毛利氏(もうりし)は、武家・華族だった日本の氏族。豊臣秀吉に豊後国の大名に取り立てられ、江戸期にも同国佐伯藩主家として続き、維新後には華族の子爵家に列した。
本姓は宇多源氏(佐々木氏嫡流六角氏流鯰江氏支流)だが、養家の姓により藤原北家三条家と称する。大江姓毛利氏との血縁はないが、毛利の家名は毛利輝元に与えられたものである。
宇多源氏の末裔で佐々木氏の嫡流にあたる六角満綱の子高久が、藤姓三井乗定の養子となって、近江国愛知郡鯰江荘にあって鯰江姓を称した。鯰江氏は代々六角氏に仕えるが、鯰江定春の代に織田氏に攻められ鯰江城を失うと、同郡内森に移住し森を姓とする。なお、三井財閥当主家三井家の所伝によると、三井家は鯰江氏と同じく三井高久を祖とし、同族にあたるとされる。
定春の弟森高次は織田信長に仕え、尾張国中島郡に領地を得る。豊臣秀吉が台頭し、中国攻めの総大将となると、高次の子高政はその幕下となって播磨国明石郡に約3,000石を得る。
天正10年、秀吉と中国の毛利氏が講和した際、高政は人質として毛利氏のもとにとどめられた。その折り毛利輝元より毛利姓を与えられ、森姓から改姓した。文禄2年(1592年)に豊後国日田郡、玖珠郡2万石を所領する大名となり、関ヶ原の戦い後の慶長6年に豊後国佐伯藩に移封される。以後子孫は佐伯藩主として続いた。
最後の藩主高謙は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で佐伯藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると毛利家も大名家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に当時の当主高範が旧小藩知事として子爵に列せられた。高範は宮内省に式部官として勤務する一方、毛利式速記学校長を務めた。
昭和前期に毛利子爵家の住居は東京市淀橋区柏木にあった。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou