織田 長孝(おだ ながたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国野村藩初代藩主。別名は長一。通称は源二郎。官位は従五位下・河内守。
織田長益(有楽)の長男として誕生した。幼名は赤千代。
関ヶ原以前には美濃大野村で500石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、長益と共に東軍に属する。本戦においては西軍の武将である戸田重政に槍を突き、家来らと共に討ち取るという白兵戦を演じ、また重政の嫡男である戸田内記も討ち取るという武功を挙げた。この時、村正の作である槍を使用しており、戦後検分した徳川家康の指を傷つけたという逸話がある。この武功により美濃大野郡内において1万石の所領を与えられ、野村藩を立藩した。
慶長11年(1606年)7月5日に死去。法号は照巌玄高。
なお、長孝は長益の長男であるものの、生母は正室(平手政秀の娘)ではなく、正室所生の次男・頼長が嫡男であった。そのため、長孝の関ヶ原の功による加増分は長益の所領に含まず、独立し別家となる形で治めることとなった。
正室はいない。子女は4男5女。
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