大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。
1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。
刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。南満州鉄道株式会社に入社すると、撫順の炭坑付技師を経て満州中央試験所の技師となり、大連耐火煉瓦工場の設立に関与した。1918年(大正7年)には刈谷町に東洋耐火煉瓦(のちのクアーズテック)を設立して技師兼工場長を務めた。
1923年(大正12年)5月には刈谷町会議員に初当選し、以後は刈谷町会議員を23年間務めている。また、1923年(大正12年)には愛知県会議員にも初当選している。1924年(大正13年)には豊田佐吉が社長を務める豊田紡織の工場を刈谷町に誘致。刈谷が自動車工業都市として飛躍する礎を築いた。1932年(昭和7年)には息子の大野耐一が豊田紡織に入社しており、耐一は後にトヨタ自動車工業(のちのトヨタ自動車)で副社長を務めた。1936年(昭和11年)5月には刈谷町長に初当選し、1946年(昭和21年)まで刈谷町長を10年間務めた。政治家としては立憲民政党に所属していた。同じく刈谷出身の衆議院議員である武富済が病死したことで、1937年(昭和12年)には愛知県第4区から衆議院議員に初当選。1942年(昭和17年)には2選を果たした。1940年(昭和15年)10月には勲四等瑞宝章を受けた。
戦後には公職追放となった。
1952年(昭和27年)には町村合併委員長に就任し、1955年(昭和30年)には碧海郡富士松村と依佐美村の刈谷市への合併を推進した。1956年(昭和31年)には刈谷市の行政合理化委員長に就任し、学校・消防・公民館などの合理化を推進した。1957年(昭和32年)には豊田自動織機製作所(のちの豊田自動織機)社長かつトヨタ自動車工業(のちのトヨタ自動車)社長の石田退三とともに、刈谷市初の名誉市民に推挙された。1961年(昭和36年)11月8日には藍綬褒章を受けた。1963年(昭和38年)には刈谷出身の化学者である加藤与五郎の伝記『加藤与五郎 フェライトの父』(黎明書房、1963年)を著した。
1967年(昭和42年)3月6日死去。81歳。同日には勲三等旭日中綬章を受けた。同年12月には刈谷市刈谷図書館(現・刈谷市中央図書館)児童室に大野の寄贈による「大野文庫」が設置された。
出典 : 大野一造『刈谷が市になるまでの発展史』大野一造, 1955年, p.10
出典 : 大野一造『刈谷市人物一覧』大野一造、1965年、p.5
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