浦森林鉄道(うらしんりんてつどう)は、かつて長野県伊那市長谷地域(旧・上伊那郡伊那里村→長谷村)で運行されていた、林野庁長野営林局伊那営林署(現・中部森林管理局南信森林管理署)の森林鉄道。
現在の伊那市長谷杉島の岩入から南へ、三峰川に沿って上流へと路線が伸ばされた。軌間762mm (2フィート6インチ)。以下特記なき場合、『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ 中部編』による。
当地の森林は「赤石山脈御林」と呼ばれ、安土桃山時代の天正18年(1590年)に飯田を治めていた毛利氏により御囲林が設けられたのが始まりである。伐木の搬出手段としては江戸時代から明治にかけて筏流しが用いられ、大正からは川堰となり、昭和になって森林鉄道による陸運へと変遷した。
1939年(昭和14年)、小瀬戸に「浦伐木所」が開設され、浦国有林の伐採搬出が本格的に開始された。木馬道および森林鉄道の敷設が進められ、1941年(昭和16年)に杉島から小瀬戸までの10.5キロメートルが開通し、森林鉄道による木材輸送が始まった。1945年(昭和20年)度には荒川まで延伸(ここまで森林鉄道1級)、1951年(昭和26年) - 1952年(昭和27年)度には「荒川支線」(森林鉄道2級)として、その先の北荒川まで延伸された(1・2級の区分は1954年4月1日付けで実施)。
起点となった杉島より奥は交通が著しく不便で、生活に必要な物資は馬の背に載せて運搬していた。このため森林鉄道が開通すると地元住民は「さすが御料林」と感激したという。1945年、人走定期便が運行を開始。1952年(昭和27年)に乗客として乗車した人物が残した手記によると、当時一般の乗車は巫女淵まで可能で、塩見岳への登山客や釣り客などに利用されていた。ただし、事故が発生しても責任は取れない旨の注意書きがあったという。
1946年(昭和21年)、杉島に製材所が開設。延べ92坪の敷地に建築面積74坪の工場と同24坪の倉庫があった。建材などを生産するとともに、残材を薪などに加工して販売していた。1947年(昭和22年)頃の木材生産量は年間2 - 3万石に達しており、製材所の生産量もピーク時には年間5,000石に上った。1957年(昭和32年)にチェーンソーを全面的に導入し、1958年(昭和33年)には車両にエアブレーキが導入され、生産性と安全性が向上した。
しかし、1959年(昭和34年)8月に襲来した台風7号により、杉島の貯木場や製材所が流失。施設は閉鎖され、水田へと変わった。また大曲橋の流失など路線への被害も甚大で、同年荒川支線が廃止された。1961年(昭和36年)6月の梅雨前線豪雨、通称「三六災害」では再び被害を受け、鉄道から自動車への切り替えが加速。1964年(昭和39年)に全線が廃止された。
森林鉄道の運行中、カーブなどで車両から振り下ろされたり、車両とともに転覆するなどして、乗員・乗客が死傷した例は数多い。また、地元の子供たちが誤って停車中の車両のブレーキを緩め、暴走した車両にひかれるという事故もあった。
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