二条院讃岐(にじょういんのさぬき、生没年不詳:1141年(永治元年)頃 - 1217年(建保5年)以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。
経歴
二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、1159年(平治元年、19歳頃)以降度々内裏和歌会(「内の御会」)に出席し、内裏歌壇での評価を得た。この時期の歌が、俊恵『歌苑抄』に代表作として言及されている。
この後、二十代半ばから四十代後半にかけての讃岐の動静については、大きく分けて二説あり、両説の隔たりは大きい。
- 先行研究説(『尊卑分脈』の系図注記に基づく説):二条院に最後まで仕え、崩御後に藤原重頼と結婚、重光・有頼らの母となった。1190年(建久元年)頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕。
- 新(伊佐迪子)説(主に『玉葉』等の記録に基づく説):1163年(長寛元年)頃内裏女房を退き、1165年(永萬元年)頃から皇嘉門院に出仕。この間、歌林苑での活動を継続。1174年(承安4年)より九条兼実家女房。兼実の同居妻となる。1187年(文治2年)より同家「北政所」と称する。1190年同家の姫君任子が後鳥羽天皇の中宮として入内、讃岐は中宮女房としてではなく、引続き九条家を切盛りしている。
1172年(承安2年、32歳頃)に『歌仙落書』で高く評価される等、歌壇とのつながりは保っていたようだが、1200年(正治2年、60歳頃)の初度百首で数十年ぶりに歌壇への本格復帰を果たした。この頃には既に出家している。晩年には父頼政の所領であった若狭国宮川保の地頭職を継いでいる他、伊勢国の所領をめぐる訴訟で高齢を押して鎌倉出訴の旅に出る等の事跡もある。これらを縫って歌人としての活動は継続し、1216年(建保4年、76歳頃)の『内裏歌合』まで健在だったことが確認できる。『千載和歌集』以降の勅撰集、『続詞花集』・『今撰集』等の私撰集、家集『二条院讃岐集』等に作品を残している。
逸話
- 二条院崩御の翌1166年(仁安元年)、『後白河院当座歌合』の場での、内裏歌合のベテランらしい讃岐の立振舞が伝えられている。
- は、延々と続く本歌取りのもととなった。「恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず代りにしぐれの雨が過ぎていった、という恋歌の風情を纏綿させている、『ふる』の使いわけに、歌の中心がある」というのは、浅い読みで、人事と自然の対比にこそ「歌の中心」があると言うべきという。後続の歌
- この二条院讃岐の歌は、さまざまな連歌・俳諧に取り入れられていった。
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
- 私撰集等
- 私家集
- 『二条院讃岐集』(真観本)(鎌倉時代中期写本 冷泉家時雨亭文庫 重要文化財)
百人一首
- 「沖の石の讃岐」はこの歌によりつけられた異名である。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 古城明美 「二條院讃岐集考」 『香椎潟』 21,37-42 1975年10月15日 福岡女子大学
- 森本元子 『二条院讃岐とその周辺』 笠間叢書 1984年5月 笠間書院 ISBN 978-4305101822
- 小田剛 『二条院讃岐全歌注釈』 研究叢書 2007年12月 和泉書院 ISBN 978-4757604315
- 伊佐迪子 「二条院讃岐新考」 『佛教大學大學院研究紀要』(01-21) 2008年3月1日 佛教大学大学院
- 伊佐迪子 「二条院讃岐の人生」: 前半生を中心に 『佛教大学大学院紀要』(22-36) 2010年3月1日 佛教大学大学院
- 伊佐迪子 「二条院讃岐の実人生:後半生を中心に」 『佛教大学大学院紀要』(22-36) 2011年3月1日 佛教大学大学院
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