を護衛していたが、槇と隼鷹が被雷損傷した。 12月15日、アメリカ軍はミンドロ島サンホセ付近に上陸した。日本軍中央(大本営、連合艦隊司令部)と現地軍(南西方面艦隊、第14方面軍)との間でミンドロ島逆上陸をめぐって温度差があったものの、南西方面艦隊は麾下の第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に水上艦艇のミンドロ島突入を命じた。この作戦は礼号作戦と呼ばれた。参加部隊は第二水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の第二水雷戦隊(霞、朝霜、清霜)、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦大淀などであった。松型駆逐艦も榧、杉、樫が参加した。部隊は12月24日カムラン湾を出撃、途中で駆逐艦清霜を失い、各艦(足柄、大淀、榧、杉)に被害があったが、作戦は一応成功した。
1945年(昭和20年)1月4日、サンジャックから生田川丸を護衛してきた第52駆逐隊(檜、樅)はマニラに入港。翌日、2隻はマニラ沖で空襲を受けて樅は沈没、檜も航行不能となった。応急修理後、檜はマニラに戻ることができた。だがアメリカ軍はマニラ沖合を北上してルソン島西岸のリンガエン湾(マニラ北方)に集結、まもなく上陸作戦を開始した。7日、檜はマニラを出港したが、アメリカ駆逐艦4隻の攻撃により撃沈された(52駆逐隊司令戦死)。 1月31日にはフィリピンの搭乗員救出のため台湾高雄を出撃した駆逐艦3隻(汐風、梅、楓)と第一輸送戦隊(輸送艦1、駆潜艇1)は台湾南方で空襲を受け、3隻とも損傷。梅は沈没、2隻(汐風、楓)も引き返した。第一輸送戦隊も空襲により損傷し、作戦を中止した。
フィリピン方面での水上艦艇の行動は至難となった。2月5日、第三十一戦隊は戦時編制において連合艦隊附属となり、高雄警備府部隊に編入された。第三十一戦隊は内地に帰投し、2月28日から3月中旬まで竹が同戦隊旗艦となった。第三十一戦隊の第二艦隊編入とともに秋月型駆逐艦花月が増強され、三十一戦隊旗艦は花月になった。4月1日、訓練練成部隊の第十一水雷戦隊(旗艦酒匂、松型・橘型多数)が第二艦隊(司令長官伊藤整一中将、旗艦大和)に編入される。稼働残存駆逐艦は松型や橘型をふくめ第二艦隊(旗艦大和)に集約された。
4月6日の大和型戦艦大和(第一航空戦隊)と第二水雷戦隊の沖縄出撃の際には松型2隻(榧、槇)が秋月型駆逐艦花月(第三十一戦隊旗艦)と共に途中まで同行した(坊ノ岬沖海戦)。4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊は解隊、第三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となった。二水戦の残存艦〔第7駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊(雪風、初霜)、第41駆逐隊(涼月、冬月)〕は第三十一戦隊に編入された。 5月20日に海上挺進部隊が編成され、7月15日には第十一水雷戦隊が解隊され、同水戦所属の第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入(海上挺進部隊)。第53駆逐隊は解隊されて特殊警備艦に分類され、防空砲台となった。
海上挺進部隊は本土周辺で行動していたが、機雷や空襲により、終戦までに被害が続出した。5月25日櫻が下関沖で触雷、7月11日紀淡海峡近くで再度触雷して沈没した。6月5日には椎が豊後水道で触雷。6月26日には榎が小浜灯台付近で触雷、大破着底した。また6月30日には楢が下関沖で触雷した。
楡は6月22日瀬戸内海で空襲により中破した。7月14日には橘が函館港内で空襲により被爆沈没している。柳も津軽海峡で被弾、大破した。さらに24日には3隻(樺、萩、椿)は瀬戸内海で空襲により損傷。28日には梨が被弾し沈没した。
終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた(32隻竣工、9隻沈没、5隻航行不能)。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦(戦利艦)として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用したが殆どは標的艦か係留練習艦として使用され、再武装を施されたのは初梅のみだった。アメリカ、イギリスに引き渡された艦の一部と残った艦(航行不能艦や未成艦)は解体されるか防波堤の一部として使われた。
沈没した梨は引き上げられた後海上自衛隊の護衛艦「わかば」として再就役した。日本海軍の駆逐艦で、海上自衛隊に引き継がれたのは梨のみである。名称を変更したのは既に除籍された艦名であることと、平仮名の「なし」では「無し」と誤解を与えるため。
艦名(よみ):「仮称艦名」、竣工日など(建造所)、その後。建造所は以下のように略。舞鶴 = 舞鶴海軍工廠、横須賀 = 横須賀海軍工廠、藤永田 = 藤永田造船所、川崎神戸 = 川崎重工業神戸工場(艦船工場)。
橘型
松型
橘型
1944年(昭和19年)7月15日、松型駆逐艦で編制された最初の駆逐隊。錬成を目的とする第十一水雷戦隊と、対潜掃蕩・船団護衛を主任務とする第三十一戦隊に所属したが、編制直後に「松」が沈没。続いて戦局の悪化によりレイテ沖海戦や多号作戦など、最前線に投入された。所属駆逐艦の一覧は、松、竹、梅、桃、槙、桐、榧、蔦、椎。
第43駆逐隊に続き、松型駆逐艦で編制された駆逐隊。1944年(昭和19年)11月15日に編成されて第十一水雷戦隊に所属、11月25日より第三十一戦隊に所属した。戦局の悪化と共に第三十一戦隊各艦と共に最前線に投入され、多号作戦、礼号作戦等に参加した。所属した駆逐艦の一覧は、桑、檜、杉、樫、楓、楡、梨、萩、樺。
1943年(昭和18年)末になると丁型をベースとして第一号型輸送艦(一等輸送艦)が計画された。設計には船体の前半部分が流用されている。
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